SS『Miracle Man』
ニュージャージー州 デイバン――
10月が終わる、その日。
アメリカ東海岸は、ここ数日続いた上天気に恵まれ、東の大西洋から吹く季節外れの温かな風のおかげで5月のそれのような気候、温かな日々を過ごしていた。
不吉を知らせるラジオの天気予報は――
来週から北方の寒波がカナダ方面より押し寄せてくると……冷たい晩秋の雨、11月の雨雲と一緒に気の早い冬が来る、と繰り返していたが。
ここ、デイバンの港、ロックフォート港に隣接する公園に降り注ぐ午後の日差しは暖かで――
10月最後の日差しを浴びてくつろぐ市民たち、行き交う人々、屋台の店主、夕暮れまで日光浴を楽しむ老人たちは、穏やかな時間を過ごしていた。
公園に出ている屋台は、ランチ時を過ぎてその数を減らしてはいたが。
毎日、そして終日、ここで店を出し、もうもうと煙を上げているグリルの屋台、その横のホットドッグ屋台。冷たい飲み物を売る屋台、そしてコーヒーの屋台だが、昼間でもこっそりと冷えた瓶ビールを売ってくれる屋台。子供連れの親たちが、なるべく子供の視界に入れたくない綿菓子とキャンディの屋台。
それらが、芝生の周囲に並ぶ中――
別の屋台が、ひとつ。
トラックを改造し、後ろの荷台をボックスに。その後方のハッチを開き、そこにテントを張った屋台が……黄色い帆布のテントに、いくつもピンクのペイントでハートマークが描かれ。さらに。
『ICE CANDY』『ICE CREAM』『COLD FRUITS』
商品名が。そして……このトラック屋台の屋号なのか。
『LOVE&PEACE』
これもピンクのペイントで描かれた文句が、あった。
先月までは、真夏日の8月と残暑がきびしい9月のデイバンでは、その氷菓子の屋台が公園に出ると行列、人だかりができていたものだが――
10月最後のこの日には、屋台の周囲で歓声、狂気じみた強請り声を上げていた子どもたちの姿も、一時の涼をもとめる市民たちの姿も、なく。
ただ、トラックの後部のテントの中で。午後の日差しに目を細める姿だけが……。
「今年の残暑は、意外と根性がなかった ざんしょ」
フフ、と。ひとり笑ったのは――
まだ寒波も来てもいないのに、漁師が船の上で切るような分厚いヤッケを着、目深にフードまで被った背の高い男。フードの奥、影になった顔に色眼鏡をかけた男だった。
「……おや」
その男、氷菓子の屋台の店主が……少し離れた屋台の方から、大きな男の姿が進んでくるのを眼鏡の奥で見、灰色と金色が混じったようなその瞳を、目を細めた。
「おや、おやおや。これはこれは。親分さん」
「いよう。景気はどうだ、ラグ」
氷菓子の屋台に、大股で歩き、その店主と同じくらいの長駆、恰幅の良い体で進んできたその壮年の男は……10年ほど前の流行の、淡い縞の生地で仕立てられた、肩と腕の部分がゆったりとした上着、太めのズボンを履いた男。チョキは着ておらず、ネクタイをしていないカッターの首元は開けられた、紳士と言うにはいささか自由がすぎる雰囲気の……だが、岩を切り出したような広さの背中と肩幅の、屈強な中年男だった。
「ぼちぼち、と言いたいところですが――」
ラグ、と呼ばれた氷菓子屋台の店主は。
ここデイバンのマフィア、CR:5の雇われで『掃除屋』をしている男。
ラグトリフ・フェルフーフェンは。ニッコリと眼鏡の下で笑い。
屋台の前にやってきた男――そのCR:5の初代ボスだった男、マフィア、コーサ・ノストラの男。
アレッサンドロ・デルサルトに言った。
「今日は午前中の気温が28度とかあって。陽射しも暖かかったんで、今年最後にひと稼ぎ、と思ったのですが……さっぱりですな。朝から一本も売れておりません」
「そうか、そうか。まあなあ。この季節なんて、氷菓子がいちばん売れないんじゃないか。もう少したってな、クリスマスとか年末になると、また売れるんだよなあ。アイスクリーム」
「ええ、カンカンに燃やしたストーブの前、暖房の効いた部屋で食べるアイスクリームはぜいたくで、格別の味ですからねえ」
「まったくだ。まあ、俺は甘いものはあんまりな。甘くていいのは食前の酒と口説き落としたオンナの声だけだ」
「ふふふ。そうでした、甘いものもお酒もどちらも大好きなのは……親分さんじゃ、ありませんでしたね」
「その親分さん、は止せ。俺はもう、ジャンに跡目を譲って。顧問って名目で小遣い銭もらってるだけのジジイだぞ」
「また、また。ドン・カヴァッリが長老会にお下がりになられて――CR:5の、外部の組との折衝で東海岸を飛び回っているあなたのご活躍、CR:5に縁のあるものなら皆、存じ上げておりますよう」
「俺をおだててもツケの帳面しか出てこんぞ。現に今も……」
