【世にも長い職務履歴書】どこで書いてきたかより、どう生きたかについてのライター10年史
○はじめに○
仕事のアサインの際に先方から求められた時にしか出してこなかった、ライタープロフィール。ライターにおけるプロフィールで何を見られるかといえば、どんな媒体でどんなことをどれだけ書いてきたか=これまでの実績だろう。つまりこれは、職務履歴書なのである。
性格的に演劇以外の自分のお仕事をSNSなどでシェアすることもこまめにできない私である。(演劇はやはりその本番を生を観ていただきたい気持ちがあり、むしろ前のめりにシェアするのだけれど、その他はなかなか追いつかないまま発売日や公開日などタイムリーな時間が過ぎてしまう。)「SNSでも実績を気軽に見られるようにした方がいいよ」と前々から何人かの信頼している方に言われてきたこともあり、ついに重い腰をあげて、noteに仕事用のそれをコピペしようと思った。しかし、媒体名や著名人の名が書き連ねてあるそのワードを指先でコピーしたその時、少しの違和感が過った。こんなのでいいのかな?と思った。私は本当に、これを誰かに知って欲しいのだろうか、と思った。
仕事が来るかもしれない。何かのきっかけに繋がるかもしれない。それはとても嬉しい。でも、そうであるならば尚更「どこで仕事をしてきたか」以上に書きたいことがあった。どんな風にこの業界に入って仕事を始めたか、どんなことを諦めて、どんなことを諦めなかったか。いつが苦しくて、いつが楽しいのか。それはつまり、どう生きてきたかという話である。ライタープロフィールとしては、いささか趣が違うかもしれないが、書いてみようと思う。もちろん、最後にそれらしいものも載せる。でも、それは本当の最後に。
私は好きなものは最初に食べるタイプである。不測の事態があった時に食べられなかったことを悔やみたくないという教訓は愛する『ちびまる子ちゃん』から学んだ。だから今回も、不測の事態があった時に先に知っておいてほしいことから書こうと思った。今の時代自体がかなり不測の事態ではあるけれど、不測な時代でもこの仕事を続けたいと思う私の、しがないライターの10年史だ。しがない私はちなみに滋賀出身である。先に言っときますが、長いです。余談だらけの、しかし余談こそ本題のようなプロフィールです。そういうのええねん、ええから早う実績教えて、って方は超絶スクロール技巧して最後に飛んでくれてもええねんで。それでははじめます。

