SS『The Gift of Attachment Act 肆』
――Kirihito the Fool
しくじった――
腹の奥底まで、食ったら死ぬものを呑んでしまったような感覚。
悪い予感を通り越した、最悪がせまっているのを実感した感覚。
逃げろと叫ぶ本能と、もう逃げられないと悟ってしまった感覚。
しくじった、見つかった、気づかれた。尾行られている。
否、違う。
もう囲まれている、包囲されている。敵の庭で、罠に落ちている。
しくじった――
テシカガは暗やみの中、歩を進めながら。
2月の最初の週、雪よりも冷たい雨が降ったあとの都会、その暗がりを独り、進みながら……首筋に、汚い雑巾を押し当てられたような悪寒、ごまかせない恐怖を感じながら。
「畜生、いつから見られていた? ……この俺が、糞め」
低く、吐き捨てて。
走り出したい、走って逃げ出したい衝動を押さえつけながら……歩を進める。
ニューヨーク、マンハッタン島。
高層ビル、商業ビルが密集して夜空にそびえ立っている摩天楼、その中でもひときわ高いエンパイア・ステート・ビル――
昨年、大ヒットした怪物映画で巨大な猿がよじ登った、そして撃ち落とされたそのビルの尖塔が星のない夜空を突き刺している、マンハッタン5番街。
夜の雑踏に紛れて、その摩天楼を――アメリカでも最も栄えている大都市、商業地区を偵察していたテシカガは、彼が気づいたときには……。
「……なにもんだ、糞……! なにに、ツケられている……まずいぞ――」
雑踏の中で、明確に……彼は尾行されていた。
テシカガは、それに気づき。
雑踏、車の渋滞の中を抜けてそれを撒こうと、切り抜けようとしたが――
尾行している者、否、集団の気配は濃くなる一方。逃げられていなかった、切り抜けられていなかった。
まずい――
テシカガは、路線バスに飛び乗るふりをして……すぐに降り、渋滞している車列のあいだを、車の下をネズミのように身を低くして駆け抜け……全く別の大通り、その歩道で雑踏に紛れる。が……。
まずい――
尾行を、追跡を撒けていなかった。
テシカガは、西へ。万が一の時の逃走先に決めていた、マンハッタンの5番街まで進み……華やかな照明、夜でも真昼のように照明がまたたく商業地区から、薄暗いダウンタウンへ――スラム、といっていいブロックへと、必死に自分を抑えて歩いて。
通称「ヘルズ・キッチン」。
ほとんど照明がない、あってもまだ裸火やランプの明かりがぼんやりと、まばらにあるだけのクリントン地区、テネメントと呼ばれる集合住宅、泥をこねたような安アパートの建物が立ち並ぶ通りに歩を進めて、初めてテシカガは……走った。
「ヘルズ・キッチン」の通りには、回収されないゴミの山、ビル群を建てた時の廃物、瓦礫などがそのまま放置されていて、真っ直ぐなはずの道路を迷路のそれのようにしていた。
そのスラムの通りを、悪臭を放つ泥道をテシカガは走って――
黒い外套に包んだ身を低くし、地面を這うようにして……疾走った。
……だが。
しくじった――
このスラム、「ヘルズ・キッチン」の下見はしてあった。
アイルランド系移民、雑多な品民たちが密集して住むこのスラム。すぐ近くにある摩天楼とは、通り一本隔てただけで別世界のここならば――
ESBに本拠を構えている、ミッドタウンを支配しているマフィア、コーサ・ノストラ。5大ファミリーの首魁であるマンガーノ一家の支配は入り込んでいない、イタリア系とは憎しみ合っているアイルランド系が多いこのスラムなら、隠れる場所、逃げ切れる街路はあると……テシカガは踏んでいた。
……だが。
「糞っ、この貧民窟までやつらの巣か――」
悪臭を放つゴミと汚物の山、ビルの代わりに取り壊された前世紀の建物の残骸、レンガや土砂が積まれている街路を走るテシカガは……背後だけではない。彼の前にも、「追跡者」が。「敵」がいるのを察知して……日本語で、吐き捨てる。
「どういうことだ……? これは……追っ手は――マフィアども、なのか……?」
まずい。このまま、スラムの暗がりを逃げていても、いつかは包囲の輪を縮められて捕らえられる。逃げられる、戦って勝てる相手、数ではないと……テシカガは、本能で察知し、そして。吐き気のような恐怖を胃袋の底で感じていた。
しくじった、いったんこのスラムを抜けて、別の街区に――人混みと灯りのあるほう戻ったほうがマシ、ニューヨークの人々、市民と雑踏を盾にして逃げたほうが生き延びる機会は、ある。
テシカガが、真っ直ぐ走るその脚、ブーツの靴底に……横に飛ぶ力を撓めた、そこに。
バチュン!と。
音速を超えた衝撃、弾丸がテシカガの耳朶、足の間をかすめて舗装されてない泥道にいくつも、突き刺さる。一瞬、遅れて。
短く鋭い、いくつもの銃声が闇の中で響く。
このスラムでは、銃声が響いても……騒ぎにもならなかった、誰も出てこず、悲鳴もしなかった。
……撃ってきやがった!? 貧民窟とはいえ街のど真ん中で!?
……しかも――殺す気で、威嚇とかではなく、射殺する弾道、射点で。
……銃声があとから聞こえる、距離のあるライフル銃の狙撃。
……しかもこの暗やみで、黒い外套で身を潜める、走るテシカガを。
……正確に、しかも複数の射手、狙撃手が……射殺弾道で狙ってきていた。
「畜生!!」
テシカガは、レンガの瓦礫の山に駆け上って、そこから身投げするように跳んで――街路に打ち捨てられていた廃車、フォードT型の残骸の影に……だが。
「……ちくしょう!!」
ガイン! ガン!! と。正確な狙撃が、ライフル弾がフォードの残骸を粉砕し、射抜いて、身を潜めようとしていたテシカガを、弾丸と、吹き飛ぶ鉄片で泥の街路へと追い立てた。
フォードのエンジンブロックすら射貫するその弾丸は、軍用の.30-06弾――しかも、弾頭を抜き取って逆に刺した、徹甲弾の一種。射程は50ヤードほどになるが……。
車の残骸、レンガの壁ていどではその徹甲弾の射撃の盾にはならない。
テシカガは、泥道の街路に追い立てられ、走って。
「南無三……!! ……糞っ、滅びろ宗教!!」
外套の下で、テシカガの左手がひるがえって――投擲。
先端に鉛の分銅をつけた腸線が暗やみの中を跳んで、安アパートから突き出していた看板の支柱にその先端を絡みつかせる、と同時に――テシカガの左手はそれを引き、靴底が泥を蹴って……跳ぶ。
紐の張力を助けに、跳んだテシカガのいた泥道に数発の弾丸が突き刺さる。分銅付きの紐を離して捨て、建物の影に転がり込むように跳んだテシカガは。
「……畜生、力が―― まだ肝の傷が、筋が痛む、力が……入らん、畜生め」
吐き捨て、腹の中で呪詛したテシカガの前に――
「――……!!」
「…………!!」
いつからそこに潜んでいたのか――
テシカガの逃げる先がわかっていた、待ち構えていた……否、あるいは。
このスラムの至る場所に、潜んでいた追っ手、「敵」が。
「ちぃいいッ」
煤をまとわせて白刃を鈍色にしている、邪悪な刃の山刀がテシカガを襲ってきた。
建物の、安アパートの裏口に二人――真っ黒い、軍服のような服に身を包んだ男たちが。
「ああ、腹の傷が! 糞! あん畜生がぁああ!!」
テシカガの頭蓋、右の腕を狙って振り下ろされる刃――だが。
それは、囮、罠だと……テシカガは瞬時に悟って。
背後から音もなく迫り、彼のブーツを、膝裏の腱と神経を狙って走ってきた三本目の山刀に、軍服を着た殺し屋に――
「残念ッ!」
ぐるん、外套をひるがえさせて回転した、二本の山刀を躱したテシカガの身体は、そこから放たれた右の手が……得物を放つ。テシカガの肩から下げられている本の束、そこから――柄の外された、四角い刃の包丁の中子を中指と薬指で抜き放ち、居合で……放つ。
ガボッ、と。魚の頭を包丁で割ったときと同じ音がして――背後から襲いかかっていた暗殺者は、包丁の刃で両の眼窩を脳髄まで切り裂かれて泥の中に突っ伏す。
――得物を、回収、抜き取っていられなかった。どのみち、刃はもう潰れていた。
四角い肉切り包丁を捨て放ち、切り捨てたテシカガは。
「手前も地獄に逝けぇえええ」
猿叫のように吐き捨てて、テシカガは本の束から次の包丁を、先の尖った家庭包丁をつかんだその手で――攻撃を空振りした暗殺者の一人に体当たりするように……その腹に、包丁を深々と突き刺した。
その包丁も、抜いているヒマはなかった。
廃墟で拾い集めた包丁では、研ぎ直しても刃がなまくらで、刺殺した人体の筋からは抜くに抜けないのだ。
ほぼ瞬時に、仲間が二人、倒された暗殺者だったが……残った男は全く怯まず、山刀を構え……テシカガと正対する。
……まずい--
こいつに手間取っていると、背後から包囲される、撃たれる。
テシカガは、建物あいだの路地を背後に跳んで――同時に、本の束から分厚い中華包丁を引き抜いて……放った。
地面に、暗殺者の足を狙った軌道で投げられた刃に、その男は……手練の暗殺者は、半身だけずらしてテシカガの包丁を泥道に突き刺させ、躱す……が。
「阿呆が、手前もだあッ」
背後に跳んだテシカガ、その脚が――暗殺者には見えていなかった、中華包丁の柄、握りが外されていた中子の目釘孔に通されていた黒い腸線、その強靭な紐を……テシカガの脚が蹴り上げ、テシカガの身体が紐を背負投げのように巻いて。
「――……!」
泥道から、紐で跳ね上げられた中華包丁は暗殺者の脚に、その股間――太ももの内側と男根の間に、人体でも最も太い動脈が走っているそこに深々と突き刺さって……暗殺者を激痛と瞬間的な出血でつんのめらせる。
「けけけ、十秒は意識があるぞ。死を楽しめよ」
唾棄するように吐いて嘲笑ったテシカガは、血まみれの包丁を紐で引きずったまま、街路に転がり出て……疾走する。
敵が、追跡者がどれほどの数がいるのかはわからなかった。
しかも……相手は素人では、ただのヤクザではなかった。
明らかに……訓練された、連中。
窮地は切り抜けても、このスラムが自分の死地であることに変わりはない。
――しくじった。
――これはもう、駄目かもしれぬ。
――自分は、もう……生きては、戻れないかもしれぬ。
――……。戻る? 何処へ? 生きて、何処へ?