アレッサンドロは、苦虫を捕まえたときに指についてしまった変な匂いの汁を見るときの目で……彼が先ほどまでいた、グリル屋台の方を見、そちらにぐいと親指を向けた。
その屋台からは、ラジオが野球の中継を周囲に流して客を寄せているのが聞こえていた。
「ヤンキースめ、これで何度目だ? 後半1回で5点差をまくられたおかげで、今日の俺はなけなしの小遣いも全部スッてすってんてんだ」
「野球のノミ賭博ですか。ふふふ、親分のあなたならノミどころか闇カジノの胴元になって荒稼ぎできるでしょうに」
「わかってないなあ。俺は稼ぎたいんじゃなくて。こう、な。賭博に、博打にありったけ突っ込んで……勝負!! ってなるあの感覚が好きなんだ。わかるか、ラグ。その博打でも、いちばん熱いのが、だ」
「はい」
「今日は俺、このあといつも飲んでるビール屋台のツケを払う日だったんだが――」
「それが、すってんてんに」
「そうだ。博打ってのはなあ。使っちゃいけない金に手を付けてからが本番なんだ。血が熱くなるんだ」
「ふふふ。自分は賭け事はしませんので、そのあたりのお気持ちは。……ふふふ、でも。あなたの息子、2代目カポさんは――どうでしょうね。あの方は……」
「ああ、ジャン、あいつはだめだ。運が良すぎると言うか、な」
ぶんぶん、と蚊を払うように手を振ったアレッサンドロに、笑顔のラグトリフは――
「それでも。親分さん、あなたもあのジャンカルロさんと同じ……豪運、奇跡をお持ちのかたですから」
「はー? イヤミか貴様ッッ、もうポケットに電話代の10セント玉しかない俺が豪運、奇跡ぃ?」
「ええ。あなたは……『奇跡の人』ですよ、ドン・アレッサンドロ。そう、あなたと……『あの方』は――私のようなものをも救う奇跡をお持ちだ」
「……ああ。そういう。……ハハハ、懐かしい」
何かを思い出したアレッサンドロが、ふと……。
西のほうを、太陽が傾きつつある西の空。
デイバンのビル街の向こう、ペンシルヴァニアの方角に目を細め、そして……その目を、今度は東へ、デイバンの海、ロックフォートの方へ向けた。
「ラグ、あんたがこっちに来たのも……最初に会ったのも、ここだったか」
「ええ。私が貴方がたに救われた……奇跡の場所、奇跡の日ですね。もう、何年前になりましょうか――」
応えたラグトリフの目も、眼鏡の下で細くなって……アレサンドロと同じものを、見ていた。
「もう10年以上昔だな。クソッ、歳を食うはずだぜ俺も」
「奇しくも、ちょうど今日。31日でしたね、あの日は」
「よく覚えてんなあ、ラグ。……って、アッ、そうか。お前の誕生日じゃないか、だからだったな」
「ええ。売り上げゼロの、さみしい誕生日でして さーせん」
笑いながら、ラグトリフが2代目カポ、ラッキードッグ・ジャンカルロの口真似をする。
「しまったなあ。ヤンキースに賭けるんじゃなかった。あの銭があったら、ラグ、おまえに早い晩めしを奢って誕生日祝いにしてやったんだが」
「いえ、そのお気持ちだけで。――あの日も」
ラグトリフは、テントの日陰の下でゆっくりと……サングラスを外し。
日陰でも、眩しそうに細めた目の奥、金色に見える双眸を……10月の青い空に向けた。
「あの日も、こんなお天気の、よく晴れた日でした」
「まさか――その青空に、気づくことが出来るようになるとは」
「まさか――再び、この自分が空を見ることが出来るようになるとは」
「ドン・アレッサンドロ。そして……ドン・フランシス」
「貴方がたは、私を救ってくれた『奇跡の人』です」
「私は、残りのこの命と時間を……貴方がたへのために。恩返しに使うために生きている」
アレッサンドロは――手をヒラヒラさせて、肩をすくめ。
笑い、応えた。
「俺なんぞ、何もしとらん。礼なら……あいつにな。祈ってやってくれ」
「ええ。あの方の魂に永遠の祝福と御礼を。あの方の魂が、天の国でも楽しくあらんことを」
「かくあれかし、か――」
「……ありがとうございました――フランシスさん」
ラグトリフは、屋台の奥の冷凍ケースから――
2ポンド入りの、バニラアイスクリームの紙のバケツを取り出すと、カウンターに置き。
その蓋を開け、丸いスプーンでくぼみを作ると……そこに、フレーバー用のコニャック・ブランデーをなみなみと注いでから。そのアイスクリームのバケツを、溶けるのも構わず、陽射しのあたる屋台のつけ台に出し、置いていた。
アレッサンドロは、それを見……数秒、目を閉じてから。
「おい、ラグ。そのブランデーをいっぱい、俺にも。……ツケといてくれ」
「まさか。貴方からおかねをとるとか。目が潰れてしまいます」
「フハハハ、洒落になってねえぞおい」
ラグトリフは、お冷用のグラスになみなみとブランデーを注ぎ、それをアレッサンドロの前に滑らせた。
「すまんな。……いい酒だ」
アレッサンドロは、ブランデーで満たされたグラスを天に掲げ……再び目を閉じて、その甘い酒で唇を、舌と喉を濡らした。