筆記試験すら通らない、ど・ポンコツな就活生時代
文学部日文専攻(太宰治ゼミ)だったこともあり、書籍や文芸誌の編集者に憧れて出版業界を目指したのが最初だった。文章を書くことは一番好きだったけれど、「好きなことは趣味でも続けられるぞ」という気持ちもあり、けれどもせめて好きなものに関わる仕事がしたいと思っていた。本当はそれが一番大変で、精神的にも物理的にも難しいということを、当時の私はまるで想像がつかなかったのである。同時に雑誌の<ライター>と<編集>の業務の違いすら厳密には説明ができないほど、とにかく就活生の中でもかなりの無知に分類されるタイプの、ど・ポンコツだった。
当然そんな者がいつの世も高倍率の出版社の面接などに受かるはずもなく、受けた全ての出版社に見事に落ちた。その落ちっぷりは39段の階段落ちで有名な平田満も驚くほどの鮮やかさだった。落ちて落ちて落ちまくった。倍率高過ぎ問題以前に、まず筆記試験ムズ過ぎ問題である。その後多くの出版社の社員さん方とお仕事をご一緒するようになるのだが、あれをかいかぐって最終面接まで決めた方々へは無条件で敬意が払える。そう思えるくらい私にとっては難関だった。
「そんなポンコツがなぜこの氷河期に狭き門出版に絞った?!」という声は固定BGMかと思うほどに方々から聞こえてきたが、「出版業界以外で働いている自分がてんで想像つかなかった」というのが、階段から落ち続けたにもかかわらず行進をやめなかった最もシンプルな理由だった。
とはいえ、「一つくらいどこか違うところ受けとこうか」と受けた某映像制作会社が、ど・ポンコツ就活史上最もいいところまで駒を進められた会社であったのもまた事実である。
面接の質問で「昨日は何をしていましたか?」というのがあって、一番打者だった私は「本当はアメトークの観覧に行っているはずだったんですけど落選してしまったので、せめてと思い東京を観光してました」と答えた。その後の打者たちが続々と今日への準備やその緊張感を述べて述べて述べまくる中、ようやく「ああ、そういう意図の!」と類を見ない察しの悪さを発揮したが、奇しくもこの会社がアメトークの制作にも関わっていたらしく(もちろんポンコツはそれすら知らなかったのだが)、ひょんなことで生き延びたという経緯があったかなかったかは知らない。とにかく、面接が一緒だった映像業界が本命の男の子に「なかなか攻めてたねえ〜!その発想はなかったよね。いや、一本取られました」と言われ、エレベーター降りた後に「最終で会おう!」って溢れる笑顔で戦友スタンスの握手求められた記憶はある。攻めた覚えも一本とった覚えもなかったので申し訳なく思いながら、握手したのかしてないのかも忘れたけど多分性格的にそういうの断れないからしたんだと思う。その後しばらくして、「最終で会おう」ってなんやねん、って思った。ターミネータかよ。しかも、これ一次面接やん。
もちろん彼とはその後は会っていないけど、どうせなら最終まで生き残り、今は「オンエアで会おう!」とか言っちゃう敏腕ディレクターになっていて欲しいとは思っているし、笑顔が素敵だったから、なんだか彼ならなっていそうだと無根拠だけど思う。
と、まあそんな感じで、当の私はどこにもI`ll be backを果たせないまま、余談しかない就活時代は結果なく終わった。
遅れたキャリアスタート
そんなこんなで面接を全落ちしたにも関わらず、「卒業後も東京で就活を続ける!」という謎の意思の強さを家族に表明し、諦め悪く途中採用の面接に出向く日々が続いた。そんな中、6月採用で児童向け出版社に内定が決まり、喜び、も束の間。震災による人員削減という理由で突如内定取消しとなった。流石に落ち込み、荒れて、酒浸りで過ごした二日後に一本の電話がかかってくる。半年以上前に応募を出していた唯一のファッション誌、その編集部からだった。内容は「ファッションスナップのお手伝いに来てくれませんか?」というもの。これが、私のキャリアスタートとなる、『Zipper』という雑誌だった。

「お手伝い」として呼ばれた私がやったことはカメラマンさんのレフ持ち、駐禁の見張り、アンケートの回収、あとはローソンにからあげクンを買いに行ったりするくらいの取るにたらないことばかりだったが、暑い夏の日にスタッフの飲み物を入れる用にクーラーボックスを持参したことは編集部内でちょっとした噂になったらしい。「そんなことしてくれたお手伝いさんはじめてだよ!」とカメラマンさんや編集さんに褒められた。そう、私が褒められるのは昔からこういうことでしかなかった。基本的にはポンコツなのだが、大家族で育ったこともあり気働きだけはそこそこできたのである。流石にそれが理由ではないはずだが、そんなこんなで週3程の頻度で定期的に呼んでもらえるようになった。出版業界に入るにはもう片足でも無理やり突っ込むしかない、と思い始め、「どうにかバイトと繋いでこの編集部に入るぞ!」と「お手伝い」に精を出す日々。ちなみにバイトはガールズバーで、お尻がギリギリ見えるバニーガールの衣装を着ていた。それも一度きて仕舞えばほぼ体操服で気にならなかったし、何よりお客さんとの連絡先交換禁止、高時給、シフトに融通がきく、タダでお酒飲める、の四拍子が揃い、とてもよくしてもらった。結局ライターとして独り立ちしてからも収入が安定するまではアルバイトの籍を残してもらっていた。ちなみに、うさぎの色は白だった。
しばらくの間、主に原宿の街中でスナップ撮影補助を続けた後、今度は編集部内でのお手伝いも頼まれるようになった。イベントの準備や文字起こし、ファッションページのリサーチ、アポ入れ、リースや返却の段取りなど、アシスタントとしてのセクションを一通り担った後ようやく独り立ちし、企画をいただくようになった。ある時は編集部で220体分の衣服を徹夜でたたみ、またある時は1日中ロケバスの中で過ごし、またまたある時はただただ原宿の街や服飾系学校の校舎内でおしゃれな人をハントし続ける。当時は職業を聞かれた際に「ライター」と答えることが憚れるほど、「書く」段階に行くまでにこなさなくてはならない仕事があった。しかし、1つの雑誌を作るにあたってどれだけの仕事があり、どれだけの人が関わっているかということも含め、出版にかかるあらゆるノウハウを学んだ場所こそがこの編集部だったとも言える。(賛否両論はあれども、フリーライターに仕事のいろはを教えてくれる存在などいない中、これだけマルチな経験をさせてもらえたことは後々もさまざまな現場でかなり活きたと思うし、強く感謝をしている)

