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人類は進化したのか?

正直、私は「古代から比べると人類は進化している」とは思ってない。
理由はシンプル。
肉体とか脳の構造っていう“ハードウェア”はそんなに早く進化していないからだ。

多分、ローマ時代の人間と現代人の精神構造、そこまで違わない。
怒ったり泣いたり、悩んだり恋をしたり喜んだり──そういう心の動きに関しては、今も昔もあんまり変わってないと思う。

SNSでバズってても、ローマ時代に「酒場で噂話してた人」とやってることそんな変わんないんじゃないのって。

じゃあ人類は全然進化してないのか?って言うと、それも違う。
たとえば200年前の人に「電子レンジでご飯が温められるよ」って言っても、夢物語って笑われただろうし、飛行機なんか「鉄の塊が空飛んで人が中に乗る」とか、昇天仙人や龍を概念として持つ古代東洋人がそんな無骨なものを想像し得たとは思えない。

石油から服を作って、しかもそれが誰にでも着られて、柔らかくて見た目も良いなんてことも、きっと想像外だったはず。

だから、もし「人類は進化した」と言えるなら、それは社会そのものが進化したってことだ。

地味で当たり前に思えるようなこと――たとえば毎日の掃除とか、作業の平準化、チェックの積み重ね、安定した運用、暇があれば改良する姿勢――そういう地道な積み重ねが、結果として人類を進化させてきたんだと思う。

人間って、感情や美意識で突然進化するんじゃなく、紀元前からアリストテレスの時代から、ずっと「理想」ってものを心の中に持ち続けて、それに向かって手を動かしてきた。
そういう姿勢自体は、今も昔も変わってないよね。

ただ一つ違うのは、「環境」だ。
人類はその環境を少しずつ整えてきた。
ブラックボックスを解き明かし、技術を生み出し、失敗し、検証し、改善して、安全で快適なモノをつくって広めてきた。それが“当たり前”になるまで、やり続けた。その積み重ねが、今の人類の足跡なんじゃないかと思う。

もちろん、途中には失敗もあるし、大失敗もある。取り返しのつかないミスだってあった。でも、それでも形にしてきた。その結果が今なんじゃないかな。

「努力しても無駄かも…」って思う瞬間は誰にでもあるよね。
でも、その心の中の理想まで捨ててしまったら、そこで人類としての歩みは止まってしまう気がする。

誰かが絶望してるとき、隣の誰かは人生最大の幸せを味わってるかもしれない。
そのギャップこそが、生命の多様性だと思う。

倫理観の変化も、かなり劇的だよね。

じつは、つい先日から色々と調べて、そしてアラブの文化を見て、強く感じたんだ。
「なんて険しい土地に生きてきたんだろう」って。

現代都心部と、そこまで整備されていない厳しい自然の中とでは、語るに語れない程の大きな差がある。

そこでは、男手がなければ生活そのものが成り立たないのが容易に見て取れる。

日々肉(たんぱく質)の為に獣を殺し、家の壁の為に岩を運び、鉄を作り、獣と戦い、天候と戦い、暑さ寒さで死なず、怪我しても死ぬまで動き続け(ている間に治ればヨシとばかりに)、文句を言うより手を動かし、――いやまあ女性集団でも出来るかもしれないけど、それは相当の犠牲と覚悟がいる。効率を考えて、男女それぞれ相当数居るなら、『効率的』になるだろう、それは。

生き残るためには、過酷な自然と日々闘いながら暮らすしかない。

命がけの環境で暮らしてたら、どうしても「力」や「役割の分担」が生存戦略になるわけで。男が外に出て命を張り、女が家を守るって構造も、冷酷な差別というより、「生き残るための合理性」だった可能性が高い

それらは今となって、現代の価値観で見ると「男尊女卑」と言われる文化ではあるだろう。
でもそこには、その土地で何世代も命を繋いできた人たちの、生き延びるための知恵と経験、文化そのものがあった筈だ。

現代の価値観からすれば「それが正しい」とは言えないし、改善すべきことは山ほどあるけど──「そうせざるを得なかった時代と土地があった」っていう理解は、文化を一面的に否定しないためにすごく重要だと思うんだよ。

それにね、男の側も楽してたわけじゃない。
死と隣り合わせの仕事、食料の確保、戦い──ただの「支配者」じゃなくて、「背負わされてた側」でもあったわけで。

たとえ女性が苦しい人生を強いられることが多かったとしても、それは男性が楽をしていたからではなくて──
明日には死んでいるかもしれないような極限の中で、重い責任を背負いながら生きていたからなんじゃないかなって。

つまり、その社会の構造は、ただ不公平だったからではなく、過酷な自然の中でどうやって命を繋ぐかという“必死の合理性”だったのかもしれないなって思ったんだ。

で、たぶん今の時代は「そのバランスの再構築期」なんだろうな。
環境が変わった分、価値観もアップデートしてる途中。でも、その過程で過去を全部否定するのは違うと思うんだよ。
むしろ、そんな厳しい土地でどうやって命を繋いできたかを知れば知るほど、今を生きる自分たちの姿勢も問われるよね。

地球で暮らしてきた人類は、それぞれの国や文化、土地や時代ごとに、現地にあるものをなんとか活かしてきた。
あるものを工夫して使い、整え、形にしてきた。時には非道な権威や理不尽な社会構造に苦しめられながらも、それでも工業や技術として繋ぎ、ここ2,000年ほど、なんとかやってきた。

今もほとんど変わっていない地域もあれば、劇的に様変わりした都市もある。
成功した仕組みや製品、社会制度を真似して取り入れること自体には、是非あれど、それでも悪いことばかりじゃない。優れたものを倣って普及させるのは、ごく自然な進化の一形態だと思う。

でも一方で、その土地で独自に発達した文化や仕組み、やり方っていうのは、それ自体がかけがえのない人類の知恵だよね。

それはただのローカルルールじゃなくて、そこに暮らした人たちがどうやって生き抜いてきたかという「生き延びるための記録」なんだ。

で、ふと思った。
もし将来、人類がまったく違う星、別の惑星の文明と出会ったとき──
その土地で生き抜いてきた知恵こそが、新たな問題や未知の状況を打開するヒントになるんじゃないか?

そしてそれらを保全し尊びつつ、更に活かせる時代・文化そのものこそが、地球人類が、宇宙に出る・出られる場合の「未知の惑星を開拓する場合の、最低合格ライン」なんじゃないのか、って。

文化の多様性やローカルな知恵って、単なる“違い”じゃなくて、“生存戦略のサンプル集”みたいなものなんじゃないかな。

それがあるからこそ、人類はまだ見ぬ未来にも対応できるんじゃないか、そんなふうに思う。

まあ、与太話かもしれないけどね。
でも多様性ってそういうことじゃないのかな。つまりはさ、ルールってものは『暴力に依らない交渉の為に、血で血を流して作られた妥協点』なんだよな。

多様性を重んじるのであれば、ルールというその地の『約束』を守るのは最低限の最低ラインだ。問題があるなら、少しづつコミットして、話し合い、妥協点を再度探り合って変えて行くしかない。暴力で解決する時代に戻りたくないのであれば。それだけの話だ。

と、最近は思っている。そんな話。


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