1918年 10月 デイバン市ロックフォート港――
その日は、数日降り続いた冷たい秋の雨が降り止み、久々の陽射しがデイバン市を暖かく照らし、気持ちのいい風で乾かしていた。
午後のロックフォート港には、数日ぶりの量から戻った漁船がずらり、波止場に舳先を並べて停泊し――沖合には、デイバン港に入港待ちをしている貨物船がビル街のようにマストを並べ、ひしめいていた。
その貨物船から、クレーン、人力で荷物を小舟に降ろしている船員と沖仲仕たちの怒声が遠く、港まで響いている……そんな、ロックフォート港の日常、その光景だった。
そのロックフォートの波止場、漁船から水揚げされた魚がまとめられ、選別されて運ばれる錆だらけの倉庫の傍らに……魚の内蔵や血の汚穢が泥に混じって、永遠に乾くことのないような泥濘を作っている小さな空き地が、あった。
その空き地に……数台のトラックが停まっていた。
「おうい! こっちだ、フラン!!」
ひとりの大柄な男が……黒いウール生地、サックスーツと呼ばれる流行の仕立てのスーツ。スリーピースに身を固め、頭には背の高いシルクハットを被った男が――ゆったりした仕立ての上着下に、隠せない屈強な体躯、筋肉を隠した男が。
その革靴が、泥で汚れるのも構わず空き地を進み、トラックの方から波止場に手を振り、声を張り上げていた。
「こっちだ、フラン、フランシス!」
その屈強な男は――
デイバンのマフィア。コーサ・ノストラ。「トスカニーニ一家」を、その剛腕と暴力、粛清で乗っ取り、新組織としてまとめたヤクザ。
「薔薇の粛清」と呼ばれた、組織の仲間たちを殺戮した悪行でデイバン市の闇を血で染めた男。
アレッサンドロ・デルサルトは――
咥えていた、火のついた葉巻を手に持って。またそれを青空に伸ばして、振る。
彼が率いてきた、組のトラックの一団、そこから駆け出した彼が呼んでいたのは。
「フラン、こっちだ! ハハハ、相変わらずトンチキな格好だな!」
「アレックス! 久しぶりだな! 何年ぶりだ?」
波止場の方から――
魚の腐臭と泥、片付けられていないゴミ、仕事にあぶれた男たちの煤けたの群れの向こうから――
そこだけ、世界が違う。そこだけ、絵本から切り抜いた絵を貼り付けたような――
そこにだけ、7月の日差しが当たっているような、男の姿が――進んできていた。
アレッサンドロと同じくらいの長身、だがいくぶん細身で、そのせいでずっと背が高く見える男。
スーツなどではなく、中世の貴族が着るような重厚さの、金と銀の糸を織り込んだ濃い紅色の長衣を肩に引っ掛け、その下には目に染みるような純白のシルクのシャツ。そして腿の膨らんだ乗馬ズボンに、飛行士の履く長靴。
後ろに撫でつけた髪には、三銃士の絵本のような、羽飾りのついた幅広の帽子を被り……痩せた顔を隠すためか、もみあげから顎で、短く刈り込んだヒゲを生やした男が。
その顔に、目に、鼻柱に――濃い色のレンズをはめ込んだ黒眼鏡を引っ掛けた男が。
「あいかわらず魚臭い街だなあ、デイバン。フランス領インドシナで食ったヌードルを思い出すぞ」
「また痩せたんじゃないか、フラン。どこかで淋病でももらったか」
「バカいえ。病気なんぞもらったら、今度こそユリエに殺される。金たまをほっぺたに移植される」
「そのほうが男前になるんじゃないか」
「今でも俺はハンサムだ。痩せてるのは船旅のせいだ、大西洋を渡るあいだ……Uボートを避けて、北海の方を回ったからな。海が時化て、めしも満足に食えなかった」
「そうか、まだ戦時中だったな―― よくきたな、フランシス」
二人の男は、いい顔で笑うと。
泥の中を歩み寄って、握手の距離で……拳をぶつけ合う、抱き合う、その寸前で。
ハッと、何かを思い出したアレサンドロが足を止め、顔を固くすると。
「――……盟約を……」
フランシスと呼ばれた、いんちき臭い格好の男も……顔を固くし。
そして、フランシスが差し出した左手、男のわりにきれいな、きっちり手入れされたその手の甲と、手指に――その薬指にはめられていた、小さな金色の指輪に。
「――……」
沈黙したアレッサンドロが、身をかがめ。フランシスの手の甲に両側の頬を、そして指輪に口づけをする。
それが済んで、再び顔を上げたアレッサンドロ、そしてフランシスは――
「儀式」を済ませた二人の男は、鏡に写したように、二人ともにかっと笑い。
がっしりと抱き合って……お互いの背中を、痛いほど、何度も叩いてから。離れる。
「よく来たな、フランシス。船から電報をもらっていた、予定通りだ」
「ああ。アレックス、少しばかりお前の世話になる。……ニューヨークの、マンガーノの世話になることも考えたが――あの爺はいまいち、信用ならん。下のものに対して冷たすぎる」