一人で企画を担当するようになってからは、ファッション色というよりもカルチャー色の強い企画を受け持つことが多く、誌面でいうところの主にタレントへのインタビューページを担当することになった。次回作のPRを名目に、多くの俳優やアーティストにお仕事やその展望、時にはパーソナルに関することまでいろんな話を聞かせてもらい、読者に伝わる文章にすること。駆け出し時代にそんな経験をいくつも持てたのも、この媒体あってのことだった。
一番嬉しかったのは、小説家の樋口毅宏さんに新作のお話を聞いた時だ。ティーン誌ということもあり、映画やドラマのピックアップが多く、小説のインタビューは稀有な出来事だったこともあり、本当に嬉しかった。そのページのキャッチ(見出し)は今でも忘れない。<“文学”をもう一度メインカルチャーに取り戻したい。その一心で書き上げました>という35文字だった。サブカルという言葉を今一度問いただすような樋口さんのその言葉に、強く胸を打たれた。それは同時に「私はファッションも好きだけれど、一番やりたいのは<ファッション誌>ではない」ということがより明確になった瞬間でもあり、この気持ちはずっと持っておきたいと思っていた。
やりたいことができるようになるために、今はここで一生懸命やる。そう思っていた矢先に人生のターニングポイントがやってきた。できちゃった、のである。
保育園落ちたけど日本死ねというより私生きろ

妊娠したのは、いくつもの企画や担当連載を兼任し、自分もお手伝いさんに助けてもらうようになった、まさにノリにノリ出した頃。25歳だった。同業種の同世代はおろか、編集部内にもほとんど出産をしている人がいなかった。「おっし!ギリギリまで働いて、産んですぐI`ll be backすっぞ!」と息巻いたが、ここで待機児童問題に直面する。時はかの有名な「保育園落ちた日本死ね」の2年前だったが、状況は同様かそれ以上のものだった。就活も氷河期、育児も氷河期。雪の女王・エルサばりに何かと氷と縁がある私だが、氷が溶けるまで待っていたら、女王でないひよっこライターの私など誰からも忘れ去られてしまうことは、火というよりむしろ氷を見るより明らかであった。
保育園が決まるまでは、連れて行ける現場には子どもをベビーカーに乗せて連れて行き、そうでない時は姉に保育料を払って子守をしてもらってなんとかしのいだ。とはいえ、夜中も当然のように稼働するティーン誌での仕事は物理的に厳しく、次第に声がかかることも減っていった。しかし捨てる神あれば拾う神あり、である。出産をきっかけに同社のママ向けライフスタイル誌『nina`s』の編集さんが声をかけてくれるようになったのであった。