――戻る、場所は……。切符は片道、それとも。嗚呼。俺は……畜生。
腐臭を放つゴミの山、便器の中身をぶちまけたような泥の街路に跳び、走ったテシカガは――
――ふ、と。
「…………」
空気が……変わっていた。
鼻に、舌に。肺の腑に。酸素の甘みを感じ、まだ生きて呼吸しているテシカガは。
「…………くそ――」
スラムの街路に、泥道に……もはや、狙われたネズミのように走ることも、止め。
ただ……立ち尽くす。
自分への追跡は、包囲は終わっていた。攻撃も、止んでいた。
スラムの街路には、泥道の両側に立ち並ぶ安アパート、ボロボロの倉庫、瓦礫の山の前に――
「――…………」
「――…………」
黒っぽい軍服に身を包んだ男たちが――
全員、ワスプやイタリア系の白人ではなかった――
浅黒い肌、黒い髪の……南米系の顔立ちの、殺し屋たちが――
街路の両側に、壁を作るように立ち並んで――
その手には、軍用ライフル、マシンガン、山刀が――
テシカガを狙ってはいなかっったが、おそらく――
「何か」の合図で、攻撃を止めた、その男たちは――
「何か」の合図で、今度こそ、テシカガを殺す――
「何か」の合図で、テシカガは泥の中のゴミとなって消える――
その死に、テシカガは包囲されて――いた。
その「死」の只中で、テシカガは――
……だが。
「…………なん、だ――」
死の包囲、殺し屋たちの回廊のただ中で、テシカガは。
泥道に立つテシカガは、自分の目の前に進んできた「何か」の前で……得物の包丁を手に引き戻すことすら……できず、ただ。
「……な、なんだ……なにが――」
空気に、泥道から立ち上る腐臭まみれの空気に。
……なにか、別の臭いが。
……テシカガに、墓場に置き捨てられて腐った供物。傷んだ水菓子を連想させる――甘ったるい、油染みた悪臭。煙にのって漂うそれが……まとわりついていた。
……何かが――
泥道を進む、その足音が。
何かが――テシカガの前、5ヤードほど前に進み、そこで立っていた。
「……誰……何……だ――」
声が、震えてしまっていた。テシカガは、自分の唇が血の気を失っているのを感じて……ただ、それだけを口から絞り出していた。
その、テシカガの声。
その声なぞ、聞こえなかったかのように。
ぱん、ぱん ぱふ、ぱた、ぱた ――と。
その、間の抜けた音は……その「何か」が。
何かが、テシカガの眼の前で、両の手をやる気なく打ち合わせた、嘲るように、やる気のない拍手をした音だと……その音が消えてから、テシカガは気がついた。
「な……なん、なんだ――」
テシカガの、絞り出したような声に。
その、目の前の「何か」は――
「あの程度では死なないか。さすがだねえ、疾犬の手駒は」
喋っていた。英語で、気だるそうに。嘲り笑いのような声で……言った。
「……!? ……お、おまえ―― ニシパのことを、俺のことを――」
「ごきげんよう。あんたと、会うのは初めてだが」
――ずっと、見ていたよ。
その「何か」は……人間だと。
その「何か」は……男、まだ若い、白人の男だと。
テシカガは気がついて――その喉仏が、ごくり、渇いた音を立てた。
「……!? な……ジャ……ニシパ……?」
「なぜ、ここに―― ……な、な……いや、否、違…………」
テシカガの目が……目の前の男の姿に、動揺する。声を発する機能のない両の眼球が、慟哭する。
「お、おまえは……何…………」
テシカガの眼の前に、現れたのは――
凶悪極まる、武装した殺し屋集団の回廊の中で、何処からともなく現れたその男は――
否、この殺し屋たちを率い、この包囲を完成させた……その男は――
最初、テシカガは一瞬、見間違えた。
テシカガを陶酔させる、焦燥させるあの金色。疾犬、ジャンカルロと同じ金色の髪。この腐臭まみれの、スラムの暗やみの中でも……そこにだけ、黄金の煌めきがあふれているような金色の髪。
だが……ジャンカルロと違い、女性の長髪のようにその髪を背中の中ほどまで伸ばし、所々を編んでいる……その男。こめかみのあたりに、金色が薄くなった銀がメッシュのようになっている男。
なぜ、最初……ニシパと見間違えてしまったのか。
金髪と顔貌以外は、似ても似つかない……その男。
……否。ジャンカルロ・ニシパと同じくらいの歳、同じくらいの背丈。同じ白人、コーカソイドの体格、顔つき。そして――ジャンカルロに似た顔、金色の、瞳。
穴の空いた作業ズボンに、ところどころ裂けた、薄汚れたシャツを着た……男。何かの挿し絵が、コミックの犬が描かれたシャツを着、その腹の破れのところに片手を入れて、気怠く腹を掻いている……男。
その男は……もう片方の手で。紙巻きの煙草を口に運ぶ。
それは……。
――この臭いのは ――大麻か…………。
男は、よれよれの紙巻き煙草のようなものを口に運んで、吸い、ふかして……甘ったるい、生臭い煙を暗やみの中に漂わせる。
その男は――
「マンハッタンへようこそ。ロックウェルの、犬の墓」
「……! きさ、ま……畜生 ……どうして ……否 よもや……よもや。俺はずっと遊ばれていたのか」
マンハッタンの一角、「ヘルズ・キッチン」の街路を包囲し、死の回廊を作っている軍服の殺し屋たち……それを指揮し、手懐け、命令ひとつで操っているのは……目の前の、男だった。
だが……。
凶悪なマフィア、シカゴのビッグ・ボスたちのような大物とは、全く違う……下町で、くすぶって沈殿しているような、チンピラのような……大麻で心が腐っている、だらしない姿の、若い男。
その矛盾と現実に、テシカガは……自分が、その男に「呑まれ」ているのを感じ。
「殺せよ。その前に、おしゃべりの時間か―― いいぜ、やろうぜ」
威勢を、張った。それを隠せなかったテシカガ、その震えた声に、目の前の男は。
「――ジャポーネ。日本国、北海道。小樽出身の…… キリヒト」
「……!!?? な――」
男の口が、粘っこい煙を吐きながら言ったその言葉は――
テシカガが、誰にも、この国に来てからは、誰にも。あのジャンカルロ・ニシパにも明かしていないもの、個人情報だった。
それを、あっさり。どうでも良さげに言い捨てたその男は。
「君の父親は、育ての親の男は……母親と籍を入れていない。だから姓は無い、いや、母親の出身地の村の名前が君の姓だ、キリヒト」
「……な……!! お、おま……」
「君は、日本国で共産主義活動を行い、何度か逮捕。そこで官憲を殺傷し、指名手配され……日本国から密出国。満州、シベリア経由で……アメリカ、ロサンゼルスへ密入国――」
「…………」
テシカガの顔から。その唇から……水死体のように、血の気が引いていた。
「その後、中国人労働者に混ざって、東へ。労働争議に紛れ、こちらでも共産主義活動、破壊工作――デイバンでは、コミュニストグループと結託、二年前の、あの騒乱を引き起こしていた」
「……くそ――」
「組織では、君の名はメフィスト。コミンテルン外では、テシカガという名前。日本国の官憲の調書では――君は、トロツキストだからな。ソヴィエトの下部組織では居心地が悪かったことだろう」
「…………よく調べたもんだな。ベイトの野郎ももう死んでいるのに」
「ああ。だいぶ金を使ったよ。だが……」
男は、燃え尽きかけの大麻の紙煙草を泥の中に捨てて――
たのしいねえ――
唇から、生臭い煙を漏らしながら……笑う。
「……畜生―― そこまで調べて。今まで、俺のことを泳がせて――なにがしてえんだ」
「なにが? 決まっている」
たのしいからさ――
破れたズボンのポケットから、大麻の紙巻きをつまみ出し、ライターで火をつけた男は……どろん、と濁った目で……暗やみの中、テシカガを見据える。
その眼に……ジャンカルロ・ニシパと同じ色の瞳に。同じ作りの顔に――
テシカガは、胃の腑が。空っぽだった胃袋が、握りつぶされるような嫌悪感、そして……困惑を感じながら。
「……そりゃ、どうも。……あんた、いったい――」
「あんたの知っている男だよ、キリヒト。……アハハ、僕と。パパたちのことをずっと嗅ぎ回っていただろうに」
「……!? ――まさか…………まさか……」
まさか――
戦慄したテシカガの前で、男は破れたシャツの下で、ぼりぼり腹を掻きながら。
「ロックウェルに、ギャングのGD団の本拠地に。生きて落ち延びた疾犬のジャンカルロ。あの街で、また戦力を、資金を集めている――その一人が、古株の君だ、キリヒト」
「こっちも嗅ぎ回ったさ。……デイバンのクソッタレどもが、この街、ニューヨークのマンガーノ一家と同盟した。そこまでは飲み屋でくだまくおっさんでも知ってる。……ロックウェルを攻める気か」
「どうだかね。パパがどうするかは、知ったことじゃあ、ない」
男は、また煙を唇から漏らしながら笑うと。
「疾犬の手駒で、いちばん興味深いのが……君だ。キリヒト。一度、会っておきたかった。……アハハ、予想通り、思った以上。たのしいねえ、君は」
「……糞が。やくざの道楽息子が。陰金が脳に回って死に腐れ――」
テシカガが、日本語で低く、泥の中に吐き出すと――
「……Shit, what the hell is this? Some Mafia pretty boy……jock itch……」
「……なっ」
――気づかなかった。嘘だろう、この俺が?