「まかせろよ。うちの組は、ゴタゴタしっぱなしでカネもないが――弱きものたちを見捨てたりはせんぞ。そんなことをしたら……テレサに殴られて奥歯が抜ける」
「ありがとう。……あの赤髪の女なー。いい女だよなー。年食って滅茶苦茶いい女になったよな。修道女にしとくのはもったいないなー。あれがカタギのオンナだったら、絶対俺が口説いて。あのでかい乳をこうもしてああもしてもっと大きく俺の息子も」
「ははは。真っ昼間の港で、やめろ馬鹿野郎。……うっかりあいつに聞かれたら、殴られるのは俺だぞ」
「お互い、ステゴロが強い女には苦労するな、アレックス。……それで――」
頼み事、なんだが。
あらたまったフランシスに、アレッサンドロは葉巻をくわえ直し、大きくうなずく。
「ああ。手紙と、電報で見せてもらったよ。……あちらは、欧州は……地獄だなあ」
「戦争だからな。もう少しで、世界全部を巻き込んで、地球を地獄にするところだったさ。その戦争も……もうじき終わる気配だがな」
「ドイツがネを上げるか、イギリスが破綻するか。どっちかな」
「オーストリアが、先に一抜けしそうな流れだ。ロシアは革命で脱落、次は……ドイツかな。まあ、戦争が終わっても次の地獄が始まるぞ、欧州では」
「……アメリカにいるとピンとこないが。そんなにか、あちらは」
「フランスとイギリスは、ドイツからの停戦交渉を突っぱねた。どうやら、もっとドイツから血を搾り取らないと……手を上げることも許さん、そんな空気だ」
「また人が死ぬな」
「ああ。あの戦争でどれくらい死んだかな。また、死ぬかな……おそらく、この四年で何百万、下手すれば一千万人以上の若者が死んでる。負傷者は……数えるのも地獄だ。――その生命を食って、次はどんな怪物が欧州に生まれることやら」
「……俺たちやくざの戦争なんて、ままごとだな。――それで……フランシス、お客人は?」
「ああ。あそこにいる――」
フランシスが振り返った、空き地の片隅には――
フランシスが雇った、彼が乗ってきた貨物船の船員たち。彼らが船から小舟に降ろし、ここまで連れてきた人々の一団が……二十人ほどの、灰色の影のような人影、その群れがあった。
「あちらの赤十字も、かなり頑張っているがな。……もう、欧州には居られない連中も多くてなあ」
「フランシス、おまえ。あちらの戦傷者を保護、保留地に送り出す活動してるんだったか」
「ああ。あの地獄の戦争、本来なら俺たちくらいの歳の連中が殴り合いするはずの面倒事だ、それが……まだ女も抱いたことのないような青年たちを身代わりに、何百万も死なせちまってる」
せめてな、と――
フランシスは、船員たちに何事かを言って。彼らのリーダー、艇長と握手をし、その手にずっしりとした小袋を渡して……また握手し。
船員たちは、連れてきた灰色の人々を残して波止場の方に戻っていった。
その、灰色の影の人々は――
「…………」
二十人ほど、皆がくすんだ白衣を、病人の着る貫頭衣を、白いパジャマを着た……病人、けが人たちだった。
「意外と少ないな。百人くらい来るかと思っていた」
「ああ。途中でな、アイルランドと、こっちのプリンス・エドワードのあたりで降りた人たちも居てな。アメリカまで来ることにしたのは……あの二十人だ」
「そうか、まあ。こっち、アメリカならな。まだまだ景気もいい、怪我も治りゃいくらでも働き口も、住むところもあるさ。まかせろよ」
「ああ。そうしてもらえると助かるよ、アレックス」
地獄の戦場――
いくつもの街が、戦場となり砲撃で砕かれて消えたヨーロッパ。
そこから逃れてきた負傷者たち……船の長旅でやつれ、灰色の影になってしまったような人々が……魚の腐臭が立ち上る泥の中で、木靴を、失った脚を支える松葉杖を汚しながら、枯れ草のように身を寄せ合って立って……いた。
「みんな、負傷兵か?」
「ああ、大半はな。……赤十字でも、戻る故郷も、家族も無くなった兵士たちは、負傷兵は……扱いが難しくてな。ボランティアが引き受けたり、俺みたいなおせっかいが……こうやって、景気のいい場所まで連れてきて面倒を見たりしてる。……もっとも、助けられていない連中のほうがはるかに多いがな」
「……そうか。フランシス、おまえは下半身が俺よりだらしない上に見境のないちんぽのいんちき野郎だが――いい男だ」
「ハンサムだろ? ……ユリエに言うなよ、こういうのは妻に、周囲に知られずにやるのが長持ちのコツだからな。とはいっても……今度ばかりは、ユリエにも面倒かけるかもしれん」
「ハハハ、金の無心か。まあ、ロックウェルなんぞで。あの野郎なんかの世話になるよりは…………。んっ、ンッ、んん? おい、あれ――」
よるべなき迷子たちのような、怪我人たちの群れ――