しかし問題は隔月発売、である。これだけでは食べていけないし、食べさせてもいけない。これまで営業をしなくても月の全部が自然と仕事で埋まる、というフリーライターとしては有り難すぎる状況に甘んじていたこともあり、「いよいよここからが本戦」という状況に正直たじろいだ。しかし、ものは考えよう。どうせ本戦ならば、一番やりたいこと・書きたいことにアタックしようと初めて自らの足で営業に出向いたのが演劇専門の媒体だった。営業に行ったのは今のところ演劇の媒体が最初で最後だが、有難いことにもう7年、演劇についても書かせてもらっている。
仕事が増えるたび、嫌いな人も増える悲しみ
不思議なことに、このあたりから出入りする媒体が一気に増えることになった。これまで仕事をした編集さんが他の会社に移ったり、知人を介して他媒体から声をかけてもらうことが増え、他誌やweb、広告媒体など活動の場を広げられるようになったのである。この時に意識したのは、「とにかく全ての仕事を一度やってみる」ということだった。そして、そのことで実感したのは、細々とでも動き続けることがフリーランスにおいては大事なんだな、ということだった。
従来通り、ファッション・ライフスタイル関連の紙媒体をはじめ、映画や演劇に関するweb媒体、広告代理店からも仕事をもらうことが増え、企業のイベントレポートやコーポレイトサイトや特商品設サイトのテキスト、ネーミング、キャッチコピーの仕事もやるようになった。この頃に再び出産を経験することになるが、第一子の出産後に仕事が激減したという悲しい事実を踏まえ、妊娠・出産に関しては気付かれるまで告げることはせず、そのお腹を見て「妊娠した?」と聞かれるまでは沈黙を貫き、しれっと産んで復帰して生後四ヶ月で保育園に入れることもできた。

とはいえ、順風満帆ではなかった。仕事が増えてもいいことばかりではなかったし、嫌いな人や合わない仕事がなかったのかといえば、まるで嘘になる。
いわゆる下請けのような形で受けた仕事で、敬意がはらわれなかったり、尊厳が踏み躙られたり、不義理な扱いを受けることもあった。中でも、長く出入りしていた会社からハラスメントと十万単位のギャランティ未払い(8ヶ月後に全回収)に遭った時は、いくら仕事であっても悪縁は早く切らなければいけない、とも思った。自分で言うのもなんだが、幼少期から私の唯一の取り柄は人当たりの良さだった。人の悪口を言わない、というのもその一つの側面であったが、この時期の家での私は悪口の権化と化していた。口をひらけば、嫌な言葉たちが溢れてきて、眠る前にひどく後悔して、お清めの意味合いでなぜか歯を繰り返し磨くようになってしまうほどだった。そして、悪口にとどまらず、どうしても解せない時にはバトルに展開することもあった。今思うと、私はこのくらいの時期からようやく自分の仕事に矜持を持てるようになったのだ、とも言える。

不誠実なことや狡いやり方、曲がったことが嫌いである。許せなかった。言わない選択をとった方がきっと仕事が減りはしなかったが、言わずにはいられなかった。でかい相手と戦うのを怖がる自分と、ちっぽけな自分を捨てるのを怖がる自分がせめぎ合い、後者に一票入れた私であった。戦う方を選んだ私に「フリーで生きていきたいなら」とか「この業界では」なんて言葉を言う人もたくさんいた。知ったこっちゃない。空気読むためにフリーやってるわけじゃない。私は確かに生きているけど、この世界で生きているだけで、この業界で生きてるわけじゃない。生きる場所はいつだって自分が決めるし、フリーライターである前に、鼻からフリーなんだよ。後ろ盾もない代わりに、その気になればしがらみも縛りだって何一つないんだよ。
とは、本気で思っているけれど、きっとそれくらい強がらないと壊れてしまいそうだったのも事実だった、と今は思う。そのくらいこの時期は本当に辛かった。戦う方を、面倒な方を選びがちな自分を決して悔いてはいないけれど、人を嫌うことにエネルギーを使うよりも、好きな人と過ごすことでエネルギーを貯める方がいい。本当はずっと、そっちの方が自分っぽいと知っている。サステナブル、という言葉を聞く時私はついそんなことを考えてしまう。持続可能、な働き方。なるべく穏やかで楽しくいたいけれど、これからも戦わなければならない時にはそっちを選ぶんだろうな、とも思う。それが、私を私たらしめる"持続”の本質だったりするからだ。
そんな時期を経て私は、極めて私的な“働き方改革”を行うことにしたのであった。それは、内容やギャランティというよりも、関わるもの・関わる人に「好き」がある仕事しかしない、というものだった。キャリアというよりも、ちっぽけな自分と生活、そしてそのたましいを守ための私から私へのマニフェストである。
自分のことを自分の言葉で書くということ