その金髪の男の背後には……もう一人、殺し屋とは別の男が、いた。
背の高い、いい仕立てのスーツに身を包んだその男は……眼鏡をした、黒髪を長く伸ばした東洋人。だがテシカガとは違う、北中華系の凛々とした顔立ちの男だった。
その男が、テシカガの吐いた言葉を……英語に翻訳して、金髪の男の耳元で言っていた。
「……くそ――」
「アハハ。葉、そこまで訳さなくてもいい」
だいたい、何を言っているかはわかる――
煙と一緒に笑った、その男は。
「今夜は、挨拶だけだ。キリヒト。次は……別の形で会おうか」
「……は? どう言う意味だ――俺が、ニ度も捕まる莫迦だと言いたいのか」
「僕は、君みたいな。たのしい男が好きなんだ。……ああ、思い出すよ――」
吸いさしの大麻を、泥の中に捨てた男は――
「……兄貴、兄ぃ。……懐かしいや。勝ち星、バカヅキ」
「アハハ、たくさんの思い出――兄ぃ 手が届かない……俺の星」
男は、背後にひかえていた男が――何の合図もなかったはずなのに、うやうやしく差し出した「何か」を受け取ると。
それを……テシカガに、放り投げた。
「う、うわ……」
テシカガは――犬に棒切れを投げる、そのままの男の行動に。
呑まれたまま、その「何か」を両の手で受け止めて、手の中にしてしまって……いた。
「……な、なんだ――これ」
テシカガの手の中に、在った……それは。
何かの木の枝、ひどく古びた……化石のような、木の枝。
だが、テシカガの手の中で「それ」は、体温で成分が揮発し、甘く苦い……芳香を立ち昇らせる。
「それ」の表面には、青銅の刃で何かの溝が幾筋も刻まれ……それは果たして何世紀、否……どれほど古のものか、緑青の痕跡と化している。
「それ」は――没薬の小枝……だった。
特定の目的をもって伐られ、青銅で刻まれた……小枝。
「……没薬? くそ、やっぱり俺を死体にする気か――」
わけがわからない――
だが……その小枝を、泥の中に捨てられずにいるテシカガに――
あの金髪の男の背後にひかえていた、長身の中国人が……言った。
「それは。小日本の貴様などではたとえ千年生きて這いずり回ったところで、到底、手に入らぬものだ。……若様に感謝するのだな」
「は……? うるせえ、俺は日本人じゃねえ、この――」
吐き捨てたテシカガに、金髪の若者は……また、大麻の紙巻きに火をつけ。
「アハハ。それはもう、キリヒト、君にあげる。……もし気が向いたら。もし……小金が欲しくなったら、それをウォール街に。ナショナルシティ銀行にでももっていけばいい。黄色の君でも、それを門番、守衛に見せれば――すぐ、平身低頭してくる頭取に会えるはずだ」
「は……? な……おまえ、いったい――」
だが……その時には――
テシカガが気づいたときには、彼を包囲し、泥道の両側を囲んでいた……軍服姿の男たちの姿は、完全に消滅していた。
暗やみの泥道には、テシカガと――数歩、離れた場所に立つ金髪の男、その従者だけ……だった。
そして――
甘ったるい煙をくゆらせる大麻の紙巻きを、泥の道に捨てた金髪の男は。
「疾犬にも、そのうち会うことになるだろう――その時は、よろしくな。キリヒト」
「……俺に、言付けの小僧をしろと?」
「それは君次第だ。メッセンジャーボーイでも、もっと大切な「ものを届ける役でも。それまでは……パパの子分なんぞに見つかって、殺されないでいてくれよ。キリヒト」
「おまえは、マンガーノの……どういうことだよ」
「君は、僕に似ている。……兄ぃにも。……父親が、父親じゃあない。――ああ たのしいねえ」
あはははは と――
泥道で、その若者の哄笑が弾けて……そして、フッと消え。
「…………。……クソ、糞…………」
あの金髪の青年の姿は、その従者の姿も――消え失せていた。
ただ、そこには――
「畜生…………」
テシカガの手の中の、没薬の香りの小枝――
テシカガの周囲に残る、乳香のような甘ったるい大麻の煙の残滓――
テシカガの眼球、眼窩から神経、脳髄に焼き付いた……。
テシカガの憧憬、焦燥、絶望と、未練と同じ色……黄金色の、あの男の髪――
「三つの贈り物かよ……糞ったれた冗句にもほどがある。……ニシン小屋の不義の子か、糞」
吐き捨て、泥道でよろめいてしまったテシカガは。
そのまま、殺し屋たちの壁が消えた泥道の街路に、打ち捨てられたレンガの壁によろめき、手をついて……そして。胃の腑から口へ、嫌悪感しか無い自分の唾液があふれるのを、感じ。
「……げええええええ」
空っぽの胃の腑から、胃液を吐き戻して……いた。
……だが。
何度、嗚咽、嘔吐しても……テシカガの腹の奥の悪寒、嫌悪、不安は消えなかった。
「くそ、くそ……吐き出せねえ……畜生、あの野郎――俺に……」
黄泉戸喫を食わせやがった――
目から入ってくる毒、呼吸器から入ってくる悪意、会話しただけで感染する絶望――
死んだほうがマシだった――ニシパを、巻き込む寄りは……。
テシカガが、自分の嘔吐物で喉と鼻を焼かれながら、よろめき……。
「……糞……。こんなの――ニシパに話せない、報告できない…………」
それが、最悪の毒だった。
もし。この場での邂逅を――「あの男」との遭遇を、疾犬のジャンカルロ、ショットガン・バクシーに話してしまったら、報告してしまったら……。
あの男の、底なしの悪意と絶望に……ニシパたちを引きずり込んでしまう。
自分に、できる唯一の抵抗は――
この「毒」を独り、呑んだまま。腹の奥で腐らせたまま、自分一人だけ、地獄に落ちること……それだけだと、テシカガは悟って……だが。
「……ああ、嗚呼、ああ、ニシパ―― 俺は……」
ロックウェルに戻らねば。
ニューヨークと、デイバンで何が起こっていたのかを。
マフィアたちの連合が、死に体のはずのデイバン、CR:5を。
潰すどころか同盟相手として……担ぎ上げている、異常事態。
ロックウェルは、東海岸全部を敵に回す流れができつつ……ある。
――報告せねば。生きて、戻らねば。
――ニシパに 会って、伝えねば。生きて、また……また――会って。
――会って どうする 会っても想いは遂げられぬ 裏切るだけの懸想。
――だが だが だが……。
「……ニシパ……。 ……ジャン、さん――」
いまのテシカガにとっては――
おのれの口から、その名を出すだけで……ひどい裏切りをしている気分だった。
「カサブランカ」のその部屋には――
窓から緩い角度で差し込んでいた、夕暮れ色の陽射しも消えていた。
この部屋には、天井の電灯はない。
電灯が会ったその場所には、天井には……何があったのか、大きな破孔が開いたままで。2階の部屋にそのまま、空間が通じていた。
その2階の部屋から――その破孔から、2階の部屋の床板を懸垂の鉄棒代わりにして。
「……よっこいショーン・コーン」
するり、ぬるりと。
滑らかな身のこなし、有り余る筋力を使って。バクシーが2階の部屋から、階下の部屋へと降りてきていた。
「おかえり。……で、誰だよ、そのおっさん」
「うん。ブリテンの、ウェールズにいるサンタクロースみたいなおっさん。煙突に住んでいる。早寝する子にはクリスマスにプレゼントをもらえる権利をやろう、してくれる。なお悪い寝ない子はアイルランドにつれてゆく」
「燻製の擬人化かな。……それで?」
「ああ、あったあった」
2階の自室から戻ったバクシーは。
ズボンのポケットから、小さな本を取り出し、表紙の埃を払う。
その本は――
「世界の名作 クリスマス特集」 と、カラー印刷された表紙にタイトルがあった。
バクシーは、その本の表紙をめくり。
「これこれ。……うん、スクルージのおっさんの地獄めぐり乗ってるわ。そのあとが「賢者の贈り物」だわ」
床に掘られたかまど、そこから立ち上る炎のゆらめき、そのほの灯りの中――ジャンも、その子供向けの本に目を細めた。
「原作というか、ちゃんとした「賢者の贈り物」だよな、それ」
「うん。チラ見したけど、たぶん。……懐かしいわ、俺がガキの頃に読んだやつだ。難しい英語とかは、本の柱に「まめちしき」で注釈付いてるやつ」
「へえ。……ちゃんと挿絵もあるんだな」
「うん。これを読ませてくれた、おっさんが……この挿絵の。ラストでデラさんが髪短くして、自分でカールさせたのを俺に見せてさ。「これはこれでありだと思う、乳がデカければ」って言って。ユリエに薪で殴られてた」
「へえ。……リリーが? そのおっさんを?」
「うん。リリーの亭主。……だいぶ前に、くたばっちまった――いんちきおじさん」
