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本当に絵が上手くなるための考え方、上手くなることを阻害する思考の癖とは?


以下の文章は、以前某所に投下した「ほぼ絵のないお絵かき講座」の内の一文です。

某所とは恐らく違うクラスタの方が多数のnoteに、この「テキストばかりのお絵かき講座」を置いてみたら…? と思いついて、投下することにしました。

某所では二次創作で主に活動しているので、割と狭いクラスタ内でしか見られていないと思います。

なので、もう少し拓けた場所で公開してみたらどうなるのか、何にもならないのか、少しばかり試してみたくなったのでした。

というわけで、以下がその文章になります。


 絵を巡る考察プレビュー版


という論考をひょんな事から見つけて読んでみました。
 プレビュー版とあるので完成版ではないのでしょう。
 そのためかトップページからのリンクもありませんでした。 
 しかし何故か検索結果に引っかかって来たのです。

 一読しますと画力の主観と客観性、絵の表面的な体裁の取り繕いと真の画力向上の違い、デジタル作画によるそれらの(作為または不作為のどちらの場合もあり得る)混同など、中々普段お目にかかれないような興味深く、且つ私自身も普段から引っかかって取れない棘のように感じていた問題の一隅に光が当たったような気がしました。
 そのため特に興味深いと思った箇所を引用してTwitterアカウント(壁打ち独り言アカウント)にて過日引用しました。

 それから更に自分自身の感覚が、感覚から言語化されてきたので、これも順を追って呟きました。

 すると長年の画力、絵の上達に対する疑問への一定の解答が出たように感じましたので、ここにまとめてみようと思います。

 これはあくまで私 みどりーぬ の現時点での個人的な経験則等に基づいた論考であり、普遍的・客観的・確定的な事実とイコールではないことをお断りしておきます。
 また、心理学的あるいは哲学的な用語等には特に注釈はしておりませんので、わからない場合は個々にお調べ下さい。

 まず、上記論考から特に感じ入った箇所を引用します。
 抜き書きのため文脈の変節等による誤解釈もありえますので、出来れば全文を読むことをお勧めします。

(以下引用)


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>これは普通の人だけでなく絵描きも同様で、稀な才能に恵まれたか、気の遠くなるほどの修練を積んだ者でなければ箱の中の像を観る事は出来ない。殆どは"視えていない事に気付いていない"か"何とか視ようとしている"領域におり、違いがあるとすれば「思った通りの絵にならなかった」「苦手な顔の角度がある」「昔の自分の絵を見たら下手過ぎて笑った」という経験を積み重ねて来たかどうかだけである。

> あなたは当時も絵の巧拙を判別し、上手い絵を好んで買ったりスクラップしていたのだが自分が描いた絵に関してだけはその目が効かなかったのである。下手な絵を描いているにも関わらず「イケてる」と判断させるこのバイアスを便宜的にダメ脳内補正と呼ばせて貰うが、ダメ脳内補正の威力は凄まじい。夜中に書いたラブレターなら翌日見返して「あちゃあ」と言う事も出来るが、自分で描いた絵は1年や2年、下手したら一生ダメ脳内補正の餌食になってしまうのである。しかも厄介なのはこのダメ脳内補正は当人だけがかかる為、他人がその事を指摘する事が出来ないのだ。

> 絵描きがダメ脳内補正の餌食になっている事を本人も第三者も気付かない状態が長く続くと補正は徐々に強固になり、同じように歪んだ絵を何年にも渡って描き続ける事になる。たった一度自分の絵を正しく見る事が出来ればこの無為な日々は終わるのだが、その機会を得るのはなかなか難しい。

> 絵が下手な人と言うのは厳密に言うと"絵が下手"なのではない。単に性能が著しく低下している事に気付かないまま事に臨み"下手な絵をしょっちゅう描いてしまう"人なのだ。そりゃあセンスや才能の差というのは確かにあるだろう。だがそれは自分が描きたいと思った絵をその通りに描けてから考えるべき話である。あなたが描き上げた絵は、本当にあなたが描こうと思った絵と寸分違わない物だろうか?

