他人は置いとけ、自分の幸せだけを見よ。

自分の欲望を、何かと理由をつけて見て見ぬふりをしてはいないだろうか?
たとえば、「もう十分恵まれているから」といって本当に自分が『欲しい』と思う気持ちにフタをして押し込めてはいないか。
「こんなにある」は、自分の幸福度を満たすための視点になり得るが“満たされていない”段階での「自分はこれでいいんだ」といった思いは、自分の人生を諦める言い訳として使っているように思える。

自分より、過酷な状況や大変な思いを抱えている人を見て「自分よりも辛い人生の人はいるのだ」と、自分の「満たされなさ」を、わずかにでも“良いもの”として認識をすり替えるため、他人を使ってしまうことはないだろうか?

他人が不幸であることと、自分が満たされていないこと。そこには何の繋がりも救いもない。

生きることを諦めてしまった人間を見て「生きたくても生きられない人がいるのに」と言っている場合ではないのだ。明らかに苦しい人間のことを考えていることが素晴らしいのではないのだ。
その時間が自分と他人を救うだろうか?
その偽善な良心といった視点で、自分が人を思い遣ったと感じている時間は、本当は「自分の満たされなさ」を誤魔化すために手っ取り早く使える要素であることが多い。だがそれはただ「自分の虚しさ」の表面を撫でているだけで何もプラスのものを生み出さない。

「生きたくても生きられない他人」のことを考えるエネルギーは、自分の人生を見つめることに使った方がいい。
自分を幸せにできていない人間ほど、“大丈夫じゃない”人のことが気になるのだ。無自覚だが、自分よりも不幸な人間を見ることによって自分の満たされなさが安堵するのかもしれない。枯渇している人ほど、「他人の為になること」「人様の役に立つこと」「世界に貢献すること」などと『自分』を差し置いてスケールの大きなことを唱えたくなる。なぜなら、自分で自分を満たすことができないからである。他者からの感謝や称賛の声をエネルギーとして、自分の活力を養おうとする。そうやって自分を鼓舞させていないと、自分の幸せを保てないのだ。

🔽人間にとっての“自然な姿”とは?私があらゆる不調を実際に改善した『体の手入れ』について

自分が自分で勝手に幸せになることが、他人をも自然と幸せにすることにつながるということが見えなくなっている人がとても多いように感じる。

「他者」にエネルギーを注ぐことによって『自分の人生』を放棄していないだろうか?
自分のことを考えなくて良い、すり替えた欲で自らを満たそうとはしていないだろうか。
それは湧かなくなった自分の手元にある井戸の修理を放棄して、他人から水を貰おうとしている姿勢と変わらない。他人からの水がないと、自らの心が枯渇してしまうからだ。
まさに、“与えているようで、求めている”ということなのである。

🔽枯渇した心では、人を愛せない話。

人に愛を届けたい、誰かを愛したいのならば、まずは『自分の状態』を整え、自らが自身を愛せるようにならないと、他人へそれを贈ることは不可能だ。
「満たしてほしい」が根源にある感情は、相手に自分の心の幸福度を預けてしまっているので、どこか相手が自分の思い通りに動いてくれないと気が済まなくなって来る。そして、そんなエゴにまみれた偽の愛を無自覚のうちに他者へ押し付けてしまう。

他人の為で「偽」になるのだ。
自分のために動き、自分で自身を満たせた時に初めて人を愛することを体現できる。

自分の満たされなさを盾として使ってしまっていないか?今一度、自分を見つめてみてほしい。

🔽すべての不調の、根本的原因と問題解決とは?



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