「ああ。あの大砲の持ち主……」
なるほど、と。……ジャンは――
今日はめずしい、こいつが自分の、昔の話をしている――と。
それに気づきながら、そして。気づいていないふりをしながら。
「これで、こいつのおかしいところ、違和感をあぶり出せるかな」
そう言って、ジャンは――
バクシーが市場の古本屋台で買ってきた、幾冊もの古本。その中にあった……「賢者の贈り物」。読んでいると、違和感と尻の座りの悪さを感じる、それを。
薄っぺらい古本を開きながら、目を通す。
「……俺も、読んだのがひどく昔なんで。内容忘れてたせいかな」
「うん」
バクシーは、恋人の記憶力――それをツッコミせず、ただうなずく。
「この「賢者の贈り物」、なんか違和感あると思ったら――最後まで読んでみたらさ」
ジャンは、十数ページのその冊子を、ペラペラと。
「デラさんが、質屋に髪を売りに行ってるし。そしたら……」
「ああ。そこに。ソロモン王もびっくりのお宝、金時計を売りに来た亭主。ジムとばったり、質屋でハチ合わせ」
「そうそう。そしたら……ふたりとも、愛する相手にプレゼントするために、大切なものを売ろうと、手放そうとしていたって気づいて。けっきょく、髪も切らず、時計も売らずで。質屋を冷やかしただけのクリスマス」
「だるぉおおお? んで、けっきょく。二人は――お互いを思う気持ち、宝物を手放してでも相手を思うその気持こそが、最高のプレゼント、賢者の贈り物だったのです、って。でっていう。二人は幸せなキスをして終了」
「キスまでしてたっけかな? ……とにかく――違和感どころか」
なんじゃ、こりゃ? と。
ジャンは、古本の「賢者の贈り物」を、かまどの火の上でひらひら踊らせる。
「だいぶ、思い出した。そっちの、絵本みたいな「賢者の贈り物」読まなくっても――」
「うん。この古本、こいつ……有り体に申しますと」
「……偽物、パチモン。まあ、何だっけ。剽窃、っていうんだったか――」
「わけわからんよな。O・ヘンリの名前と名作に乗っかって、ぼくだけのクリスマス感動物語、を書いて。それを出版とか」
「そういう商売、出版があるのかもな。……ん? んっ、ん、んん?」
ジャンの目が、その謎の古本の表紙に。タイトル、そして下にある著者の部分に細められる。
「これさあ。作者。 O・ヘンリ、じゃなくて……0・ヘンリ、じゃね」
「アッ 気づかんかったわ。いちおう、いんちきしている自覚あって、そのまま騙る度胸はなかったのか。ミニマムちんぽの半端もんめ」
「ハハハ、やられたなあ」
ジャンは、愉快そうに笑いながら。かまどの炎の上で、火あぶり寸前の古本を揺らしながら。
「まあ、ひと山5セントの古本だ、腹立てるどころか……笑うところだろ、これ」
「町の本屋で、新書でこれ買ってたら本屋に因縁つけるわ。雑誌立ち読みしながら、途中までクロスワードやって棚に戻す。地獄の悪魔も目を背ける悪行をするわ」
「おまえがそんなに非道い男とは知らなかったな。……まあ、こういうインチキ本……」
よく、あるのかもな――
笑いながら言ったジャンは、その古本のページを親指でめくりながら。
「……まあ、本物のほうも。そっちの絵本の「賢者の贈り物」も。ちっと切ねえオチではあるからな」
「イイハナシダナー、でも、お互いのプレゼントが生きるのはいつよ? みたいな。やっぱり、プレゼントでサプライズ系は危険だわ、っていう教訓だよな」
「ああ、だから。……なんというか――幸せな二人を、その世界を救いたい、っていう気持ちは。何となく分かる、っっていうか……うん、うん――」
「あー、だから。俺が本物のハッピーエンドを見せてやりますよ、って。コレ書いちゃったってやつぅ? それってオナ……。……? ジャン……」
「…………。あ、いや、なんでもねえ。なんか、思い出しかけたけど……出てこなかったわ」
ジャンは、一瞬……金色の瞳の奥を、夜空に向けるような……焦点の会わない双眸をして、そして。
恋人の声にハッとして、また古本を火の上でひらひら踊らせる。
「思い出せなかったってことは――どうでもいいことだわな。ハハハ」
「……うん。でもそういうのって、全然関係ないときに思い出したりするよな」
「あるわー。俺もこの前、おやじとシカゴに行ったときにさ。ボングの野郎と引き合わされたときに――なんか、不意に。チンピラ時代に空き瓶にションベンしようとして失敗したこと思い出してさあ」
「あるわー。尿ボトルって、あれスキルと空気圧への科学知識無いと失敗するわー」
二人の男は、恋人たちは……。
ジャンが、何処か遠くの記憶に連れ去られかけて……そして戻ってきた――
お互い、それに気づいていながら。
お互いが、それを見ないふりをして……馬鹿話をして、天使を追い払い。
「さて。このインチキ本、どうしてくれよう」
「そのまま、かまどの灰にしちまう? しばらく、歯にネギの筋が挟まってたような気分にしてくれたが……笑わせてくれたんで、無罪放免か?」
「そうだなあ、本に罪はない、あるとしたら書いて出版した連中……」
ジャンは、古本の表紙裏をめくって……ふつうは、そこにある出版社と筆者、奥付を探し……見る。
「ハチミツの酒出版? 聞いたことねえ。場所は……マサチューセッツかよ、エセックス郡の……」
「ボストンの真上ぇ? しかも……おいおい、縁起わるぅ、やっぱ火刑にすっぺ」
「……。エセックス郡の、アーカム? そんな街、あったかなあ?」
「ああかむ? 知らんなあ。出版がありそうな街とかだと、ローレンス、ピーボディ、あとは――」
「……ハハハ、出版社、所在地までデマカセってわけだ、この本」
「やっぱり、火あぶりにすっぺ。なんか気持ち悪くなってきた」
「……うん。でも、まあ――」
ジャンは、かまどの炎、熱気の上で踊らせていたその古本を。
ぽい、と。バクシーが読み飽きて、床の上に放り投げていた西部劇の古雑誌の上に投げ落とした。
「ヤクザらしく――社会悪するか。このモニョモニョする気分の、被害者。増やしてやる。その市場で、また古本屋がきていたらまとめて引き取らせようぜ」
「それいいな。でも、こんなのまとめても1セントにもならないと思うヨ」
二人の男は、笑って。
しまったばかりだったが、けっきょく、食い物の箱からハーシーズのチョコレートの残りを出してきて。ブロックを割りながら、口の中を甘くする。
「このインチキ本の出版社なー。もし実在だったら、テシカガに放火させてたのになー」
「ハハハ、テシカガも最近……落ち着いてきたしな。砂のシノギだと、自分はできることがない、って……このごろ、ちょいダウナー入ってたからな」
「あいつ、ニューヨークの偵察でヘマこいたって報告して。しばらく、縄吊るすいい木の枝探すみたいなツラしてぼーっとしてやがった」
「テシカガのミスは……俺の判断ミスだ。あの街の偵察で、テシカガを使いすぎていた――向こうに気づかれていると……判断して、偵察は止めておくべきだった」
「でもなあ。あいつ、身バレして追跡食らって。追手を何人か切り身にして、生還したんだべ。まあ、べつにミスというほどでもないよな。どのみち、デイバンとゴッサムのやくざとは戦争だ」
「まあ、そうなんだが。テシカガにとっては、自信なくす……負けっぱなし、てなってもおかしくないわな。砂のシノギで、自分が役に立ててないって引け目もあるいだろうからな」
「……どうする? もういっそ。あいつ、カネでもやって――しばらく休ませる?」
「一度、それやったらスッテンテンで戻ってきただろ。それに……あいつを、テシカガを手放すとか、無いわ」
ジャンは、チョコレートで褐色になった舌で、唇を舐め。
「テシカガ、いまはヒマしててもらっても構わねえ。どのみち……この先は、東海岸の奴らと戦争だ。そうしたら、うちの組でも一番忙しい男になるさ」
「そうねー。……まあ、ああいう立場のやつは難しいわな。ヴァルターとかランドルフォがお役立ちグッズだとすると――テシカガの野郎は傷薬とか風邪薬、まずいことになってようやく役に立つやつだしな」
「ハハハ、せめて、保険とか言ってやれよ」
二人の男は、チョコレートも全部食べてしまって。
「……テシカガの報告していた――ニューヨークの、マンガーノ一家がデイバンと握手したってハナシ。まあ、情報としては間違いないだろうが……ちいと、想定外だったな」
