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止まり方を知らなかった私に、ひとつの処方箋


「お嬢、病院行ってみたら?睡眠科っていうのがあるみたいだよ?」


心配そうに声をかけてくれたのは、向かいに座る姉さんだった。
私が派遣社員として働いていた時の、年上の優しい女性社員だ。
私のことを「お嬢」と呼んで可愛がってくれていた。


私は、姉さんからデータ入力の仕事を任されていた。
その打ち込んでいる最中にどうしようもない睡魔に襲われ、コックリコックリ寝てしまう。


郵便物の封をカッターで開けている時もそうだ。
たった20cmの封。
それすら、開けきる前に眠ってしまう。


インスタントスープをかき混ぜている間に寝てしまい、指がお湯に触れて、熱っと目が覚める。
ホームで電車を待っている時も、信号待ちをしている時も、どうしても起きていられない。


自分は異常だと、やっと思えたのは、朝出勤しているときに歩きながら寝てしまい、沿道の草に体ごと突っ込んでしまった時だ。
向かいからジョギングしてくる人に変な目で見られたことをよく覚えている。


そして、食べても食べても太らない。


姉さんは、「人が眠る瞬間を初めてみたよ」と笑いながらも、とても心配してくれた。
そして、睡眠科を勧めてくれたのだ。
それでも、私は、行かなかった。


***


自宅でテレビを見ていた時のことだ。
タレントが富士登頂を目指し、ご来光を前に涙するという番組だった。
今まで何度もそのような場面を見たことがあるのに、なぜか、その時、ご来光から目が離せなかった。


──私、富士山登る。


次の瞬間、友人を誘い、富士登山ツアーに申し込んでいた。


富士登山は、想像以上に過酷で、9合目くらいから私はゲロゲロ嘔吐しながら登った。
こんな過酷な思いをして登ったのに、曇っていて、ご来光は拝めなかった。
無念。


富士登山は、登るのも過酷だが、下山もまた容赦がない。
下っても、下っても、見渡す限り砂地。
もう永遠に終わらないんじゃないかと錯覚するほどだった。


しかも、履いていたトレッキングシューズは借り物で、少し大きい。
傾斜のたびに、親指が靴の先に押しつけられる。


気づけば、爪がもげていた。


病院に行く頃には、私の親指は相当膿んでしまい、高熱まで出てしまう始末。
原因を調べるために、念のため血液検査をしたのだ。


後日、病院から連絡が入る。


「血液検査により、◯◯の数値が異常なので、できるだけ早めに受診してください」


「異常」という言葉に、ドキリとする。
異常ってなんだ。
何か病気が見つかったのかな。
どうしよう......。


私は痛めた足を引きずりながら、すぐに病院に向かった。
そこで検査結果を見ながら先生に告げられたのは──


「バセドウ病です」


バセドウ病とは、甲状腺ホルモンが過剰に分泌され、体が常にフル回転になる病気だ。
動悸・体重減少・手の震え・発汗などの身体的症状や、イライラ感や落ち着きのなさといった精神的な症状が現れるようになり、心も体も休まらなくなる。


わかりやすくいうと、ずっとマラソンしている状態なんだそうだ。
寝ている時も。


だから、私、いつも疲れて眠かったのか。
そりゃ、ずっと走ってるんだったら痩せるわなぁ。


自分に起きていること全てが繋がった。


──私、病気なんだ。


過酷な富士登山により、眠っていた病魔が覚醒したのかもしれない。
それはきっと、身体が教えてくれたSOS。


その時、私は28歳だった。


***


「将来、子どもを考えてる?」


血液検査の紙を見つめたまま、主治医は少しだけ黙り、
それから、静かにそう聞いた。


私は、30歳だった。


「いろんな考えがあるけど、年齢や再発のことも含めて、甲状腺は全部摘出したほうがいいと思う」


その言葉を聞いた瞬間、涙があふれた。
どうして泣いているのか、その時は自分でもわからなかった。
ただ、
ああ、私、手術するんだ。
そう思った。
そして、そこまでしないと、私は止まれないんだ、とも思った。


私は、泣きながら「はい」と答えた。


「うん。それが一番安心だと思うよ」


年配の看護師さんが、黙って背中をさすってくれていた。
その手は、あたたかかった。


──よくここまで頑張ったわね


そんな声が、背中から聞こえた気がした。


手術は、半年後に決まった。


ずっとしんどかった。
休みたいのに、休めなくて。
休み方も、わからなくて。
体はあんなにSOSを出していたのに、
私は、気づかないふりをしていた。


今思うと、
あの涙は、
張りつめた気持ちだけじゃなかった。
どこか、ホッとした気持ちも混ざっていたのかもしれない。


***


私の首には、今でも手術跡の傷が残っている。
だいぶ薄くなったけど、時々ツンと引きつる時がある。


──ある朝。


卵を割ろうとしただけで、涙が止まらなくなった。


得体の知れない不安感が、胸の奥に広がる。


冷蔵庫を開けると、腐りかけの野菜が目に入った。


体が、
心が、
動かない。


ただ、涙だけが落ちていく。


ああ、これは。


心が、
「休みたい」と言っている。


私は、病院へ行った。


今は漢方を飲んでいる。
自分ではよくわからないけど、家族は「落ち着いているかも」と言う。


首の傷を見るたびに、あの頃の自分を思い出す。
何者かになりたくて、
走り続けていた私を。


今の私は、
少しだけ立ち止まることを覚えた。


ご褒美のエクレアを食べる。
あたたかいコーヒーを飲む。
優しい言葉に触れる。
大好きな人に会う。
大好きな音楽を聴く。


大好きなもので心を満たす。
心が少し、やわらぐ。


疲れたら、休む。


私にとってそれは、
ようやく手に入れた、
いちばんやさしい処方箋、

なんだと思う。

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