貧乏育ちだから獲得できたお絵描きに必要な能力
貧乏育ちは様々な学習機会、体験機会を得られず貧弱な体験しか得られない人生になりがちだ。
とは言っても直接的かつ客観的に他人の人生と比べることはできない。
金持ちには金持ちの悩みがあることはもちろん承知している。
しかしそれもまあどっかで見聞したものでしかないが。
しかし、貧乏育ち同士の私と相方で、共通した獲得能力があることに、昔おしゃべりをしていた時に気がついた。
それは「脳内イメージ焼き付け」である。
多分、学習機会、体験機会に恵まれた人には不要の能力だと思う。
なぜなら恵まれた人は見たいもの所有したいものをその通りに得られるからである。
一方、貧乏人は見たいもの所有したいものはまずほぼ得られない。
資本主義の世の中では当然のことである。
(共産主義よりはもちろん資本主義の方がマシと思うので資本主義を恨んでるわけではない)
憧れの対象を見つける機会自体が貧乏人には少ないのだ。
その代わり、憧れの対象のほんの一欠片に接する機会をひとたび得たならば、永遠に失わないように己の脳内に何度も焼き付け刻み込む。
例えば購買機会の少ない貧乏人ではあっても、稀に月間学習雑誌や稀にエンタメ誌など買い与えられることも、全くないわけではなかった。
するとエンタメ情報も若干目にすることになる。
アニメの情報などもだ。
するとその中の小さな小さな白黒印刷(グレースケールではないので中間色がドットで表現される)のカットだけが欲しい情報の中で唯一手に入れられる視覚情報になることがある。
その中に稀にだが、ものすごい吸引力と存在感のある特殊なカットがあったりするのである。
そういう場合、その小さくドットで潰れたカットから元画像の色を想像したり、そのカットのキャラの表情の細かいニュアンスまで脳内に焼き付けて保存しようと何度も試みることになる。
雑誌も永遠に手元に残るわけではないので、自分の脳内にそのカットを焼き付けて保存しておくのである。
小さなドットで構成された白黒印刷のカットで得られる情報は少ないが、その代わり色々な想像も働く。
どんな色なのか、前後はどんなシーンだったのか、周囲はどんな背景なのか、…想像力を駆使して様々な周辺情報に思いを巡らせる。
自分の想像力では拙すぎて色々思い巡らせてもすぐに消えてしまうが、あまり繰り返すので元画像のカットは確実に焼き付けられる。
そもそもそういうカットは、アイキャッチに使われるだけあって小さな白黒ドット印刷であっても何か変な存在感や強い表情などが伝わってくるのだ。
なので雑誌をめくる際そこに視線を遣ってないにも関わらず、視野の隅にそのカットが捉えられた瞬間に異様な吸引力を発揮し、私の視線を瞬時に引き寄せるのである。
私は首を傾げる。
なぜ、この1cm四方にも満たないドットで半ば潰れたこのカットに異様に吸い寄せられるのか。
そこに存在しているキャラクターの表情、感情がなぜこんな目を凝らしてもドットの集まりにしか見えないぼんやりした画像からヒシヒシと伝わってくるのか。
なぜこんな小さなカットでどんなポージングかをある程度理解でき、さらに緊迫感と力強さを感じるのか。
なぜ他のカットと違う強烈な吸引力なのか。
どうするとそんな絵になるのか。
どんな要素を満たせばそんな絵が描けるのか。
これは絵に限った話ではなく、例えば音楽でもそうだった。
TVで一瞬流れたBGMに一息で吸い寄せられて何の曲かわからないまま一生懸命脳内再生を繰り返し焼き付ける。
焼き付けたフレーズの前後を想像してみる。
私は思春期の途中まで絵か音楽か選びかねていたが、やはり貧乏なので鉛筆と紙があればとりあえずなんとかなる絵の方を選んだ経緯がある。
だから元々は音楽も相当好きである。
ただ、学習機会に恵まれなかったので、ある時期以降は聞く専門に回ったが。
ちなみに今でも私は音楽に関する記憶力が異常と相方に言われる。
記憶にある音に似た音が一欠片でも耳に入ると記憶の中のCMソングや流行歌、アニメやドラマ主題歌などを(歌詞もメロディーラインも込みで)一瞬で思い出してフルで歌ったりするからだ。
相方の場合は、音楽ではなく文章だそうだ。
図書館で借りた本の、好きな部分を一生懸命写経のように書き写し、もちろん脳内にも繰り返し焼き付けたそうだ。
私にはその習慣はなかったので、なるほど文書きになる人はそういう分野がそのように違うものだとその話を聞いた時妙に感心したものである。