そんな時期に私はあるクラウドファウンディングと出会う。俳優の町田マリーさんと中込佐知子さんが<家庭と演劇の両立>を目指すべく立ち上げた、パショナリーアパショナーリアというユニットの旗揚げ公演であった。<家庭と演劇の両立>はすなわち、<私と私の両立>でもある。その言葉に強い感銘を受けた私は、クラウドに参加し、2回目の公演の折に直々に取材を申し込んだ。自ら企画した取材のオファーをするのは初めてのことだった。そこを一つのきっかけに、まずは私が私と私を両立させるべく、ペンネームも一新することにした。公演の意義に触れながら、仕事と育児、演劇と生活の狭間で自分と自分の挟み撃ちになることについて筆を走らせた。パーソナルな経験や思いを原稿に乗せたのもこれが最初だった。

そろそろ人の言葉だけでなく、自分のことを自分の言葉で書きたいと思っていた頃だった。趣味としてではなく、仕事として。いや、むしろライフワークとしてである。そうして、ご縁あっていくつかの媒体でコラムやエッセイを公に発表する機会にも恵まれた。中でも読者として大好きだったwebメディア「She is」で三度エッセイを公開していただいたことは宝物でお守りのような出来事だった。

仕事を選ぶようになってからも、それなりに迷いはあった。好きだからギャランティが低くても割り切れるもの、その逆で、あまり興味はないけれどギャランティが高いから割り切れるもの。いろんな仕事があるけれど、ベースにはやっぱり「人」があり、関わる人から嫌な予感がするものは断るようにした。と、なると「なんでもやります」のイエスマンライター期からは収入自体は減少を辿る。そこではじめたのが、もう一つの革命。アルバイトだった。もちろん、バニーガールではない。フリーランス8年目にして、新たにやってみたいことがそのアルバイトだったのだ。
ライター8年目、新米アルバイトへ

ライター業との兼業に私が選んだアルバイトは、やはり演劇にまつわるものだった。演劇といっても劇団に入るとか、制作会社に入るとかそういうものではない。演劇のチラシを織り込み、チラシ束に仕上げる会社にアルバイトとして入ったのだ。紙媒体でキャリアをスタートさせた私にとっても、演劇を愛しもっと知りたいと思う私にとっても、その環境はとても魅力的なものだった。紙文化、と言ってイメージされるのは書籍や雑誌が主かもしれないけれど、この「チラシ束」という媒体はかなり独特のものであり、同時に代替のきかないものだと常々感じていたからである。日本中の公演のチラシが一堂に会すこの会社で働くことで、今まで以上に多くの劇団や公演を知ることができたし、演劇について考える機会も増えた。社内では劇団を主宰したり所属している人も多く、演劇がいわば共通言語であること、当たり前に生活に演劇がある人たちと会話を交わしたり、その中で働けることがとても心地よかった。同時に自分の本業は文筆業であり、ライターを続けるという指針にも何ら変わりはなく、これまで通り、ファッション誌も演劇媒体も広告媒体も引き受けている。

そんな折、アルバイト先の会社が社名変更に伴い、コーポレイトサイトを作ることになった。普段は社内の新米アルバイトで再びのポンコツ道を爆進中の私は、サイト制作の外注ライターとして声をかけてもらい、演劇業界を盛り上げる一つの企業のターニングポイントに携わらせてもらうことになったのである。この出来事はとても大きかった。これまで自分のやってきたことと選び取ってきたものが交わったような大きな喜びを感じた。ファッション誌で演劇に関するインタビューをさせてもらう時もまた同じである。自分の辿ってきた寄り道ばかりの道程を肯定できるような出来事が起こりはじめた今、私は一番仕事が楽しいと思っているのかもしれない。
創作も諦めたくない