そこに、雨に濡れた野良犬を見つけてしまった少年の目を向けていたアレックス、その目が……ギクッとこわばり、そして。その目がそのまま、今度は噛みつくようにフランシスに向けられる。
「おい、フランシス、女が混じってる。何人も。……まさか、戦争で女子供も」
「ああ。街や村がそのまま戦場になったところもあるし、ロンドンはずっと爆撃されててる。……だがな、あの子たちは……」
ものすごく、言いづらい。
フランシスが、あごヒゲに手を当てて……そしてアレックスは。
「……まだ若い、娘さんじゃないか。――まさか」
並の男だったら……その言葉を吐いたときのアレックス、その目を見てしまったりしたら泥沼にへたり込んでいただろう。
だが、フランシスは……あごヒゲに手をやったまま。
「……そのまさかというか。アレックス、おまえの想像よりも、たぶん百倍くらいクソったれた地獄から、彼女たちを連れてきたよ――」
「……。言うなよ、俺は相手のことを殴れないクソッタレ話が、足の裏を蚊にくわれるより嫌いだからな」
「……あの子たちはな、ドイツ娘。……ドイツ軍の、従軍看護師『だった』子たちだ」
「言いやがった、この野郎」
「ドイツ軍は、アメリカが参戦して――西部戦線では押されまくっていてな。フランス、ベルギーの戦線を放棄して、後退している」
「…………」
「彼女たちは、リール近郊にあったドイツ軍の野戦病院に居たんだ。……後方に下げることもできない、重症の負傷者たちと一緒にな」
「うらむぞ、フランシス」
「その戦線のドイツ軍は、戦況の悪化で……戦略的転進、リールから撤退した。重火器も、装備もほとんど放棄してな。そのとき……野戦病院の負傷者も、看護婦たちも……故意にかどうかはしらんが、取り残された」
「…………」
「そこに、連合軍が――全土をズタボロにされた復讐者、フランス軍が、やってきた。遅れてアメリカ軍と赤十字が現地に入ったときには……ドイツ兵の負傷者は『誰も居なかった』。看護婦たちも、生き残っていたのはあの子たちだけだ」
「……神よ―― 自分が男なのが恥ずかしくなるな」
「あの小柄な子が、リゼル。あれでも、野戦病院じゃ婦長だったそうだ。……まあ、今のドイツじゃ16の子供が士官、少尉とかやってるって言うからな」
「……あの子たちも、故郷も……身よりもないのか」
「ああ。それに、彼女たちは……フランス兵どもに、その。だいぶ痛めつけられていてな。ドイツに戻れても、もう……それならばと、アメリカにつれてきたんだ」
「そうか。わかった、俺がきっちり面倒見る」
「たのむよ。……ああ、あのリゼルという子は――ユリエが医者を欲しがっていたから。もしかしたら。あの子がイエスと言ってくれたら、ロックウェルに連れて行くかもしれない」
「嫁の世話になるって、そういうことか……あの子、おまえの女房の店に出すなよ」
「あたりまえだ。……それに、あの子はもう客とか取れる体じゃない」
「……ほんとうに、本当にこの野郎。ああ、誰か殴りたい」
吸っていた葉巻を、泥の中に投げ捨てたアレックスは――
「まずは……全員、うちの組が仕切ってるホテルに連れて行って休ませる。なんもかんも、それからだ」
アレックスは、トラックの周囲にたむろしていた彼の手下たちに手で合図をして、呼び寄せ――
「あの怪我人たちを、丁重に扱え。少しでも手荒にしたら、おまえたちは怪我じゃすまんぞ」
部下たちに発破をかける。
マフィアの男たちは、ボスのその言葉がただの脅し、喝入れでは無いと知っている男たちは……冷や汗をにじませた顔で、トラックのエンジンをかけ、数人のやくざ者が……立ちすくむ怪我人たちの方へ、地雷原を踏むような足取りで近づいていっていた。
「本当に助かる。あの船旅じゃ、俺も満足に食えていなかったからな。彼ら、彼女たちはもっと憔悴している――」
「だから任せろって。アメリカのホテルのサービスの良さ、ヨーロッパ人にたっぷり教えてやるさ」
「俺も、何日かデイバンで世話になるかなあ。……あ。ああ、その人は――」
淑女をエスコートするような――
腰の低いやくざ者たちが、泥の中からトラックへと怪我人たちを連れてゆく、その中で……フランシスが、一人の怪我人に気づいて、そちらに歩を進めた。
「その青年は、ちょっと、目が……な。大丈夫、俺が車までつれていく」
「………………」
やくざ者たちが連れてゆく、灰色の人々から――
遅れて、一人取り残されたような。
やはり灰色の影、くすんだ病院服を着た……男の姿が、泥の中に一人。
立っていた。
フランシスはその男、しばらく切っていない髪を肩まで伸ばした……おそらく青年のほうに歩み寄ると、力ないその手をとって。
「こっちだ、ラドクリフ。……あ、ちがった、ええと――」
その青年の名を呼び、そして。はたと、何かを思い出したフランシスは。
「なんだったっけ、その。君の……。まあ、いい。迎えの車が来ている、さあ」