そうやって思い返してみると、そういった「脳内イメージ焼き付け」訓練が「脳内ブラックボックスイメージ」を育て、「脳内3Dイメージを保持しながら絵や文を描く(書く)」という、脳内イメージ周りの能力を鍛えたのだと思う。
そういえば以前のnoteで完全独学で似顔絵描いてクラスをザワつかせた話を書いた。
この時の美術教師が、夏休みの自由研究で私が描いたイラストについての感想を、その頃はまだ友達ではなかった通りすがりの相方に漏らしたことがあるそうだ。
私は相方に聞くまでその美術教師がそんなことを言っていたとはつゆ知らず、しかも相方から聞いた後もその趣旨をずっと誤解して覚えていたことになるのだが。
中学の自由研究ではいつも毎年その時全面的に傾倒していた漫画家のイラストの模写またはそれらの合成をして出していた。
自分の割には非常に集中力を発揮して描いていたと思う。
3年の時、その漫画家の念願のイラスト集というものを、生まれて初めて手に入れたばかりだった。
もちろん、貧乏人であるから、そんな機会はそれまでなかった。
何せ、お小遣いも貰ったことがなかったので、おそらくお年玉や家業の手伝いで貯めた貯金で買ったと思われる。
なので、イラスト集の発売時に即買ったわけではなく、だいぶ後から手に入れたのだと思う。
そのイラスト集には、前述のように稀に買ってもらえた雑誌に2×3cm程度の白黒ドット印刷のカットでしか見たことのない元イラストが、大きな版型のフルカラーで載っているのだ。
それを手に入れた時夏休みを控えていたので、夏休みの自由研究にその絵を完全模写しようと思ったのである。
それまでは水彩絵の具しか持っていなかったのだが、残り少ない貯金から捻出して、生まれて初めてホルベインのカラーインクも買った記憶がある。
幸いにもそのイラストは使われている色数が少なかったので、多分ビリジアン、プルシャンブルー、スカーレット、パープル辺りの限られた色数だけで済んだためということもある。
それでも生まれて初めて買ったカラーインクは高かった。
(ドクターマーチンやウィンザーニュートンよりはそれでも断然安かった)
しかしカラーインクを大枚叩いて買った最大の理由は、その元イラストが「主線の色が人物ごとに上のカラーのそれぞれ単色で描かれており、絵の具で付けペンでの主線を描くことは不可能」だったからである。
そして、そもそも初めて雑誌で見たそのイラストは白黒ドット印刷の2、3cm四方のカットにも関わらず、人体がはっきり3Dに見えるという驚きの絵だったのであった。
私はその秘密を知りたくてたまらなかった。
なので決死の覚悟で「どの線も、どのインクの滲みですらも完全に模写する」ことを自らに課したのだった。
今思えば、カラーインクの単色でのグリザイユ 技法で描かれたものということになるのだが(だから使われた色数が少なかった)、もちろん貧乏育ちの中学生の身にはそんな知識は毛頭なかった。
それで、今までもそれなりに頑張って描いてはいたが、それでもそこまで真に迫ろうと完全模写したことがなかった。
その甲斐あってか、自分でもある程度は達成できたように思った。
その時得た感覚や技法は、今でも描く時に生きている。
件の美術教師は、その年なのかそれ以前の年かはわからないが、私の自由研究の絵を見ながら相方にこのように言ったのだという。
「みどりーぬは、他の生徒と描き方が違うな。頭にコチンとあるものを描いている」
私は初めてその言を相方から聞いた時、「コチンと」のみしか頭に残らず「頭の硬い奴の絵だ」という意味に捉えた。
やっぱりそう見えるのか、と私は若干諦めつつ落ち込んだと思う。
それから何年も経ってから再びたまたまその話になった時に
「違うと思うよ。G(美術教師)は『みどりーぬの頭の中にはっきりしたイメージがある絵だ』って言ったんだと思うよ」
と教えてくれた。
つまり、私は自分の頭の硬さがコンプレックスだったので、何年も曲げて受け取っていたのだった。
コンプレックスというものは斯様に厄介だという話である。
ともあれ、以上のような経緯で貧乏育ちの私と相方は脳内3Dイメージに関する能力を、その貧乏さ故に育てることになったのだと今では思うのだった。
それは、私たち貧乏育ちの精神的サバイバルに必要だったからである。
貧乏による飢餓が育てる能力もある。
ただそれはあまり幸せな能力とは言えないけど。