「うん。てっきり、デイバン荒らされまくって、その首魁を逃がしたどころか、代紋までなくしたんだぜ、あの組。もうヤクザのメンツ丸つぶれ、そのままニューヨークに飲み込まれてくれりゃよかったんだが」
「まさかの、同盟とはな。マンガーノ一家にそれをするうま味が思いつかねえが――これで、あいつらには5大ファミリーのトップが、ケツモチになった。……虎の威を借る狐、その虎と狐の前じゃ、こっちはまだドブネズミだ」
「しってる? 猫って、意外とネズミをとらないんですわ。噛みつかれて怪我すると嫌だから。人からエサもらってたりする猫は、とくに」
「へえ。ハハハ、マンガーノがどんなエサをデイバンに食わせているのか――」
チョコレートのついていた指を舐めている、ジャン。
そこに……なにか言いたげな、まだ水が出ない洗面台とシャワーの方をチラチラ見ていたバクシーが。
「……そういえば――」
「あっそうだ」
口を開いたタイミングが、重なって。
「なんだよ」
「あ、ああ。……テシカガの野郎、さ。へこんでたのもあるけど――なんか、様子がおかしくねえか」
「ん? そりゃ任務でヘマこいたからだろ。……でも、昨日。リリーからいろいろもらって、持ち直してたじゃん。なんて言ったっけ、ジャポーネのめし、食わせてもらったり、いろいろもらったり」
「うん。そうなんだけど、さあ。……なんか、引っかかる――」
「なにが」
「……あいつ、隠し事というか。俺たちに嘘というか。……違うな――」
バクシーは、チッと音を立てて。真っ白い、大きな犬歯を剥いて舌打ちする。
「あいつ、かまってちゃんというか。なにか、察してほしいっていうか……そんな気配出してねえか? なんていうか……ジャン、おまえを見ている時の、あいつの目というか、が」
「そうか? 最近、元気になったと思うんだが――」
――まあ、いい。
ジャンは、焚き火の前から。床から、腰を上げて立ち上がる。
「コーヒーのんだら、ションベンしたくなった。……あっ」
「うん。いま、この部屋、水出ませんので」
「仕方ねえ、ちっと早いが。ホールにいっておくか、あっちのトイレ使お」
「……うん」
「なんだよう」
「その、ちょっと提案があるんですが――」
バクシーも、ぬうっと。その長躯を立ち上がらせて。その目が……恋人へ、そして。
天井に開いている、真っ暗な破孔へと……向いていた。
その週の、金曜日のこと――
「カサブランカ」のホールに、めずらしく。犬の墓の男たちが四人、そして疾犬のジャンカルロ、ショットガン・バクシー、彼らが日中、昼時に顔を揃えていた。
「――報告は、以上です。ラインフェルデン社長は、河川組合との会合で本日は戻れないそうです」
ヴァルターが、テーブルを――円卓を囲んで座っている男たち、その中のボスである……ジャンに差し出していた帳簿、ページが開かれていたそれを改修し、報告する。
「ご苦労、ヴァルター。細かい数字は、まあ……おまえに任せるとして」
コーヒーも、何も出ていないテーブルの板を、ジャンの指は軽く小突きながら。
「ラインフェルデン社の業績は上々、フィラデルフィアへのはしけ輸送も再開。……砂と砕石の代金は、きっちり支払われて会社の金庫、銀行口座でウンウンうなっている」
「はい。会社として、企業として――何の問題もありません。このまま、株式の上場までもっていくかどうかは……状況を見て。逆にいえば、こちらの判断で進められます。銀行屋の顔色をうかがわなくていい」
「素晴らしい。さすがだな、ヴァルター。ここにはいないが、マックスのおかげだ」
「いえ、僕は……ただの一社員、会計事務を行っているだけです。これも全て、ジャンさんの慧眼と……」
「褒めても、ゲップもでねえぜ? まだ昼飯前だからな。――ランドルフォ、ご苦労だった。フィラデルフィアの滞在、長引いても構わなかったぞ」
「いえ、あのままフェデリの親分のところで世話になってたら、胃袋がパンクしちまうところでした。しかも、ステファンの野郎が嫁さん、アッ、まだ挙式してませんけど。二人に見せつけられて、もう」
「ハハハ、あのキラキラ息子たちも元気そうで何よりだ。……ってことは、あの嫁さんの家。石油業界とのコネも健在ってことだな」
「はい、俺っちがこっちに戻る日に……ようやく、エミーリアさん家の親御さんたちが、フェデリの親分の屋敷に挨拶に来たらしくて。へへ、俺っち、そのスキにロックウェルに戻りました」
「なるほど。あと……武器と車の目処がついたって?」
「ええ、俺っちが戻って、すぐにお話しした通り――フィラデルフィアの親分のお預かりになっていますが」
「……遅配したクリスマスのプレゼントにしても、派手すぎるハナシだな。まあ、フェデリの親分が噛んでくれてるハナシだ、信用、安心しちまっていい……だろう」
「ええ。その……でも。いいん、ですか、その……ジャンさん」
「なにが」
「……その、あのオンナが――勝手に、送りつけてきた武器と、車なんて……」
「気になるのか? だったら……1週間くらい、休みやる。ランドルフォ」
「へ」
「鼻ヒゲメガネで変装でもして、デイバンに入って。あの姐さんに礼をいうか、冗談じゃねえって武器と車を叩き返すか。おまえの好きにしてこい」
「そ、そそ、そんなああ。ジャンさぁん……俺っちは、その――」
その話しは終わり、というように。
ジャンは尻を、腰を動かして椅子を床で鳴らすと。
「リッカルド、ランドルフォが報告した数量の武器、トラックだが」
「ええ。相手がフェデリの大旦那で、助かりましたね。仮にいま、うちに……ロックウェルにその量の武器、車両が押しかけても。大旦那のいうように、捜査局のかもにされる。ニューヨークに、戦争の口実を与えるだけでした」
「あの姐さんには感謝しかねえ。まさか、幸運の女神が空想上の生き物じゃない、実在の存在とは知らんかったわ」
「まったくです。あとは……フィラデルフィアから、物資を回収する手立てと人員ですが。それはおまかせ下さい、うちの社員で、トラック運転の作業時間が500時間を越えているやつらを10名ほど選抜してあります。戻りのはしけに乗せる、そのまま運転して戻らせる……捜査局やデイバンに気づかれぬよう、慎重に、少数づつ……ですが、3月中には終わらせます」
「任せる。もう、先に言っといてもいいよな、そんな気分だ――よくやった」
パンッパン、と。数度拍手したジャンの傍らで――
「順風満帆ってやつだな、今のところ。パイセンの会社も、やくざのうちも」
「ああ。まさか、空から女の子が!どころか。喉から手が出るくらい欲しかった武器と車両が、もう靴下の中に入ってるとは思わんかったな。しかも……サンタさんは、頭の切れる、こっちに……たぶん、敵意がないコーサ・ノストラのやくざと、黒いこわいオジサンたちだ」
「へへへ。ニューヨークあたりは、あの物資の動きに気づいていただろうが――」
バクシーは、ギッギと。彼の体重をあっぱれなことに支えている椅子を軋ませて、笑う。
「今のニューヨーク、マンガーノ一家はクロちゃんたちに因縁つけられるだけの威勢はねえだろ。なあ、テシカガ――」
バクシーの声に……それまで、そのテーブル席で。そこにだけ、黒い日陰が落ちていたようだった男が……黒い外套も帽子も脱いでいる、白いシャツ姿なのに――そこだけ、煤けたように黒く見えてしまう男、テシカガが……顔を、目を上げた。
「ええ。マンガーノ一家のボス、ドン・マンガーノは……入院こそしていませんが、本部のある摩天楼の部屋で、ずっと寝たきり老人の様子です。主だった会合にも、若頭と補佐しかでてこないと……街の噂になっているレベルで、ええ」
「なるほどな。それなのに……マンガーノ一家は、デイバンと同盟した。誰がそれを仕切ったのか気になるな。マンガーノの副頭目、若頭のトリスターノとかいう野郎は、けっこう切れ者なんだっけか。そいつかなあ」
「……。……あ、はい、おそらく――何の目的があって、格下のCR:5と同盟、対等の立場で握手したのかまでは……調べがつけられませんでした、申し訳ない限りです――俺の、やらかしで……」
「そこまでわかれば十分よ。……テシカガ、おまえはマフィアどもに見つかったのを気にしているが――よく、生きて戻ったな。流石だ、テシカガ。うちでいちばん切れる刃物なだけのことはある」
「そんな。もったいないお言葉を……ニシパ。……自分は――デイバンの、あん畜生めに腹を斬られたばかりか、得物すら一撃で折られて……何もできなかった、死に損ないです」
