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心に石川啄木を飼う

定期的に、文人のクズエピソードが流れてくる気がする。

最近も、定番の澁澤龍彦、井上ひさしを読んで、また胃がムカムカする。
井上ひさしの

自分にしか書けないことを、だれにもわかる文章で書くということだけなんですね

新潮社「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」より

私はこの言葉がとても好きだけれど、井上ひさしのクズエピソードは別。
よく、文人のクズエピソードを「時代が…」と片付けるような人がいるけど、じゃあ、何か、虐げられた女に向かって、時代だから勘弁してよ、って面と向かって言えるのかお前は、ぐらいには思ってますね。

ふと思い出したけど、文人ではないですが、伊藤博文を「箒」と呼んだ人には拍手を送りたいです。

石川啄木も、その浪費癖と女癖は夙に有名。
それは到底褒められたもんじゃないと思っていますが、石川啄木と言えば、やはりこの一首が私は好きです。

一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと

「一握の砂」より

他の解釈の余地がない。
一度でも自分に頭を下げさせた人は、全員死ね!と祈った、ということですね。
いやー、実に清々しい。
心の声が駄々洩れ。
借金の返済を迫られたり、女関係で責められたりと、啄木は頭を下げつつ、こう思ってやり過ごしていたのかと想像するだけで、どうしようもないな、まぁ、分からなくないんだけど…という気持ちになる、のはダメなのか(笑)

この一首について言えば、表現技法である【体言止め】を説明するには最高の一首ではないかと思っています。
体言止めは余韻を残すとか強調する、と聞いても、はて?と思う中高生が多い。
大人も。

新聞記事では、あまり体言止めは使いません。
1つの記事で、使っても1回程度(あ、体言止め!)。
70行程度ならば使ってもいいけれど、30行程度ならば、できれば使いたくないかなぁ。
使いすぎると鼻につく。
リズムが生まれるのはいいんですけどね。
私は、体言止めを多用する先輩に付いて添削してもらっていたので、気を付けるようにしていました。

字数という点を無視して、「いのりしこと」の「こと」を体言止めにしない点だけで考えると、例えば、

①(一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねと)いのりたり
②(一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねと)いのりぬ
③(一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねと)いのりけり

①は、「祈った」という事実の報告。
②は、行動の達成や完了のニュアンス。
③は、①と同じ。

それが、

一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと

と終わると、途端に強烈な印象になるのが面白いと思ったのです。
言ってることは同じなのですが。
全員死ねよ、っていうことなので。

「こと」で終わることにどのような効果があるかというと、
「死ねと祈ってしまったなぁ」
と、行動を一歩引いてみている状態になるのではないかと。
「祈った」という行動ではなく、「死を祈った事実・出来事」がそこに現れるのです。
私たちは、「死んでしまえと祈ったんだな」という”動き”ではなく、
「死んでしまえと祈るという出来事があったんだな」というかたまりとして捉えるようになる。
あれ、分かりにくい?

もう呪詛、って感じ。
ものすごいどす黒いものが、ポンと目の前に差し出された感じを受けるのです。
祈ったのね、とさらっと流せない、強烈、峻烈な感情が響く。
「死を祈る」という行動よりも、「死を祈るという、そこまで思い詰めた強烈な感情」に目が行く。

だから、体言止めの効果がものすごい一首、教材としては最高じゃないか、と思う一方で、あまりにも強すぎるので、使う相手は選ぶ(笑)

短歌の話をしながら、体言止めを説明する機会がまたそろそろ来そうなのですが、慎重に。
まぁ、使う使わまいが、私の心の中で啄木を飼う、というか、この歌を飼い続け、啄木も歌に残してるし~ぐらいに時々どす黒い感情を処理していこうと思います(笑)


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