《連載・長編冒険ファンタジー》アスラオ・碧を継ぐもの 第十一話
これまでの話
ロッキと共にハクワの国に迷い込んだ未来はハクワの国の人々が待ち望んだ希望の子、アスラオだった。ハクワの国は、その昔民を殺された妖獣ノーバを結界に閉じ込める際、間違って世界から切り取られた国。
未来が家から持ってきた石は、憎しみを食べて育つノーバの使徒、メノウの卵だった。卵は未来のもとで孵り、ミロクと名づけられ、未来を親のように慕う。
ハクワの国には、肉親を殺された妖獣ノーバの討伐という悲願があった。だが、人々の話し合いで、アスラオの成すべきことは、ノーバへの復讐ではなく、ミロクの血を使い、ほころび始めた結界の修復にあると決定された。メノウの血にはその力もあるのだった。
未来にこれから成すべきことを言い渡す重要な話し合いがもたれ、ノーバに肉親を殺された悲惨な体験を聞き、未来は苦渋の決断をする。三日後ユマランの丘で、生き血を手に入れるため、未来がミロクの首を切ることになった。
ハクワには水を侵すノーバの毒により、青く染められた子どもたちがいる。ハクワの宮家、ネム・トシュラの少年ミヤトは、身の内に死んだ双子の兄タユトを住まわせている。ハクワの悲願を望むタユトは、ミヤトの体を使い、その話し合いの場で大人たちに自らの意志を伝えた。
《登場人物》
〈外の国〉
未来 十四歳 男子
礼 未来の育ての母
湊 礼の恋人
中根 空手の師範
森谷 動物病院の先生
秀と舞 双子の兄妹 未来の幼なじみ
〈ハクワの国〉
<未来の仲間たち>
ロッキ 未来と泉に落ちた少年
クルミ 十三歳の少女 ネム・トシュラ一族 (父・クナミ 叔母・キノイ)
ミヤト 窯場の少年 ネム・トシュラ一族 (父/長・コムト 母・ナナト
祖父/大長・アイエリ
叔父・カラト)
カエラ 切れ長の目をした少女 ネム・マシリカ一族 (父・ケイナ
母・シンナ)
マーリ カエラの腹違いの弟 (父・ケイナ 母・マチカ)
トナイ 物静かな少年 怪鳥ルマルンガを育てる (父・ナスル
母・ランカ)
ユウガ 優しい少女 トナイの恋人 (養父・コスガ
養母・チコ)
ルマイ 木工所で働く少年 (養父・コスガ 養母・チコ)
タズナ 背が高いおっとりとした少年 (父・モブカ 母・クク)
ノニ 外の国から連れてこられた口のきけない少女
<その他のネム・トシュラ一族>
サキ 大長アイエリの妹
タユト ミヤトの双子の兄
<その他のネム・マシリカ一族>
スムリ カエラの母シンナの兄
<その他のハクワの大人>
ウル ユウガとルマイの養父コスガの弟 木工所を助ける
<マボウシ・人でないもの>
シュクラ 空の使い手 ハクワ人マトイとハクワを建国した女性
マキシバ 風の使い手
シキミ 火の使い手
カズラ 水の使い手
クサノワ 地の使い手 カズラの妹

アサギ石
森が金色に輝き、午後の日差しが境内を照らす。西宮と本殿をつなぐ渡り廊下で、未来はミロクに寄りかかりながら、広い境内を眺めていた。本殿の後ろの森から響くセミの声は微かで、ジュアの大木の間を清々とした気が流れている。
未来は床に仰向けに寝転んだ。冷たい木の感触が汗ばんだ背中に心地いい。くたくたに疲れていた。ミロクは穏やかな顔で未来の横に座っている
「ミロク」
声をかけると、腫れぼったいまぶたの奥の大きな眼をじっと未来にむけた。
「おまえ、おれに殺されるんだぞ。首切られるんだ」
思考に感情が伴わず、未来はぼやけた心でミロクの首筋をなぜた。
青い子どもたちは親たちと共にそれぞれの家に帰っていったが、未来たちは、今日はこの西宮に泊まることになった。ロッキは、ナナトの部屋から出てこないクルミのそばに行ったきり、戻ってこない。クルミはミロクの役割を聞かされたのだろう。きっと大泣きして困らせているのだ。ミロクに名前を付けた時、クルミの大きな瞳は、幸せ感マックスのキラキラだった。一昨日の夜の事だった。
本殿の扉が開いて、ミヤトが顔を出し、未来にまっすぐに近づいてきた。髪を後ろに束ねていたので、顔の腫れがまだ引いていないのがすぐに分かった。ミヤトは、黙ってミロクの隣に腰を下ろした。