> 「ダメ脳内補正」はグリッドが不均衡に固定されてしまう障害とも言えるので、"視野を広く取り、全体を等価に視ること"は非常に重要だ。

> ただ、絵の場合はこれらの手順をサボっても"とりあえず"描けてしまうのでその手順が見えづらく、なんとなく"見てその通り描けばいいんでしょう"という所で留まってしまうのである。

> 鑑賞する者にとって大事なのは結果だけだが、絵描きが自身を向上させようと望むのならば、見るべきなのは「どんな絵を描いたか」ではなく「どんな風に描けたか」だ。類推によらず、目のスイッチを入れる事に腐心し、幾ばくかの上手く行った時間が手に入ったならば、例え結果が惨憺たる出来だったとしてもそれは1歩前進である 。


> 様々なパターンを試行錯誤するのにデジタル環境は打ってつけだと言って良い。しかし、この"何でも試せる""何でも言えばやってくれる""気に入らなかった無かった事に出来る"のジェットストリームアタックは、 絵描きの「投影」を削ぎかねないのである。

> 「投影」とは「未来」を視続けることである。まだ描いていない絵の完成図を紙の上に視て、そこへ向かって一歩ずつ筆を進めることが本来的な「絵を描く」という事であり、この文書で定義された「絵の上手」に到る道筋だ。(中略)ソフトの補助機能を使う時でも、実行ボタンを押すその瞬間まで望んだ結果を画面の上に視続け、それと結果が一致しない場合はすぐさまCtrl+Zを押すくらいの気概で臨むのが「投影」を手放さない為の使い方である。

> しかし、そこには罠がある。デジタルで出来る事は「絵の体裁を上げる事」に集中していて「絵描きを上達させる」事に関してはまるで考慮されていない。画像の複製や3Dデータ、描画補助機能の導入で著しく手間を減らせる事は出来るが、それはその絵を描く機会を自らの手で一つ潰したという事でもある。

> 今何をする為に絵を描くのかを明確に自覚し、絵を完成させる為のフェイズと、自身の腕を磨く為のフェイズで使い方を変えて対応するのが望ましい。

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(引用終わり)

 以上が引用になります。
 これに対し、私がまず呟いた感想は以下になります。


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以上の引用文で用いられている「ダメ脳内補正」、私は単に「認知の歪み」と呼んでる
自己愛故の自分の絵マンセー状態だと思うので
いつ如何なる時でも自分の絵には猜疑心を持ち
他人には何の期待も持たず描くようにしている


他人には何の期待も持たずというのは
「こんな風に思われたい」
「こんな褒め言葉を言われたい」
「これをやったからもっと見てもらえるはず」
のような他人からの反応は一切期待しないということ
私が壁打ち垢なのも「知り合いだからフォロワーだから褒めなきゃ」という人様の気遣いに甘えないため

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 Twitterなのでかなり圧縮して書いてありますが、私個人の感覚と経験としては
「自分の絵に対する自己認識、自分の目を全く信用していないので、常に自分の絵に対して猜疑心を持って対応する」。
(結果として、自分の絵に対して何か感想を言ったりコメントすることも出来なくなります)
 また、
「他人の反応が欲しいという『目的のため』に絵を描こうとすると却って心理的に制約がかかり、新鮮みのない、出来の良くない絵になってしまいがち」。
 ですので、普段の生活はともかくとしても、『キャンバスに向かっている間だけは物欲しげな心境に陥らないように』心掛けています。
 また、人様に気を遣わせてまで感想を欲しがりお義理でコメントをいただくのはあまりに心苦しいので、進んでフォローフォロワーを増やそうという努力はしておりません。
 その代わり私もお義理では人様に話しかけませんし、話しかけたり引用リツイする時は心から、本心からの言葉しか呟きません。
 本当に心が動いた時だけ呟くし、心にもないこと、体裁を取り繕うためだけの言葉を呟くことはありません。

 その翌日、起床時にぽかりと浮かんだ考えがあったのでまた呟きました。


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昨日引用した
絵を巡る考察プレビュー版( http://www.ub-text.lsxilo.com/diary_log/drawing.html )
で言うところの
「ダメ脳内補正」(自己愛により主観的に自分の画力『だけ』を客観視出来ず、時に神画力の人と比肩し得る素晴らしい画力と思い込んでしまう自己認識バイアス)にどの程度罹患してるのかを自覚出来る機会が実はある

それは「他人の絵を見た時ショックを受ける頻度の多寡と度合い」

他人の絵を見てショック受ける頻度及びショックの度合いが高い人は「ダメ脳内補正」が強固、
そうでない人は割と自分の絵を客観視出来てる人、だと思う

つまり他人の(特に初めて見た人の)絵を見て焦ったり動揺したりする頻度と度合いが高い人は
そのショックを受けた瞬間
自分のダメ脳内補正にヒビが入りかけた状態になる
それを自覚出来るとダメ脳内補正がだんだん客観性によって矯正されていく