ライターとして歩んできた11年、私は決して頻度は高くないけれども創作活動とその発表も細々と続けていた。ことばにまつわる個展を三度開き、詩集やエッセイ集、寫眞との作品集の制作にも取り組んだ。そして、昨年初めて公募として出した私小説と随筆が、それぞれの文芸誌に掲載されることになった。エッセイの方は有難いことに優秀賞をいただいたのだが、何も持っていなかった私が何かの賞をもらうなんていうのは生まれて初めてのことだったから、本当に嬉しかった。どちらの作品も働き方を変えてから書いたものだった。
そして昨年、自分の人生の全てを投じた初めての長編小説を書き終えた。これには7年がかかった。
一生忘れない、最初の一文は授乳しながら書いたのだ。見てもらっている編集者さんはいるけれど、当然文芸賞をとったわけでもないので版元は決まっていない。
それでも必ず近い未来、私はこの作品を世に出したいと願っている。「読んでみたい」と言ってくれる人にはどんどん見せたい。赤字だってダメ出しだって心して受けたい。この16万字が今の私の全てなのだから。
そんなふうに私はこれからも二足も三足も草鞋を履いて、どの草鞋もきちんと手入れをし、暑い日には風にさらし、寒い日にはぎゅうっと胸にあてて温めていこうと決めている。

マルチに活動すること、ジャンルを横断すること
演劇演劇とうるさい私だが、専門的に学んだ経歴もなければ、作り手として携わった経験もない。私生活上の制約を差し引いても、観劇数が極めて多いわけでもない。あるのはやはり、「好き」という気持ちだけだ。
ファッション誌でインタビューの経験はある程度積んだものの、演劇のそれはまた全く別物であり、相応の知識が必要なことも知りながら気合のみのほぼ丸腰で営業に飛び込み、有難いことに今日まで細々と書かせてもらっている。
当初は畑違いだとマイナスイメージを持たれたり、実際その自覚が自分にもあった。ファッション媒体では「演劇に詳しい人」でも、演劇媒体では決してそうはいかず、なんなら「ファッションの人」で。ファッションも好きなだけで全然詳しくはないから、その逆もまた然り。同時に、個人の創作活動として詩や物語や随筆をかいたりしていると、「自分でも何やらかいてるらしい」ということが感心と嘲笑いずれもの形で他者から届くこともあった。 ちょっと変わったキャリアの積み方や生き方をしたことで遭遇する、仕事場での居づらさはそれなりにあった。
「そんな風に思われてるよなあ」と感じる現場を後にする度に、自分を宙ぶらりんに思って落ち込んだけど、自分の在り方や軸足を決めた途端に他者の目はどうでもよくなり本当に「好き」だけが残った。だから今もファッション誌の巻頭原稿を書いた翌日にどこかの稽古場にいたり、バイト先で演劇チラシを折り込んだりしている。そういう日々を愛している。

「演劇に詳しいね」って言われるよりも「演劇が好きなんだね」って言われる方が私はやっぱり嬉しいのだ。それはファッションや本も同じ。全てのことが私にとってはそうなのだ。
これからも自分の力量や才能のなさに落ち込んだりしながらも、私は書くことを続けていくだろう。あらゆる方法と、あらゆる形で。仕事を増やすことよりも仕事を愛することを重んじて、一つ一つのことに取り組んでいきたい。
最後にずっと書いてみたかった原稿を書こうと思う。雑誌やWebのインタビューページの文末にある、あれである。著名人に登場していただく際に原稿に添えるプロフィール。それを自分から自分へ書いてみたいと思う。