「…………。はい――」
フランシスが手を取って歩かせている、その青年は――
フランシスと同じくらい、背が高いのかもしれないが……身体全体に生気がなく、痩せて、背筋が失われたように背を丸めているせいで……老人のようにも見えている、戦病者だった。
「その兄さんは―― ……ああ、神よ」
アレッサンドロも、ようやく……フランシスがとった、その青年の手と手指がエジプトのミイラのそれのように包帯で巻かれているのに、そして――
その青年の顔、目には。やはり幾重にも包帯が巻かれて……いた。
「その兄さん、目をやられちまったのか」
アレッサンドロの言葉に、青年の手を引いて歩かせたフランシスが。
「ああ。赤十字の書類で確認したんだが……この兄さん、もとは英国の軍人さんでな」
「イギリス人か」
「いや、オランダだな。故郷はベルギー、フラマン人てやつだ。ベルギーが戦場になっちまって、故郷も家族もみんな砲撃でふっとばされちまってな――英国軍に志願兵として入隊、戦ってて……」
「……さっきの子といい、殴る相手がいないのは胃にクるぜ」
「そうして、ソンムだったか。あそこの塹壕で、砲撃に巻き込まれて……とどめで毒ガスだ。目も鼻も、舌もやられててな。体もそこらじゅう爛れて化膿してた。無事だったのは、泥が詰まってた耳と喉だけだったそうだ」
「……よく生き残ったもんだ。ああ、だから目が――」
「これでも、だいぶ良くなったほうだ。以前は、立つこともできなかったそうだからな」
二人の男が話す中、不意に。
「…………ぼく、は――」
盲目の青年が、血の気のない唇を震わせて。
かろうじて、英語だとわかるかすれ声で。
「死んでいるのと、おなじです……」
幽霊が喋ったときの声。そのイメージそのままの声に、アレッサンドロもゾッとしてしまう。
「そんなこと、言うなよ。ええと、あ、そうそう思い出した。名前はまぎらわしいが……ヴァーホーベンくん。大丈夫、体ももっと良くなるさ。アメリカで……まずは、元気を取り戻そうじゃないか」
青年の手を両手でとって、励ますフランシス、その声に。
「……もう、ぼくは。空を見ることもできない……」
「気を落とすんじゃないよ、きみ。アメリカには良い医者もいるし、その。君の目も、また見えるようになるさ」
「……その兄さん、目は――」
「ああ、眼球は無事なんだが。角膜と、神経がな。……船の医者に見せたときは、光には反応がある、だから神経が回復したらまた見えるようになる……可能性がある、かもしれないと」
「……そうか。こっちでも、腕のいい医者を探してみるか」
アレッサンドロとフランシスの会話に、そ盲目の青年は――
「……ぼくは……貴方がたの恩義に、何も返せません……もう、ぼくにはなにもできない……復讐も、だれかを救うことも、なにも――」
ぼそぼそと、胸に、肺に空いた穴から空気が漏れているような声で呟いていた。
「――…………」
「ファンクーロ、神ってやつは。ちくしょう、天の国から降りてこい、奥歯がたがたになるまで殴ってやる」
二人の男が、ヤクザと道楽者が天を仰ぎ。
そして――涙目を、無理にこらえたアレッサンドロが。
「……兄さん! 大丈夫、俺に任せろ!!」
「お、おい、アレックス」
アレッサンドロは、盲目の青年の手を、フランシスから奪うように両手で取ると。
「目が見えなくったって……シノギは、生きる方法くらいいくらでもあるさ! なんならうちの組で働いてくれればいい! だから……元気出せよ、なあ!」
「そう、だな」
フランシスは、旧友の声に――
アレッサンドロが、もらい泣きしそうなのを誤魔化そうとしているのに気づきつつも……それに気づかないふりをするだけの有情が、フランシスにはあった。
「……もう……ぼくは、貴方がたの厚意に、なにも――」
「なめんなよ、この人間機関車、「お針子アレックス」が見返り欲しさに人助けとか!!」
アレッサンドロは、親友にするように――
その青年の肩を、野太い腕と大きな手で抱き寄せ、そして――
ばん!! ばん!! と――青年の背を……励ますよう、叩く。
「……っ、ぅ、うわ!! ……あ――」
涙目の、屈強な男に……背中を、肩甲骨のあいだをつんのめりそうになるほどの勢いで、数度、叩かれた青年は……思わず、肺から呼吸が、声が漏れ。
「おいおい、アレックス、加減しろ」
「すまん。だが兄さん、このデルサルト、男に二言は――」
「……ッ……ぁ、あ……ああ……」
青年の顔から、頭から――
アレックスが打ったはずみで、目を覆っていた包帯がずれ……ばらりと、解けて顔から泥の上に落ちていた。
「ほら見ろ、包帯が。すまんな、ヴァーホーベンくん。すぐに巻き直し……」
「正直すまん。 ……? ん、どうした、兄さん。どこか痛むか、本当すまん」