陰々滅々、陰の風が吹き滅の雨が降る――
そんな声のテシカガに。どん、とテーブルの足をブーツで蹴ったバクシーが。
「やめろよー。あの野郎相手に、おキレイな顔をふっとばしてやるどころかスーツにシミひとつつけられねえまま完封、ちょろいもんだぜKOされた俺まで悲しくなってくるだろうが。くそー、思い出しただけで腹立つ。あンときは絶対殺した、空中で上半身と下半身泣き別れのミンチにしたと思ったのに。あいつ空中で至近距離の4ボア散弾避けやがった、なんで跳んだ空中で、もう一回ジャンプできるん? ワケワカラン、理不尽にもほどがある」
まずいものでも食った時の口で、早口でまくし立てて――
彼なりに、テシカガを慰めていたバクシーは。
「まあ、次は殺す。必ず殺す。絶対殺す。――テシカガ、おまえのぶんはとっておいてやらねえ」
「そんな。非道いお方です、バクシー・ニシパ」
テシカガの顔に、頬に。ようやく、アジア的な笑みが浮かぶ。
バクシーは、厨房の方に目を向け――壁の、正確に動くようになった時計の針を、見。
「ババァ、おなかすいた。もう昼過ぎたじぇ」
「――…………」
厨房からは、カウンターの向こうで姿が見えないリリーからは……返答は、なかった。
「六人前、つくってるから時間かかってんの? ……仕方ねえ――」
バクシーは、椅子の背もたれに身体を、体重を預け……椅子に、命がけの軋みの音を吐かせながら。
「砂のシノギも絶好調。女神様が武器と車もプレゼント――」
天井に、ホールの空気に。歌うように言ったバクシーは。
「しっかし、あれだ」
「なにがアレだよ」
「こう、いろいろうまく行っていると。プラスの、イイハナシしかねえと……ぎゃくに、この。縁起悪いっていうか、気持ち悪くならねえ?」
「そうか? いままで、死にかけてたりくっそ貧乏だったり、リリーのツケでべそかきながらめし食わせてもらったりばっかだったから。その反動、見返りでいいめみてる流れ何じゃね、いま」
「そうでもあるがー。……でも、やっぱなんか気味が悪い」
「……あれか。まえに、おまえが言ってた昔話の」
「うん。古代ギリシャの王さま、ポリュクラテス。海賊とか略奪で稼ぎまくって勝ちまくりモテまくり。そしたら同盟相手のエジプトの王様が「ラッキーすぎるのは逆にキモいわ、怖いわ。厄払いしろ」って」
「ああ。宝物の指輪を、泣く泣く海に投げ捨てたら……魚の腹から、指輪が「オジサーン、ボクモドッタヨー」したっていう」
「それな。んで、ポリュクラテスはエジプトに「ないわー」って同盟切られて。しまいにゃ敵地にノコノコ出向いてジ・エンド」
「……つまり。今の俺たちも危ねえ? 調子コキモード、ってか」
「そこまでじゃなくて。なんというか……厄落とししといたほうがよくね?」
「どうやって。大事なものでもなにか捨てるのか」
ジャンの言葉に……DGの男たちは、雌鶏を見失ったひよこのように顔を見合わせる。
「えっ、なにか……とは」
「捨てるって。フィラデルフィアから物が届くまでは、そんなに御大層なモンは……」
「……また、ボイラーでも壊しておきますか」
「……厄いことでしたら。おまかせを」
部下の男たちに、ジャンは。
「仕方ねえ。この中で、いちばんちんこデカいやつが。オモテの。2月の氷浮いた運河に飛び込んでくるか」
「ちょっとちょっと。1番指名するの止めてもらっていいですか」
バクシーは、テーブルの板をバンバン、叩き。
「まあ、厄落としだから――実際になにか捨てる、壊すんじゃなくてぇ」
椅子を立ったバクシーは、何かの司会者のように、手を天井に伸ばし。
「よし。いまから……全員、持ち回りで。なんか、縁起の悪いこと。ヤバそうなこと。不穏なこと。言っていこうズェ」
「ハハハ、なんだそりゃ。だが、まあ……面白いかもな」
「だろー? こういう景気の良いときにこそ、気まずい、不穏な話題で中和して――気を引き締める。よし、決めた。なお、いちばん縁起の悪いワード言ったやつには賞品が出ます」
「ほう」
「正月前で上機嫌のババァに、何かをおねだりする権利をやろう」
「なんだ、そりゃ。ハハハ、でも……逆に面白い、ヤベえ話、縁起でもない話題か」
「うん。……アッ、デイバン関係はガチでムカつくのでNGな。はい、誰かないか? 早いもん勝ちで手ぇあげて発言しろ」
ハイ、はい、と手を上げて。この場の男たちに喝を入れているバクシーの傍らに。
「…………」
無言のリリーが、スプーンやフォークの入ったかごを持ってきて。
――またバカなこと始めやがったね。
と、うんざりした顔だけで語って。厨房に戻る、そこに――
スイ、と。
テシカガが、白いシャツの手をあげた。
「自分、先鋒よろしいですか」
「ハイ、黄色いの早かった。よし。この店のメシがカビて全滅するぐらいの縁起でもねえの、一発こい」
バクシーが、両の手でワキワキとテシカガを煽る。
「参ります」
テシカガは――挙手していた手を下ろすと。
「――母親と交際相手の男」
テシカガの、そっけない発言に。
「……………………」
「…………」
「……ッ、おいおいおい、このやろう」
ばん、バンッと。ジャンとバクシーの手が、同時にテーブルを叩いて。ジャンは、ツボに入ったという顔で……腹でも痛いような顔になって、肩を揺らす。
「そりゃ、うん。なんというか、駄目だな、不吉というか。アカンやつ、その先を聞きたくねえやつだ」
「テシカガ、てめえ。この野郎。いきなり終わっちまったじゃねえか。正月ムード吹っ飛んだわ」
「フヒヒ、さーせん」
小さくガッツポーズしているテシカガの横で――
あのさあ、という顔、目をしているリッカルド。テーブルの全員が、その彼に気づかないふりをしている空気の中……。
「……馬鹿野郎」
リリーが――
床に顔を向け、小さく島田に結った灰色がった髪を、肩を揺らしていたリリーが。日本語で言い捨て、そして。フッフッフッ、と。こらえきれないように笑みを漏らしていた。
「おお。すげえ。ババァが笑ったの、どんだけぶりだよ。テシカガ、おまえが優勝でいいわ、もう」
「そうなのか。そういえば……そうかも」
ジャンが、笑ってしまっているリリーに何か、言葉を――探している、そこに。
「馬鹿野郎。くだらない。こんなことで笑っちまった――」
リリーは、小さな手指で。顔を、眼尻をぬぐって。
「まあ、いい。ちょうどいい、私を笑わせたご褒美をやらないとね」
それだけ言って、リリーは厨房に戻って、姿を消す。
「……リリー?」
男たちが、不安になる30秒ほどの、のち――
リリーは、その手に大きな。バクシーが久々に見た、見事な漆と朱塗りの平盆をもって……ホールに、テーブルに戻ると。
その平盆をテーブルに置き、そこに並べられていた料理の器を……男たちの前に置いてゆく。
リリーが、往復して運んだその料理の器は――
「うほ、リリー。こいつは……」
「なんかの熱い麺料理か。うわ、なんだこの……におい」
「――!! よもや……」
その器は――
ボウルほどの大きさの、陶器の器。ゆるい円錐形の形の器。日本では「丼」と呼ばれる器だった。
その丼の中には――白地に青の模様が並んだ、にじみ十草と呼ばれる模様の丼には……。
「真っ黒いスープ、初めて見たよ、リリー。……この匂い……?」
「なんのパスタだ、こりゃ。……げーっ、思い出した」
「……なにか乗ってる。煮た魚、ですか?」
「……うほ、うまそ。あれ、このトッピングの魚、なんか見覚えが」
「……ありがとうございます、マダム。初めて見る料理ですね」
「! ――よもや、よもや。……まさか。ここで……これを、これが――」
独りだけ、反応が違う男が。
テシカガが……丼から立ち上る湯気で曇った眼鏡の下の目を、わななかせ。眼鏡を外した目で、涙がこぼれかけている双眸で……その丼を、みつめていた。
「本当は、晦日の夜に食うもんだがね。昼飯に、食っときな――あんたらは、スプーンとフォークがその中にある。……あんたは――使えるだろ」
リリーは、丼から顔を挙げられないでいるテシカガの前に――ぴしりと、箸置きとまっさらの竹箸を置いていた。
「……刀自、六之宮……さん、こ……これは――」
「言ったろう。私を久しぶりに笑わせた、褒美だ。作っておいて、ちょうどよかったよ」
リリーとテシカガが、日本語で言葉をかわす……その傍らで。
スプーンとフォークを手に取った男たちが。こわごわと……丼の中に、それを差す。
それは……。
――ニシンそば 年越し蕎麦 であった。
