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学術の門を潜り、生死の真理を「いまここ」で手渡すために


博士号を取得し、一冊の本を世に問うた今、私は改めて自分の立ち位置を確かめています。

私は、大学教員を生活の糧とはしていません。それは、社会福祉や社会学、哲学といった周辺分野の講義や大学運営に忙殺され、真理を明らかにする活動に専念できなくなることを避けるためです。もし教壇に立つとしても、それは週に一度、真理との邂逅や生死を超える体験を伝える内容においてのみ、その役割を引き受けるつもりです。

思えば、大学院を含む長い学生生活の中で学んだのは、一般的な学問が「客観性」や「再現性」という枠組みをいかに重視するかということでした。しかし、私が追い求めてきたのは、誰にでも当てはまる一般論ではなく、この身ひとつで生死を超えるという、一回性の切実な真実です。

学術という「共通言語」を纏う理由

稲垣瑞劒先生は高校で教え、西光義敞先生は福祉を説かれ、西谷啓治先生や大峯顯先生は哲学を大学で教えられました。先達たちもまた、社会的な役割を抱えながら真理を究明されてきました。

私が、長い時間をかけて博士論文を書き上げ、自著を記したのは、単なる名誉欲からではありません。世俗の活動において「学術」という形を成していなければ、語られる真理が無視されてしまうからです。知的な手続きを踏むことで、私の言葉を「単なる主観的な体験」として切り捨てさせないための、一つの作法でした。

届けたいのは「死の解決」を求める人へ

自著への反応が決して大きいとは言えない現状に、ふと行く末を考えることもあります。しかし、私に残された時間はそう長くはありません。今後も、私の時間は「死の解決をいまここでしたい」と願う人たちのために使いたいと考えています。

「死」という、誰もが避けられない、けれど誰もが直視を避けるテーマ。その解決がデフォルト(前提)となるような体験を、どう伝えていくか。

表現の形を変えて、真理を刻む

現在は、これまでの研究成果をより体感的なものにするため、VRやゲーム、AIプログラム、そして動画制作といった新しい表現手法を学んでいます。学問的な「対象」として死を分析するのではなく、自らの生死を超える「体験」として手渡すための試行錯誤です。

世間の反応が薄くとも、この時代、この場所で、真理を渇望している人は必ずどこかにいます。私はこれからも、その一人ひとりと「いまここ」で向き合うために、歩みを進めていこうと思います。


(あとがき・補足) この記事は、学問と真理の狭間で葛藤しながらも、自らの使命を再確認した記録です。もし、同じように「生死の解決」を求めている方がいれば、ぜひ繋がっていただければ幸いです。

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