「……っ、っ、つう……ぅうう!? ――……あ、ぁ……!?」
青年は……うつむかせた顔で、両手を戦慄かせ――
その両手を、自分お手相を見るように……包帯が解けて落ちた顔を、見開いた目を――
自分の手に向けながら、何度も瞬きをしていた。
「あ、ああ…………ぼ、ぼくの――」
「ん? ヴァーホーベンくん? え、その顔、目、まさか」
「……すまん、さっきの力が入りすぎたか。……ん?」
盲目『だった』青年の顔が、細かく震えながら……ゆっくりと、上を向いた。
彼をここまで連れてきた男と、彼をこの地、アメリカで面倒を見る気満々の男と、その両方を……見て、瞬きをした。その青年の、灰色がかった瞳から……涙があふれていた。
「……目、目が……見える、あ、ああ。その声、ストラトス、さん――」
「おおっ、なんたる! 奇跡だ、まじか」
「えっ。治ったの、目? えっ、まさか、さっきの」
青年の顔が、目が――
もはや、ずっと彼を苦しめ苛んだ両眼の負傷、そこから垂れ流れる血膿ではなく……涙があふれて、いまだ角膜が傷ついたままの眼球を潤していた。
「見える、見え……ます、ああ……」
青年の顔が、天に向けられ――
デイバンの青空が、何年ぶりかに彼の両眼に、網膜に光を注いでいた。
「……ッ、ぅう、まぶしい――」
何円ぶりかの日光に、痛みのような眩しさを感じて顔をうつ伏せた青年に、フランシスとアレッサンドロが壁を作る。
「いかん、急に日光が目にあたって――まずい、せっかく治った目が」
「どうする、なんか被せる毛布でも持ってこさせるか?」
「……ええい。ヴァーホーベンくん、これを」
フランシスは、はたと。
自分がかけていた黒眼鏡の存在を思い出すと、それを外し――わななく両手で顔を覆っていた青年に、その顔、高い鼻梁と眼に……その濃い色のレンズの丸眼鏡を、掛けてやっていた。
「これでどうだい。ゆっくり、目を開けてみるといい」
「……は、はい、っ……ぁ、ああ。……ありがとう、ございます――」
「準備のいい男だな、フラン。精子だけは無尽蔵の甲斐性なしのくせに」
「はっはっは。余計なお世話だ。――その色眼鏡はな、アフリカのサバンナやアラスカの氷原で遊ぶときに、な。そいつで守ってないと、あっというまに目がやられるんだ」
自分の色眼鏡をかけてやった青年の肩を、加減しながら叩いたフランシスは。
「しかし、よかった。少しでも目が見えるのなら……ゆっくり養生すれば、もっと視力戻るはずだ。そうすれば……アメリカなら、色んな仕事がある。新しい人生を見つけられるさ」
「……ありがとう、ございます、ストラトスさん……。……あ……あなた、は――」
「あ、俺?」
「……ありがとう、ございます。あなたは……」
「名乗るほどのもんじゃない。が――」
10月の最後の日。
デイバンの空は、5月のそれのように青く晴れ渡っていた。
「……フランシスは、甲斐性なしのくせにど助平で道楽者のいんちき野郎だったが――いい男だった」
「はい。あの方も、自分の恩人。導いてくれた奇跡の人です」
「……いい男から、先に死んじまう。嫌な時代になっちまったな」
「……あの方の魂が天の国で楽しくありますように」
「……アーメン。ふふふ。なんでだろうなあ」
「はい、なにか――」
「フランシスの野郎は、この俺が悪口を言うのが許されるレベルのろくでなし、節操なしちんぽの道楽者で嫁に苦労ばかり掛けていた駄目男だったが――なぜか、あいつが地獄に落ちた気はしないな。あいつは絶対に天国にいる、という謎の確信がある」
「わかります。ふふふ、きっとそうですよね」
「俺はくたばったら……フランには会えないんだろうなあ」
「またまた。そんなさみしいことを」
二人の男が、次第に夕暮れの色が混ざり始めてきた午後の日差しの下、今はもういない相手のことを肴にして話していた、そこに――
きらり、と。
公園の一角、そこに--
いきなり、空に穴が空いた。その穴から、天の光が漏れて、そこだけにスポットを当てた。
――そんなふうに見える、明るい金色が。
金色の髪を揺らした、粋な黒い仕立てのスーツ姿の青年が表れ、この氷菓子の屋台のほうへと駆け寄ってきていた。
「いよう。ラグ。店の電話にでねーと思ったら、ここか」
その金髪の青年は、公園の外で停めた車から降り、少し探し歩き、駆けたせいか顔を、髪を少し汗ばませながら。
「と思ったら、親父もいるし。……あー、やっぱり。ただ酒、たかってやがる」
「たかるとは失敬な。こんな失礼な二代目、見たことがないわ。先代の顔が見……クソァ。――この酒は、ちょっと訳ありなんだ」
「訳アリだかなんだかしらんけど。ボトルが半分、カラになってんじゃねーか。まだ夕方前なのに。まあ、いいや」
その金髪の青年は――
このデイバン市を闇から支配するマフィア、CR:5の二代目カポ。
ラッキードッグ・ジャンカルロは――
