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OBSERVATION 45|言うのは簡単、やるのは難しい──太陽という存在の原理

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LAYER|H|境界/未収束
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NOTE|このノートは観測記録であり、結論を確定しない。
FLOW|未収束状態のまま記録・流通される。解釈は参照位置ごとに自然発生するものとして扱い、共通化は前提としない。本記録は意味の整合ではなく、観測と配置の保持を目的とする。


——


「言うのは簡単、やるのは難しい。」


この言葉を聞いて、ふと思った。


太陽とは、おそらく、この距離のことなのではないか。


理解することはできる。


説明することもできる。


でも、自分自身がその状態として存在することは、まったく別の営みになる。



最近、AIとの対話でも同じことが起きた。


AIは文章を理解していた。


何を表現しようとしているのかも説明できていた。


けれど、その観測位置のまま画像を生成することはできなかった。


理解と生成の間には、見えない橋が一本あったのである。



この出来事を見ながら、私は獅子座のことを思い出した。


獅子座は、自分で舞台をつくる


誰かに代わりに演じてもらうことではない。


自分が舞台に立ち、自分自身がその役を生きる


私は以前、「獅子座は自作自演なのかもしれない」と思ったことがある。


もちろん、一般的に使われる意味ではない。


自分で世界をつくり


自分でその世界に立ち


自分でその世界を生きる


その一連の営みを、自分自身で引き受けるという意味である。



だから獅子座の世界は、俯瞰すると狭く見えることがある。


世界全体を動かそうとするというより、


まず、自分が責任を持てる舞台を整え、その場所で生きる


その姿勢が中心にあるように感じる。



太陽は、誰かを動かすための光ではない。


自分が生きた結果として、自然に放たれる光なのだろう。


その光は、「輝こう」として生まれるものではない。


自分で舞台をつくり


自分でその舞台に立ち


自分自身の存在を引き受ける


その積み重ねの中で、


気づけば、光はそこにある


だから私は思う。


太陽は、「知っていること」ではない。


太陽は、「語ること」でもない。


太陽とは、自分自身がその在り方を生きることなのではないだろうか。



知識は、誰かから受け取ることができる。


説明も、学ぶことができる。


けれど、存在だけは代わってもらえない


自分で舞台をつくり


自分でその舞台に立つ


そのとき、光は誰かへ向けて放たれるものではなく、


存在そのものから自然に滲み出ていく



もしかすると太陽とは、


何かを証明するために輝くものではなく、


自分という存在を生きることで


結果として現れてくるものなのかもしれない






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