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時間を奪うのは、誰か。―『モモ』を読み返して

ミヒャエル・エンデの児童書『モモ』を、久しぶりに読み返しました。
子どもの頃に読んだときと、大人になってから読んだときで、受け取る印象が大きく変わる本だと感じます。
今回は、いわゆる読書感想ではなく、『モモ』を通して描かれている「時間」や「人とのつながり」について、考えてみたいと思います。


『モモ』という物語の骨格

物語の舞台は、廃墟となった円形劇場です。
そこに住む少女が、モモです。
モモのまわりには、町の人たちが集まってきます。
道路掃除の仕事をしているベッポ。昔話を語るジジ。歌い手や職人、子どもたち。
モモには、特別な力があります。
それは、相手の話をじっくりと聞くことです。
彼女の前では、人々は自分の言葉を取り戻します。
忘れていた考えや気持ちに、少しずつ気づいていきます。
そんな街に現れるのが、「時間貯蓄銀行」を名乗る灰色の男たちです。
彼らはいわゆる「時間泥棒」として描かれますが、無理やり時間を奪う存在ではありません。
「無駄な時間を減らしましょう」
「その時間を貯金すれば、将来もっと豊かになります」
そう語りかけ、人々を納得させていきます。
その結果、街からは少しずつ余裕が消えていきます。
忙しくなったはずなのに、なぜか満たされない。
人と話す時間は減り、やるべきことだけが残っていきます。
灰色の男たちは、時間そのものではなく、時間の感じ方を静かにすり替えていく存在として描かれています。


時間は、どこで失われていくのか

この構図は、いまの私たちの暮らしとも重なって見えます。
現代で考えるなら灰色の男たちは、スマートフォンを通じて流れ込んでくる情報や、通知で何度も呼び戻されるような、途切れにくいつながりの姿をしているようにも見えます。

情報を集めている。つながっている。役に立つことをしている。

そう感じながら、気づくと時間だけが過ぎていることがあります。
ただ、「時間を奪う存在」が、現代にだけ現れたわけではありません。
『モモ』が書かれた1970年代より前にも、人は忙しさに追われ、余裕を失い、人との関わりを後回しにしてきました。
形は違っても、どの時代にも「灰色の男」は存在していたのだと思います。


モモが選んだ、非効率なやり方

灰色の男たちに対して、モモは効率的な対策を取りません。
誰かを説得したり、正しい答えを示したりもしません。
モモがしたことは、とても単純です。
立ち止まること。相手の話を聞くこと。
同じ時間を過ごすこと。
急ぎません。遮りません。
評価もしません。結論も出しません。
ただ、その場にとどまり続けます。

その中で人々は、自分が何を大切にしていたのかに気づいていきます。
人とのつながりは、効率よく取り戻せるものではありません。
だからこそモモは、
遠回りに見えるやり方を選び続けました。
時間を取り戻すとは、新しい時間を増やすことではなく、誰かと過ごす時間の中で、自分の感覚を取り戻していくことだったのかもしれません。


この物語は、いつの話なのか

『モモ』は、どこか昔の物語のように語られています。
はっきりとした時代は示されません。
具体的な場所も示されません。
だからこそこの物語は、過去の出来事としても読めますし、
いま起きていることとしても読めてしまいます。
物語の終盤で、語り手は次のような言葉を残します。

「わたしはいまの話を、過去に起こったことのように話しましたね。
でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。
わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」

この一節が示しているように、『モモ』は過去の物語であると同時に、
いつか、どこかで繰り返される出来事としても読めます。
これは昔の物語のように書かれています。
けれど、未来のことかもしれません。


まとめに代えて

忙しさの中にいるとき、
私たちは何かを失っているというよりも、
「ちゃんとやっている」「遅れていない」
と感じていることが多いように思います。
けれどその一方で、誰かとゆっくり話した記憶や、何も生産していない時間の手触りだけが、いつのまにか薄れていく。
『モモ』は、何をすべきかを教えてくれる物語ではありません。
ただ、立ち止まること。
話を聞くこと。
同じ時間を生きること。
それらが失われていくとき私たちの時間もまた、静かにすり替えられていくのだとそっと示しているように思います。


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