丘田ミイ子(おかだみいこ)/1987年生まれ、滋賀県出身。大学卒業後、フリーライターの道へ。祥伝社刊行『zipper』にてライターデビュー。その後、出産をきっかけに2014年より同社『nina`s』で5年間活動。その傍ら、『リンネル』、『Lala begin』、『LEE』、『FINEBOYS』、『赤すぐ』、『Olive』などの雑誌や『She is』、『SPICE』、『ローチケ演劇宣言!』、『演劇最強論-ing』、『DRESS』、『CHANTO web』などのweb媒体、その他企業メディアや広告媒体などへ活動の場を広げる。執筆ジャンルは演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど。近年は、小説やエッセイの寄稿も行う。個人的な活動として、『色彩-ichijitsu-』(2011@ebisu Luv)『こゝろは、いえなき子』(2015@ギャラリー子の星)、『吉松伸太郎×丘田ミイ子×7A 寫眞とことば きみが春をきらいでも』(2020@イーディ)など、ことばを使った展示を不定期開催。直近の掲載作に、私小説『茶碗一杯の嘘』(『USO vol.2』収録)、エッセイ『母と雀』(文芸思潮81号 第16回エッセイ賞優秀賞受賞作として収録)などがある。2015年より育児と仕事の合間を縫って書き始めた初の長編小説を2022年脱稿。破綻した恋愛と東京の街、ある時は劇場、またある時は雑誌編集部で他者の才能に翻弄されながら”ある時”を迎える、駆け出しの文筆家の3年間(2011-2014)を描いた物語である。版元・刊行・発表形式は現状未定(読んで下さる編集さんは常に探しています)
2022年5月より1年間、『演劇最強論-ing』内レビュー連載<先月の一本>で劇評を更新。今年は『CoRich舞台芸術まつり!2023春』にて審査員を務めるほか『条件の演劇祭』の批評企画などにも参加。
<主な活動媒体>
コラム/エッセイ
■She is
https://sheishere.jp/girlfriend/miikookada/
■LEE WEB
https://lee.hpplus.jp/feature/3978/
文芸
■USO Vol.2
小説『茶碗一杯の嘘』掲載
■文芸思潮81号
随筆『母と雀』掲載
■随筆集『喝采の日』
■寫眞とことば『きみが春をきらいでも』(吉松伸太郎×丘田ミイ子×7A)
演劇
■エンタメ特化型総合メディア『SPICE』
https://spice.eplus.jp/spicers/324/articles
■演劇サイト『エンタステージ』
https://enterstage.jp/interview/writer/sugita/index.html
■演劇最強論-ing
https://www.engekisaikyoron.net/tag/丘田ミイ子/
■ローチケ演劇宣言!
■おちらしさん(ネビュラエンタープライズ運営)
連載「丘田ミイ子のここでしか書けない演劇のお話」
https://note.com/nevula_prise/n/n55cac2ebbf3b
雑誌
『Zipper』『nina's』『X-girl stages』 (祥伝社)
『東京カレンダー』(東京カレンダー株式会社)
『NAIL VENUS』(実業之友社)
『リンネル』(宝島社)
『CHOKI CHOKI girls』(内外出版社)
『赤すぐ』(リクルート社)
『Lala begin』(世界文化社)
『NIL』(アソビシステム株式会社)
『FINEBOYS』(日之出出版)
『Olive』(マガジンハウス社)
『LEE』(集英社)
『WEGO magazine』(株式会社ウィゴー)
○担当連載履歴
■綾野剛連載「AND END」祥伝社刊行『zipper』
■千葉雄大連載「僕、形から入るタイプです」祥伝社刊行『zipper』
■仲里依紗連載「RIISAのファッションアンテナ」祥伝社刊行『zipper』
■bomi連載「ワイルドサイドを歩いてみたら」祥伝社刊行『zipper』
■木梨憲武連載 「ワイハのサイコー報」 世界文化社刊行『Lala begin』
そのほかWeb
『NEW YORKER MAGAZINE』小林薫ロングインタビュー
http://www.newyorker.co.jp/magazine/interview/882/
『DRESS』
https://p-dress.jp/articles/13000
『リーズンルッカ』https://note.com/lesenlucke/n/nece11727b770
企業広告・コーポレートサイト・商品特設サイトなど
・FUJIFILM ASTALIFT PR特設サイト
・KIRIN生茶プロモーション ワークショップレポート
http://ocha-iroha.namacha.jp
・ 幸楽苑 20周年特別インタビュー企画『福島と』
https://www.kourakuen.co.jp/pr/interview_ipo20th/kato_cha.html#interview01
・積水ハウス コモンステージ特設サイト
・ヤンセンファーマ IBDとはたらくプロジェクト
PR用トイレットフリーペーパー、イベントレポートなど
https://www.ibd-life.jp/project/index.html
・バンダイナムコ夢応援団プロジェクトWSオフィシャルサイト
https://yume-ouendan.jp
・株式会社ネビュラエンタープライズコーポレートサイト
テキストサポート
https://nevula-prise.co.jp
<その他>
舞台公演パンフレット、イベントレポート/MAYBELLINE×メルセデスベンツファッションショー、
Asia Fashion Collection、X-girl stages×Vitamix親子料理教室、mamafes、womans runなど

