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忘れたい(685字)#シロクマ文芸部

忘れたい記憶ほど鮮明なものだ。

デートなのに全然、洒落た店に連れて行ってくれなかった彼。
一緒に行くのはいつもラーメン屋か定食屋。
「優香の顔見ると、ラーメン食べたくなるんだよ」って、称号を与えたみたいに誇らしげに言った。

手を引かれて踏切を渡って、「確かここ、曲がるとあるはず…」と軽やかなステップを踏んで、たどり着いたのは町中華だった。
私の誕生日。
いくら評判の町中華でも。いくら就職が決まらなくてお金がなくっても。
「特別な日に、彼女を連れてくるところじゃないよね?」って、諭すような言い方をしてしまった。

その瞬間、彼は、男らしい太い眉毛を八の字に下げて、笑い飛ばそうか、言い訳しようか、怒ろうか…、スロットマシーンみたいに表情を変えた。
チーン、と止まったのは、後悔の顔。
「ごめん」

あの時の彼の表情を忘れたい。
自分のあの言葉を忘れたい。

結局、中華を食べたけど、どれも味がしなかった。
赤褐色の麻婆豆腐や、羽のついた餃子は、きっと絶品だったのに。
チャーハンを頬張る彼の顔は曇ったままで。

店を出る時にその後の二人の道筋が決まってしまったように思う。

少しだけ並ぶラーメン屋、テーブルが油でペトペトする町中華、サービスの小鉢が楽しみだった定食屋。
どこで何を食べても、彼となら美味しいし、楽しかったことに、気づけなかった。
ポケットに隠し持っていた指輪をくれるような、どこかで見たような恋愛に憧れていたから。

彼の全てを思い出すたびに、私の胸は、ざらざらの紙やすりで擦られる。

でも、忘れたくない。
バカだった自分も、できることを精一杯してくれた彼の優しさも、戻らない時間も。

もし娘ができたら、そういうことをちゃんと教えたいと思うのだ。

(了)


こちらの企画に参加させていただきました。
4回目の参加、やったー!嬉しいです。
小牧部長様、いつもお題をありがとうございます。


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