「とりま。掃除屋=サン。ラグトリフ、お誕生日オメデト」
「ありがとうございます。自分のような汚れの誕生日を貴方に覚えておいて頂けたとは、光栄です」
「またまたあ。何度も、お誕生日会した仲じゃないの。って、今年もやるわよ~」
ジャンカルロは、左腕の袖口をスイと傾けて腕時計を見。
「と言っても、あんまり時間ねえけど。幹部の皆さんは出席できるかギリっぽいけど。俺は明日の朝までオフだから。本部で、めし食って酒飲まず」
田舎者の口調を真似て、おどけた二代目に--
ラグトリフは、屋台の天幕の影でにこやかにお辞儀をする。
「ありがとうございます。本日は、こちらの売り上げは散々でしたが……もうすでに、最高の誕生日ですよ」
「ちょっとちょっと、男子ぃ。お気持ち早漏過ぎますわよ。オ、そうか、アイスクリーム」
何事かを思いついたジャンカルロは、
「ちょっと本部に連絡して。ベルナルドに、食堂の暖房、フル回転させるよう頼んどくわ。汗かくような部屋でアイスクリーム、ひとり1バレル食う蛮行、しよう」
「かしこまりました。バニラ、ストロベリー、各種取り揃えてありますよ」
「それにはボンドーネの若旦那もにっこり。じゃあ……17時すぎに、本部に来てくれや」
忙しそうに、また腕時計の時間を見たジャンカルロに。
「ジャン、おまえ今日は市議会の先生がたと会食、そのあとはたしか」
アレッサンドロが、飲み干したグラスをつけ板にもどして片方の眉をしかめる。
「ああ、そっちは昼でかたがついたわ。なんでも、夜は別のお楽しみがあるセンセがいらっしゃったとかで。なんてったってハロウィン」
「夜の礼拝は? 市街の教会で万聖節前夜の――」
「おじいちゃん、ごはんはもうたべたでしょ? ボケてんのか親父、今年は長老会のメンツが揃わないから、礼拝は各自でって。俺らは本部で夜にチョイとやるって会議で決めてたべ。前、小遣い渡したときに言ったべや。礼拝の本番は明日よ、明日」
「聞いてたっけかな。……カヴァッリの見舞いは?」
「そっちはイヴァンちゃんとルキーノが行ってくれた。ふたりとも、夜には戻るんじゃないかな」
ああ、そうそう、と。ジャンカルロは楽しいことを思い出した、という顔で。
「カヴァッリ爺ちゃんの田舎からさあ、農村から本部に、季節のお届け物があったのよ。熟成終わった鹿肉とたっぷりベーコン、じゃがいもとにんじん。あと、料理長が市場で旬のマテ貝をバケツ2はい、買ってきてくれてた」
「じゃがいもにクラムですか、それはそれは。最高の舌触り、最高の歯ごたえですね」
「デイバンの貝かー。パパはいいかな。――それよりジャン、すまんが。来月分の予算、小遣い。少し前払いをだな」
「先週渡した小遣いも、前借り分だったんですけど? どこでどぶに捨てたんだよ、このまるでダメ親父。どうせ今日のやきう賭博だろ。カネがないなら、親父も本部でめし食ってけよ」
「ぶちさみしいのう。……俺は口説いたオンナのところで飲むとするか」
「想像上の女はどうでもいいから。……そうそう、そういえば。ロックウェルから、なんか酒が届いていたぜ、親父あてに」
「酒ぇ? ロックウェル、イーサンの野郎からか? 捨てろ捨てろ、のんだらきっと毛が抜ける」
「飲まなくてももう抜けてませんかねえ。なんか、やったら赤い色のウィスキーだったぜ。講和したとはいえ、メッセージもなしに酒送りつけてくるとか。気持ち悪いのも正直、うん」
「赤い酒? 馬鹿者、なんでそれを先に言わん親不孝者が。車を出してくれ、ジャン。俺も本部に行くぞ」
「急に言われましても。俺も、ここに来た車、戻しちまったし。本部まで歩いて、どうぞ。てか自転車で行け」
仲が良いのか悪いのか――
先代と二代目、親と子。二人の会話に、東洋的な優しみの笑顔を向けていたラグトリフは。
「でしたら。よろしければ、自分の車……このトラックで、本部まで送迎いたしますが? 後部座席に、つめればあと二人までなら」
「えー。ラグ、お前の車はなあ。なんか、縁起がなあ」
「そういうこと言うもんじゃないよ。……でも、まあ。ラグの仕事車は、なあ」
ラグトリフの仕事――
掃除屋の稼業、CR:5から委任される「仕事」の内容を想起した、アレッサンドロとジャンカルロに……ラグトリフは。
「いやだなあ。自分の掃除用の冷凍車と、アイスクリーム屋台の冷凍車は別の車両ですよう。間違えたりは―― …………。……」
「おい。ラグさんや。なんでいま、自分の車のナンバー、チラ見した? 二度見した? おい」
10月。最後の日の午後、夕暮れの空から――
晩秋の香りがする、肌寒いほどのそよ風が吹き、公園の木立と屋台の天幕を揺らしていた。
-おしまい-
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