短編集「アレフ」考察#1-18『不死の人』

"ソロモンは言う、地上に新しいものは無い。それゆえプラトンは思いいたった。すべて知識は追憶にほかならない。ゆえに、ソロモンも自説を述べる。すべて新奇のものは忘却にほかならない。”
フランシス・ベーコン『随想録』LVIII

「不死の人」
この短編は表題作に次いで重要な作品であり、序章に最も相応しい作品でもある。物語は上記の引用から始まる。要約すればこうだろうか。
「地上に新しいものはないから、人は全てを知っているはずだ、知識とは追憶である。もし新しいものを見つけたのなら、それは新しいのではなく、ただ忘れていただけである」
これは、「輪廻の中で人は全てを知って生まれる。ただ誕生の衝撃でそれを忘れているだけだ。生の中で、知識を追憶してゆくのだ」というプラトンのアナムネーシス(想起論)に、ベーコンが新しく「新奇とは忘却である」という解釈を付した形の引用文だ。しかしここにおいてボルヘスがアナムネーシスのほうではなくベーコンから引用したことには何か意味があるはずであり、それがこの物語を解く鍵になると私は考える。

先に伝えておかねばならないことだが、物語の全てをここで説明するのは難しい。この物語は特定の主題を構成するためだけの要素をつなげたような、つまり最初に出会いがあり、困難があり、発見があって、最後に解決するようなものではなく、ふとした川の呼び方の違いだとか、ある都市を形容する言葉などさまざまなものが等しく重要であり、全てが不可分になっているからだ。また、それらはいくつかのミスリーディングにもなりうる。
よってここからはこの物語を読んだことがあるか、手元に持っているものに向けて考察を進める。

「永遠による忘却」

この物語が一見して主張するテーマは「永遠がもたらす忘却」である。
永遠なる時間は死という万物を区切る楔を忘れさせ、死を知らぬ人間以外の動物と同じように言葉を失わせる。彼らにとって具象とはほとんど一点に集められた取るに足らないものに過ぎない。つまりテレビの画面を百メートル離れた場所から見てもそれをまるで知覚することができないように、不死によって全てのことを経験した(あるいはこれからの未来にするであろう)彼らにとってはただの草木の感触だとか、鳥の囀りだとかは無限の円環の中に押しつぶされた些細なできごとであり、彼らの存在を既定するに足りなくなってしまうのだ。
彼らにとってこの地上に新しいものは何もなく、彼らは全てを知っており、故に彼らは、彼らの内部、つまり思索に没頭する。そうして、人間を失う。

「不死がもたらす死」


後半において、書き手が複数存在していたことを書き手は示唆する。
書き手はある一節において、史実に従えば相応しくない呼称を用いたり、あるいは特定の出来事を強調して書いたりと、一人の人間が書いたものであるのに、そうでないようなそぶりを見せる。
これは永遠が個人を規定する楔を奪い、フラミニウス・ルーフスと呼ばれたものの意識をその他の不死なる人々へと溶け込ませたことを意味する。
フラミニウス・ルーフスにとって勇敢な物語であったものは、やがて知識を増すに連れてホメロス的になり、あるいはカルタフィルス的になった。
そうして、あらゆる人間を象徴する言葉と混じり合って、何者でもなくなった。つまり、死者にだ。
何者でもあることは、何者でもないことである。
全てであることは、無であることになる。
不死の先に辿りつくものは、死そのものに他ならない。
彼らは主体を、記憶を失った。
記憶が消え去ってしまえばあとに残るのは言葉のみである。
そうしてある人の言葉だったものは別の人間の言葉と混じって、一つの歴史を作り上げる。それが「不死の人」という物語、あるいはボルヘスの作品そのものである。
歴史とは記録であり、言葉であり、記憶ではない。
そこにあったはずの記憶、それが恐ろしいものであったか勇猛果敢なるものであったかを問わず、それらはもはやこの地上のどこにも残ってはいない。記憶の全ては死によって閉ざされ、後には言葉だけが残るのだ。
それは、この物語の実在如何に関わらず、事実である。
つまり、ホメロスが不死となり都を作ったことが、あるいはフラミニウスがその都にたどり着いたことが、たとえ全てフィクションであったとしても、彼らのたどった結末、永遠による個人の忘却とその先の死、そして後に残った歴史という名の言葉の残滓はすべて論理の上に起こる必然であり、それが実際に存在したかに関わらず、それはこの現実に存在するのだ。