真っ黒い醤油の出汁に、そばが浸っている……その上に、甘辛く炊いた身欠きニシンが乗せられ、刻んだねぎが散らしてある……日本の、そばだった。
「いただくよ、リリー。……うほ、熱ぅ、う……うん、からい、いや……うん」
「思い出したわ。旧正月に……ババァ、伯母さん呼んでいつも食ってたわ。これ。俺も食わされたことあったわ。……うえ、この臭い、俺ちょっと。むせるわ」
「そうか? スープ、塩辛い……けど、なんだ、これ。……うまい? なんか、わからん味がする」
「ソバ粉のヌードルだ……ガッレトと同じ味がする」
「あー、思い出した。この魚! 去年、リーハイ川のぼってきて、みんなでとったやつ!」
「……ああ、この味。俺は好きです、マダム、ありがとうございます」
男たちが……。
面食らいながらも。口にあわない、ぶちゃけマズイ、とはいえない空気で。真っ黒くて塩辛いスープをすすり、フォークでメンをもさもさ、食べる中。小骨のある、甘辛い魚の煮物に苦戦している中。
「……まさか。ロックウェルで……アメリカで、これが――」
「大したもんじゃないさ。ソバ粉はこっちでも買える。醤油と出汁は、ロサンゼルスのリトルトーキョーから取り寄せられる。ニシンは……ハハハ、私も去年は驚いたさ」
「……いいのですか、刀自……。自分なんかが」
「冷めたら台無しだろ。さっさとかっこんじまいな」
……嗚呼、とテシカガは嘆息し、そして。
「いただきます――」
テシカガは竹の箸をとって。手で拝み、そして……こわごわとした手を、丼に這わせる。
「……。自分は、俺は――あの国を捨てた、逃げ出した、それなのに」
「私も似たようなもんさ。でも……逃げられないもんだよ。自分の影から、逃げようとするようなもんだ。そいつから逃げるには……」
――暗やみの中にいくしか無いんだ。
リリーは、日本語でそう言ってから。
「おまえたち。まずは、それを食っちまいな。そうしたら、私はちょっと出かける」
「えっ。ババァ、正月イブでなんか食わせてくれるんじゃないんけ」
「リリー、ありがとう。……車を出させようか」
「いらないよ。ちょっと墓参りして……知り合いに挨拶したら。すぐに戻る。まだ仕込みもあるからねえ」
それと、おまえたち――
リリーは、まだ丼の中身に箸が差せずにいるテシカガの肩に、手をおいて。
「私は、ちょいとこの坊やと話すからね。茶々入れるんじゃないよ」
とくに、おまえ――リリーは、ニシンに苦戦しているバクシーを一瞥してから。
「食いながらでいいさ――」
自分にかけられた、日本語に。テシカガは、眼尻を箸を持った手で拭いながら。
「は、はい。……六之宮さん」
「リリーでいいよ。これでも私は、亭主がいたんだ」
「はい……。その、いただきます。……よもや、またこれを口にできるとは――」
テシカガは……。
両手で持った丼を、口に。昆布の出汁が醤油と抱き合って香るつゆを、ずぞ、と飲み。
「……ヒン……うまい。おいしい、です」
「そりゃよかった。……あんた、その二つ名。内地の人間じゃないだろ」
「……はい。自分は蝦夷ものです、小樽の生まれで――旧土人、みたいなもんです」
それを言ったテシカガの胸に、せっかくのそばつゆで温まった胃の腑に……また、あのマンハッタンでの悪夢が蘇って、癌のように痛んでいた。
「……小樽では、ニシンは大切な仕事、商品。俺のようなものたちは、頭やワタすら、口にできませんでした。年越し蕎麦を始めて食ったのも……友人に、誘われてでした」
「そうかい。食いな。そば十割じゃないよ、私じゃ二八じゃないと打てないからね」
竹箸で、蕎麦をたぐって。ずぞぞ、といい音を立ててすすったテシカガは。そのまま、また丼に口をつけて、ニシンの甘みが溶けたつゆをのんで。
「はああ、うまい。……小樽で、東京で食ったそばより……うまいです。ありがとうございます、刀自、リリーさん」
「そりゃよかった。旧正月だが――大晦日の、年越し蕎麦。縁起もんだからね」
――あんた。年の瀬に、あの街でろくでもないもんにみいられただろ。
リリーの言葉に。熱いほどの丼を両手で包み、その熱を味わっていたテシカガの手が……ぎくり、こわばった。
「……どうして、それを――ニシパにも、報告……できていないのに」
「見りゃあ、わかるさ。――でも、あの子には言わないほうがいい」
リリーは、甘辛いニシンを食べて。こっそり、ジャンに食べかけのそれを押し付けたバクシー、その二人をチラ見して。
「あんたは、賢しい、やさいいね。あの街で、どんな悪党、物の怪に見込まれたのかはしらないが――仲間を巻き込まないようにしているんだねえ」
「いえ……自分は、俺は……ニシパたちを、裏切っている――それと、同じです」
「のびるよ。食っちまいな。……私は、この歳になるまでいろんなものを見てきた。いろんな男を見てきた。あんたたちは……とくに、あんたは。長生きできないだろうね」
「……はい。存じております。が……ハハハ、やはりそうでしたか」
テシカガは、空っぽの声で笑って。これが最後のお斎でもあるかのように……そばをたぐって、すすり。ニシンを食い、つゆをすする。
「あんたは、前からそんな感じだったが――あの街から戻ったら。蝋燭の長さがだいぶ縮んでいたね」
「……ごちそうさまです、刀自。……ふふふ、そうですか。よかったです。……この苦海から、ようやくおさらばできる――」
「ふん。度胸なし、意気地なしの男はみんなそう云うねえ。死にたがりなんて、甲斐性がないだけのろくでなしさ」
「……全くもってそのとおりです」
「あんた。なにか、娑婆に未練はないのかい」
「……。まさか、思い出のめしを。大切な友人と一緒に食べた、かけそばを……また食べられるとは思っていませんでした。それだけでも、俺は――」
「ふん。安い未練だ。……それで満足するような真っ直ぐな男が、物の怪に魅入られたりするもんか」
「……未練、願い、飢え。そんな気持ちでしたら……腹の中に抱えたまま、逝きます。……ああ、ただひとつ――デイバンの、あの野郎。あの気味の悪い二枚目とは、ケリを付けて死にたいものです」
「ふうん。……だが――その仇は、あんたの死神じゃあ、無いね。あんたには、もっとたちの悪いものが乗っかってる。祓ったりできない、本物の物の怪だ」
「……。ふふふ、俺は……腹の傷の仕返しすらできない、男です。……あいつに、大切な得物も折られた、死に損ないです」
「そうかい―― 男の泣き言なんぞ、なめくじも避けて通る。涙はそのつゆに入れて、まくって全部飲んじまいな」
リリーはそう言って――高下駄を床で、カツ、と鳴らして。
「ん? ババァ、もう行くんけ。口直しにコーラ飲んでいい?」
リリーはそれに答えず――厨房ではなく。
カツカツと、廊下の方へ。ジャンとバクシーが暮らす部屋のほうではなく、彼女の部屋がある方へと、進んで……姿を消し――そして。
戻ってきたリリー、その手には……古びた織物が。あでやかな模様、平安の車と毬の絵が織り込まれた織物、それに包まれた「もの」を持ってきた。
テシカガは、その織物から香る生糸の香しさに「ほう」と声を漏らし。
「それは……刀自?」
リリーはそれに答えず。男たちが、なんだかんだで完食し、カラの丼が並んでいたテーブルに――その博多織の織物、包みを置く。リリーの手が、包みを解くと……そこには。
「……? リリー、なんだい、それ。昔のサーベルかい」
ジャンの目が、織物のあでやかさ、その中から現れた……武器に、剣に見開かれる。
同じものを見た、テシカガは――
「……日本刀? 打刀……いや、違う。佩き太刀だ……!」
「ああ。粟田口さ。もっとも……」
リリーの手が、指さしたその武器、日本のサーベルは――
包みの中で、白木の鞘、保存用の鞘から抜かれて……抜き身で、置かれていた。そして、その刀身は……反りの深い、独特の形の日本刀、その刃は……中程で、二つに折れてしまって……いた。
「あのばかに、折られちまった。もう台無しだから、捨てようかとも思っていたが――とっておいてよかったよ」
「……。まさか、刀自…………」
そのサーベルを、首を伸ばして見たバクシーが。ホホウ、と声を漏らす。
「ああ、それ。おやじが折っちゃったやつじゃん。へえ、まだ置いてあったのか。なつかしいなあ」
「おやじが? ああ、そういえば。おやじの得物、サーベルとかだったな」
ジャンも、その異国のサーベルに、折れてしまった剣に目を細める