ただ自己愛強すぎるとダメ脳内補正のヒビ修復のために激しくズレた努力をする
つまり自分の絵の本当の画力を底上げするのではなく
ショックを受けた絵の表面的な上っ面の技巧のみ「素早く」「強烈に」取り込んで
「自分は元々その技巧も知っていて使用していた」という振りをして取り繕うことになる


何故「素早く」かというと
ダメ脳内補正の損傷時間が長くなるとダメ脳内補正が本当に壊れてしまう確率が上がるから
何故「強烈に」かというと
ダメ脳内補正にヒビが入った原因になった絵から受けた衝撃を上回らないとヒビが入った事実を打ち消せないと思っているから

なぜ「激しくズレた努力」と表現するのかというと
その努力を普通に基礎画力上げる(デッサン力上げるのに延々デッサン画を描くとか)方に振り向ければ正当に画力が底上げされるのに→


→表面的な技巧や体裁だけ取り繕うから
基礎画力と無理に取り入れた技巧の間の齟齬で
余計にチグハグな印象の絵になるための、つまりはピント外れな努力しかしないから


なので
○他人の絵を見てショックを度々受ける人は自己愛が強い傾向にある○


その技巧が本当の画力かどうかを判断するには
その技巧を「無意識に」「どんな時も」使えるかどうか
で判断出来る


その技巧を念頭に置かないと使えない場合はその技巧は身についていないし
身についている場合はその技巧がメタ化しているので
余程疲れていたり具合が悪いとき以外
コンスタントにいつもどんな時も自分でも気がつかない内に使っている 


否、使っているという意識すらない
何故なら当人には当たり前のことだから
その技巧が高度に抽象化された、
つまり抽象度の高い根本的な法則自体が身についているから
言い換えると元からその根本的な法則で世界を捉えているから


なのでメタ化されていない(根本的法則がわかっていない、無意識にそれを行使できない)技術を自分の画力だと言いたくなる衝動は「ダメ脳内補正」による自己認識、自己認知の歪みに由来する


というのが現時点での私の認識


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 以上です。

 結論的には、絵が心から好きで上達したいと思っている場合は

絵の上っ面だけ取り繕うために技巧を取り入れるのではなく、人目に立たぬ(メタな)場所で基礎画力を磨き(=基礎画力をメタ化させる)努力する。

 本当は絵が好きと言うより、絵を描くことによって人様から賞賛が欲しいだけの場合は

人目に立たぬ場所での努力ではなくとにかく人前で他人の技巧をこれ見よがしに意識的に(=メタ化されていない状態で)表面的に取り繕う。

 こういった差異を感じているのが現状です。

 この差異をデジタル作画だとより混同しやすいとして先に引用した論考では

> 今何をする為に絵を描くのかを明確に自覚し、絵を完成させる為のフェイズと、自身の腕を磨く為のフェイズで使い方を変えて対応するのが望ましい。

としているのではないかと思います。

 自己認知の歪みを自覚するのは大変に難しいし、歪んでいることを受け入れるのは大変に苦しいことですが、一度に矯正するのではなく徐々に時間をかけて受け入れていけると、恐らく自然に絵も上達していくと思います。
 何故なら絵とは脳内のイメージ、脳内の認知を形にして顕しているからです。
 自分の周囲だけ自己愛という名の魚眼レンズで歪ませていると、正に

> 絵描きがダメ脳内補正の餌食になっている事を本人も第三者も気付かない状態が長く続くと補正は徐々に強固になり、同じように歪んだ絵を何年にも渡って描き続ける事になる。

 という状態で自我が固着してしまうのではないかと、私はそれを恐れています。

 なので

>たった一度自分の絵を正しく見る事が出来ればこの無為な日々は終わる

ことを夢見て、今も常に自分の絵に疑いの目を向けながら私は絵を描いています。



以上になります。

この駄文を読んで「そりゃ違うだろー!」と思われた方、もしおられたら申し訳ありません。

絵を巡る考察プレビュー版( http://www.ub-text.lsxilo.com/diary_log/drawing.html )からの引用以外は、私の狭い見識と経験則から得た自分なりの体感です。

あくまで私個人の見解でありますので御容赦願います。







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