本当はここで記事を終えたいのだが、最も重要なことをまだ記せていない。

「不死の人」という物語は、それそのものが冒頭の引用文の象徴である。

冒頭の引用文は、神秘的であり、哲学的であるが、論理的に考えるとプラトンの主張は意味が通らない。輪廻、永劫回帰の類が存在するかは疑わしいものだし、たとえ宇宙が繰り返していたとしても、それが、そのすべての記憶を個々人が内包しているという論拠にはならない。
しかし、この「不死の人」あるいは短編集「アレフ」に含まれるいくつかの短編「ザヒール」「神の書跡」などを鑑みれば、ボルヘス自身の解釈が浮かび上がる。つまり
万物が等しく法則に従って存在するのなら、あらゆるものが内包する真理と宇宙の全てが内包する真理は同じである。
故に一つを知ればこの宇宙の全てを知ったことになり、この先何があって、あるいは過去になにがあろうと、それらは同じことである。
つまり、物語とはすでにその内部にて語られ尽くしており、我々はただ忘却し、追憶する過程の中でのみ、新しい物語を紡ぐことができる

それこそが、引用文の引用によってボルヘスが付した解釈の真意であり、「不死の人」がもつもう一つの主題なのだ。つまりボルヘスは、すでに存在する歴史や物語のほんの断片(つまり大部分が忘却されている事柄)をつなぎ合わせて別の物語を作ることで、すべて知識とは追憶であることすべて新奇とは忘却であることを示している。
つまり、この物語には三重の主題が存在する。
ひとつ目は「不死の人々の物語
二つ目は「不死の人々の物語が、書き手の主体を失って紡がれることでメタ的に示される不死の人々の主体の忘失
そして三つ目が「歴史の断片を繋ぎ合わせたメタ作品を作ることで浮かび上がる引用文の証明」である

以上が概ね私が示す「不死の人」の解釈であるが、これはボルヘスの定めた正解を意味しない。ボルヘスは作品の中で「アナムネーシス」を直接否定したことはない。また、本当に究極的な解釈を求めるのなら、「不死の人々の都」についても言及するべきだろう。特に、その不死の人々の都が、一見神々の作りたもうたものに見えながらも、その実吐き気を催すほどの醜悪さを持ち、また、そこに至るまでに果てしのない迷宮が訪問者を待ち受けていることを考えれば、これがボルヘスのテーマの根源に関わっていないなどとは考えづらく、本来は考慮にいれて然るべきである。
しかしこれらはどちらにせよ冒頭の引用文に帰結する話なのだから、特別触れる必要はない。
あくまで私が示しているのは一つの途中式であって解ではない。
言い換えれば、ボルヘスが歴史に対してそうしたように、私はボルヘスに対して論理的必然性からそのテキストに、ある特定の解釈(物語)を付与したに過ぎない。
そしてそれこそがボルヘスが読者に求めるものであると考えているし、むしろそれ以外の方法で、ボルヘスの文学を読む方法などないとさえ、私は考えている。
ボルヘスを外部の特定の知識(ボルヘスは〇〇年にこう発言して〜など)に結びつけて考えたところで、それは正解にはなり得ない。
重要なのは作品を読んだ個々人のそれぞれが織りなす論理の中にどのような答えが生まれるかであり、その思考の過程こそがボルヘスを読むという行為なのだ。
この主張に共感いただけるかは、この短編集「アレフ」を私とあなたが読み解くに連れてわかってくるだろう。

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