「ああ。昔。ババァ助けるときにな。身代わりになって折れちまったんだわ」
「――よけいなこと、言うんじゃないよ」
釘を差したリリーは。テシカガに向き直って。
「あんたなら、わかるだろう。折れちまっているが……あんたの得物は、短刀だったね」
「まさか……! これを、俺に……? 折れていますが、こんな貴重な――」
「このままじゃ、ただの鉄くずさ。――使えそうかい」
テシカガの手は、そばの丼に伸びたときのように……緊張でこわばりながら。
折れた太刀の、柄を取って。
「……重い。この身幅の刀身……よもや」
テシカガの手が、トン、と。柄をつかんだ右手を、左手で叩き。中子を緩め、竹の目釘を抜いて……古びていた白木の柄から、刀身を、中子を引き抜く。
「……本当だ――銘がある……! この磨き上げで、目釘孔がヒトツ、鎌倉の……」
日本語で、唇をわななかせながら。折れた、剣先の方も手にしながら。
「打ち合って折れたんじゃないな、これは。……なんだ、この鉄……。なんだ、この重ね、初めてみたが――頭おかしいだろ、鎌倉の人間、刀工、なんだこの刃金……ずっと置かれていて、研ぎは曇っているが……すごい……三笠の鉄なんて目じゃねえぞ」
すっかり、折れた刀に魅入られていたテシカガに、リリーが。
「使えそうかい」
「……。……あっ、す、すみません、刀自。はい、こんな刃物は初めて見ました。……よもや、これをお俺に……?」
「さっきから言っているだろう。さっき笑わせてくれた、景品だ。それで……あんたの未練は、晴らせそうかい」
「…………!!」
ぎゅううっと。テシカガの、鬼のような握力、手力が……太刀の、中子を握りしめていた。
「はい……! ありがとうございます、刀自……リリーさん! ああ、嗚呼。よもや、よもや。……これを得物にできるとは――」
「礼なんかいらないよ。それを折ったあのばかは、謝りもしなかったさ。もし、私の薙刀を折りやがったら、許さなかったが。まあ、その太刀も。鉄くずにならずにホッとしているさ」
フフ、と笑ったリリーの、傍らで。
テシカガは、二つになっているその太刀を。折れていなければ、百年後の日本国に現存していれば国宝クラスのその鉄塊を……織物の上に戻し、双眸をギラつかせる、眼に、瞳に。獰猛な血流が流れる。
「これで、二振り……作れる。切っ先の方は、惜しいがヤスリで削って握りを作れば。柄の方は、このまま……。――いける、これなら。……ふふふ、何をして折れたんだ。おまえは。……ふふふ、これなら……車のドアを斬っても刃毀れすらしまい」
これならば――
身体が、一段も二段も、膨らんだような男に、テシカガに。
「そいつは、もうあんたのもんだ。ああ、織物はやらないよ」
「ありがとうございます、刀自……! ああ、なんと御礼を」
「そいつは、この中では一番最初に死にそうなあんたへの……餞別、いや、手向けだよ。――頼光は童子切で鬼の首を斬ったが。あんたは、その刃で切れるかねえ」
あんたの仇を。あんたをみいった、物の怪を――
「……俺は。まだ、戦える。……はい。これで――ニシパと、刀自に仇なすものを」
「ふふふ。やはり男の子だ、得物を握ったら急にしゃっきり、いい顔になったねえ」
嬉しそうに笑ったリリーは。英語に戻り、
「じゃあ、私は出かけるよ。器は、あんたが洗っておきな。やくめだろ」
「ええー。なんで俺が。どうせ割ったら、また俺だけめし抜きにすんだろババァ、しつけの名を借りた虐待はよくねえぞ」
指名されたバクシーがブツブツ言う中。着替えのため、部屋に戻ろうとしたリリーの足が、高下駄が、ふと停まった。
「そうだった――」
リリーは、折れた太刀に向かって、何事かぶつぶつと粘っこい笑みを向けていた男に――テシカガに。
「あんた、さっきのハナシだと。内地に、日本にもまだ未練があるんだろう」
えっ、と。顔を上げたテシカガに。
「あたしは友人の墓参りのあとに、日本人の知り合いのところに挨拶に行くんだ。そのときに……ロサンゼルスに、遣いを頼むからね」
「は、はい。リトルトーキョーの。懐かしい。あそこは自分、すぐに抜けましたが……」
「さっき、十年ぶりくらいに笑わせてくれた礼。そばとその鉄じゃあ、お釣りが出る。――もし、あんた。日本に未練があるなら……」
「……俺は。もうあの国には戻れません。官憲を、特高のやつらを何人も殺めてしまいまして――」
「ふふふ。帰りの船賃は流石に出してやらないよ。違うさ、もし。あの国に、まだ……自分のことを知らせたい、未練のある相手、家族とかいるなら」
「えっ」
「ついでに頼むんだ。あんまり長いのは駄目だよ。便箋一枚くらいなら……手紙を、日本の誰かに送ってあげる」
「……えっ、そ、そんな――」
「そういう相手も、もういないんならすまなかったね。親御さんとかは――」
「……母も、父だという男も、もう―― あの国に、知り合……」
「……あっ…………」
「誰かいるんなら、今日中に手紙を書いておきな。……送り先は、わかるのかい」
「は、はい。その、住所はわかりませんが……その、有名人なので。ナップの、ああ、この雑誌を刊行しているところに、「彼」宛で出せば、届くと思います」
テシカガは、テーブルの下に置かれていた……彼の財産。
――「戦旗」「改造」――
日本の雑誌の束に、古い電話帳がいっしょに束ねられたものを、リリーに見せてい言った。
「そうかい。じゃあ、手紙をかいたら封筒に入れて、宛先を書いておきな。切手代は、さっきのお釣りさ」
「……ああ、嗚呼。……思っても、みませんでした。俺が――彼に……」
「未練も、影と一緒だね。離れられる、忘れられるものじゃあ……ないんだ」
それだけ言って。リリーは行ってしまった。
親愛なる君へ――
突然、米国から手紙が届いて君もさぞかし、驚いていると思う。
ペンシルバニア州 ロックウェル。
君には、縁のない、初めて聞く街からの手紙、さぞ、面食らったと思う。
しかも、差し出し人の名前がない手紙だ。
だが、君ならば――
その手紙を気味悪がって捨てたりすまい、僕は信じている。
そして。僕が誰なのかも。君は、直ぐに悟ってくれると僕は信じている。
君は最早、大作家。そして官憲からマァクされている立場の作家だ。
お尋ね者の僕が、僕の名前で君に手紙を送ったりしたら。
もし、この手紙が検閲されたら君に危害が及ぶ。
だから、名無しの手紙となった。許してほしい。
だが。君なら、僕が誰か。わかってくれると信じている。
僕は今、アメリカにいる。こちらで、元気にしているよ。
君の方は、元気だろうか。面倒事になっていないだろうか。
君の小説は、文章は美しい。だがそれ故に蒙昧な輩の目を引いてしまう、
君にまた官憲の輩が、資本家の走狗が向かわないか、それだけが心配だ。
君に、手紙を出せるとは思っていなかった。
今日、こちらで。アメリカでかけそばを、にしんそばを食べたんだ。
小樽で、東京で君と食べたあの蕎麦と同じだった。なつかしい。
ああ、嗚呼。僕はいつまでたっても愚かだ、文才がない。
せっかくの君への手紙なのに。そばのことなど書いて行を浪費している。
僕は、もう日本に戻ることは叶わない。このアメリカで、じきに死ぬ。
世界の革命を見ることすら叶わないまま無力に、無為に僕は死ぬだろう。
だが、僕は。僕には。世界の輝きが、あった。胸の中に今もある。
君という友人があった、君と友人になれた、君の才能に出会えた、
共に理想を語り合うことができた、それだけで――満足だ。
もう、便箋の行が無くなってしまうね。僕は本当に文才がない。
もし。君の気が向いたら。この手紙に返事をくれないだろうか。
時間はかかるが、ロスアンゼルス経由でロックウェルに届くと思う。
もし。ああ。君に文をするだけで、夢のようなことを考える。
君が、日本が危険になったら。米国に来てみるのも痛快じゃないか。
米国では、活動は非合法だがいきなり逮捕されたりしない。
君の書いた小説を、僕が英訳して。君の美しい小説、文章で米国を、
世界を驚かせるのも、愉快、痛快だとは思わないかい。
もう、いくら文字を小さくしても紙面が尽きるね。
最早、逢うことは叶わない君。僕の友情、僕の親愛。僕の……愛しい君。
お元気で、タキくん。
また君に会えるその日を、僕は叶わずとも夢想している。
さようなら Saudade
キリヒト
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