6000円の貝殻事件
──嫌な予感はしていた。
通りすぎても、彼の視線だけが、そこから離れなかった。
***
家族で久しぶりに電車に乗ってお出かけをした。
車じゃないと出かけることを拒み続けたYotaと、電車に乗って遠出できるようになるなんて。
自分のリュックを背負い、弟と手を繋いでいる姿に胸が熱くなる。
目指すは、江ノ島だ。
片瀬江ノ島駅に到着すると、すでにものすごい風が吹き荒んでいた。
江ノ島までの「江ノ島弁天橋」を、家族全員強風オールバックで渡る。
弁財天仲見世通りには、旅館や飲食店、土産物店などずらりとお店が並ぶ。
その中に、Yotaがじーっと釘付けになっている店があった。
視線の先には──
ゲ、嫌な予感がする。
一筋縄じゃいかねぇこの男と長年過ごしてきていると、もはや言葉なんていらない。
彼の視線だけで“要注意センサー”が、ピピッと反応する。
「なんかお腹空いちゃったね。先にお昼にしよっか♪あ、あそこ!あそこ空いてそうだよ」
私は瞬時にYotaの視線を逸らす作戦に出た。
何かを言いたそうだったが、気が付かないフリをして手を引っ張る。
母に手を引かれながらも、彼の視線はそこから離れない。
「お母さん、あのさぁ......」
ビービービー
要注意センサーが、警戒音に変わった。
もう、「あのさぁ......」でわかっちゃう。
「あそこの店に、貝殻がたくさんあったよ」
うん。知ってる。
あなたの視線の先に、大小さまざまな貝殻がずらりと並べられている店があったこと。
母さん、知ってる。
「入りたい」
ここであの店に入ったら終わりだ。
動けなくなることは目に見えている。
エスカー乗りたい。
岩屋に行きたい。
江ノ島エンジョイしたい。
「とりあえず、食べよう。食べてから考えよう。ほら、混んできちゃうから!」
こうなれば先延ばし作戦だ。
Yotaの視線は完全にあの店に持っていかれたまま、私は体だけを連れて、何事もなかった顔で海鮮丼をみんなで食べた。

***
相変わらず強い風が吹いている。
今日の私たちは、終始・強風オールバックだ。
「風強いからさ、ほら、岩屋が閉まっちゃう」
Yotaが口を開く前に、すかさず適当な理由をくっつけてその場を去ろうとする私。
「じゃあ、帰り絶対あの店に寄るから!」
「わかったわかった。ほら、あれがエスカーだよ!」
彼の意思は固そうだ。
──もう帰りに貝殻の店に寄るしかないな。
私は腹をくくった。
***
エスカーに乗り、目指すは江ノ島の頂上。

いい眺めだが、風がますますとんでもないことになっている。
「目が開かない」と次男が言う。
これ、岩屋に行けるのか?
「ちょっと、風すごいね。岩屋、どうす......」
「やめとく」
Yotaがかぶせ気味に返してきたのは気のせいだろうか。
彼の顔が貝殻に見えてくる。
私たちは強風により岩屋を断念し、帰ることにした。
***
「お母さん、あのさぁ......」
はい、きましたね。
貝殻の店でしょ。それで、欲しいって言うんでしょ。
「貝殻買っても、いい?」
わかっちゃう。
母さん、アータの言うことわかっちゃう。
Yotaがこんな風に小さい声でモジモジしながら言うのは、彼もまた私が何て言うかわかっているからだろう。
「ええー!貝殻ぁぁ買うのぉぉ?!家にあんなにたくさんあるのにぃぃ?!」
“やっぱりそういうと思った”って顔しとるわ。
私がこんな反応をするのには理由がある。
Yotaが貝殻にハマった時期があった。
とにかく休みになると、いろんな浜に行き、貝殻を拾いまくった。

彼の貝殻ブームはあっという間に過ぎ去り、これらの大量の貝殻たちはもはや触れられることもなく、ひっそりクローゼットの奥にしまわれているのだ。
だのに新たに買おうって言うのかい?
「自分のお小遣いで買うから」
彼は引きさがらない。
嗚呼、この感じ、嫌な予感しかしない。
貝殻のお店に到着し、彼は真剣な眼差しでずらりと並べられている貝殻を見定めている。
これは、時間がかかりそうだ。
そんな兄の側で、「これにするぅ」と一瞬で決めちゃう弟。
棚の前を右往左往しながらじっとりねっとり貝殻を見続けながら、なかなか決まらない。
弟が「まだぁぁ、早く帰りたいぃぃ」と、早くも飽き出している。
「これが欲しい」
はぁ……やっと決まったか。
しかし、彼が指さしていたそれは──6000円の巨大ホラ貝だった。
「いやいやいや、6000円だよ?!」
お小遣いで買うからと、どうしても譲らないYota。
6000円のホラ貝なんぞ断固反対な母。
彼の瞬間湯沸かし器の感情に任せて購入し、今では埃をかぶっているアイテムたちがわんさか存在するのを知っている。
「過去のことを引き合いに出すのは良くない」と育児本で読んだ。
......が、そんなの黙っていられるわけがない。
言っちゃう言っちゃう、めっちゃ言っちゃう。
だってさ、このホラ貝、子どもの顔以上あるよ?
今でさえ、もので溢れているというのに、そんなでっかいのどこに置くというのか。
黙るYota。
でも、全く引き下がる気配がない。
グズる弟。
だんだんイライラしてくる私。
そんなときは、夫にバトンタッチだ。
私はスッとその場から離れ、2人の様子を遠くからうかがうことにした。
夫がアレコレ案を出すが、一歩も譲らないYota。
こりゃー、通称めんどくせぇゾーンに入ったな......。
夫と目が合う。
「もう、いいんじゃないか?」と訴えてくるが、鬼のような形相でブンブンと首を横に振る。
私も譲らない。
だって、相手は6000円。
欲望にブレーキをかけるのもまた、勉強だ。
「じゃあさ、次に江ノ島に来る時にまだ欲しかったら、その時は買ったら?」
私が絞り出したこの案に、ついに、Yotaが折れた。
そして、渋々選んだのは、1500円の貝殻だった。
それでも高い気がしたが、その言葉は飲み込むことにした。
こうして、1時間にも及ぶ貝殻攻防戦は幕を降ろしたのであった。
***
帰宅してから、ルンルンで1500円の貝殻を袋から取り出すと、さっそく貝殻の本を引っ張り出して名前を調べ始めた。
だんだん愛おしく思えてきたらしい。

ツノヤシガイ
そしてその夜、彼はこのツノヤシガイと一緒にお風呂に入ったのだった。

「今、貝殻のYouTube見ながら、本見て調べてた。また僕、貝殻ブームきたみたい」
本を見せて、私にいちいち報告してくる。
あの日から、彼の貝殻アピールが止まらない。
「ほら、ここに置けるよ。絶対、次江ノ島行った時、買うからね!」
棚の上に置いてあるものたちを雑に寄せ、得意げに宣言した。
彼は本気かもしれない。
あの案を出したのは、他でもない、この私だ。
ツノヤシガイの横に空けてあるスペースに、6000円の巨大ホラ貝の姿を思い浮かべ、ため息をひとつついたのだった。

***
ツノヤシガイと一緒にお風呂に入るYotaって......
#すごない ?
1時間の貝殻攻防戦て、私......
#すごない ?
ちゃぼさん♡お納めください!