南風が境内を渡り、コユルギの甘い香りがほんの一瞬鼻をかすめる。風は本殿を乗り越えて、サワサワと音を立て、緩やかに背後の森に降りていった。
未来は起き上がって、ミロク越しにミヤトを見た。ミヤトは一人じゃない。漠然とそう感じた。風光の間でとんでもないことを口にして、ぶっ倒れたミヤト。乱闘になったミヤト。初めて会った時の、かなり感じの悪いミヤトは、同じミヤトの気がする。少し前、初めて普通に話した御神楽殿のミヤトは、また別人に思える。今は、どんなミヤトなのだろう。
未来の視線を受けて、ミヤトが青い眼を向けた。
「さっきはすまなかった。余計なことを言って、惑わせてしまったかもしれない」
「ああ…うん」
御神楽殿のミヤトだった。
「今日、ここに泊まるんだろ? ここはぼくの生まれ育った家だ。今は、ほとんどが窯場にいるけれど、本当はこの宮が落ち着くんだ。あとで案内するよ」
ここにはいくつ部屋があるのだろう。広すぎて誰の気配もしない。クルミの泣き声も、聞こえてこない。
「クルミは大丈夫かな」
ミヤトはフッと笑った。
「おまえは大丈夫か?」
今までならここで一戦始まるところだったが、不思議と腹が立たなかった。ミヤトの笑顔は悲しげで、言葉が素直に未来の心に届いたのだ。
「大丈夫なわけねーだろう」と答えると、ミヤトは「そうだな」と目を伏せた。
「クルミはかあさんのところにいる。悲しいのは当たり前だ。泣きたいだけ泣くしかない」
ミヤトは、頬にかかる髪をかき上げた。手の甲を染める青いあざ。この国の子どもは青いのが普通で、クルミはそれを羨ましがっていた。でもそれはクルミが幼いだけで、本当のところ、子どもたちは受け入れているのだろうか。自分を染める、ノーバの毒を。
未来は、顔のほとんどを青いあざで覆われたカエラが、風光の間でミヤトに続いて叫んでいたことを思い出していた。
〈未来はそのために来た。戦うために〉
「さっき言ったことさあ。なんでそう思ったんだ? おれには妖怪と戦うような力なんかねーよ。武術なんて、何の意味もないんだろうし」
「あれは…」
ミヤトは、青い眼を光らせて、未来を見つめた。
「ハクワの悲願なんだ」
「…かたき討ち…か」
当然だろう。家族を殺されたのだ。結界の修復なんてまどろっこしいやり方よりも、なにがなんでもノーバの息の根を止めたいと考える人も当たり前にいるだろうと未来は思った。
「とうさんたちやクナミ叔父たち、皆、無念の思いでいる。ぼくが言った言葉の通りだよ。本当はみんな戦いたかったんだ」
ミヤトは、小さくため息を吐いた。
「そうなのか…」
未来は、卵を始めてクナミとキノイに見せた時の、二人の潤んだ灰色の瞳を思い出した。そうならば、ふたりは、アスラオがノーバを倒しに来たのだと、あの瞬間は、本当にそう思っていたのかもしれない。メノウは守る、と言ってくれたのも、本当の気持ちからだったのだ。
体の芯がほっと緩んだ。心に熱が戻ってくるのを、未来はゆっくりと味わっていた。
「おまえのとうさんも、誰か家族を殺されたんだな」
「それはもう、悲惨な話だ。ぼくが生まれる前だけどな。ぼくが知っているのは、ナラだ。ナラはとうさんとカラト叔父の妹だ。ナラは絵をかくのが上手で、四季折々の美しい山や小さな草花、ぼくたちの顔もよく描いてくれた。花や実をつぶして色を造るんだ。マイマという虫は乾燥してつぶすと、それは鮮やかな赤になる。一度その作業を見たことがあるけど、あれは、気味のいいものじゃあなかったな」
「へえ…」
湊の背中が目に浮かんだ。床に置いたパネルの前にかがみ、左手をパネルの外側に置いて体を支え、右手で筆を持ち、身を乗り出して絵具をのせていく。湊がたてる衣擦れと和紙の上に置く筆の音しか聞こえない、シンとした世界。窓の外には、降り積もる真っ白な雪。石油ストーブの赤い色と、その上で湯気を立てるヤカン。隔離された空間で、時間が静かに過ぎていく。未来は冬のアトリエが好きだった。
「おれの…とうさん…も絵描きだよ。岩やきれいな色をつけた石を細かく砕いて粉にした絵具を使って、絵を描くんだ」
昔見た夢を語るような気分だった。もう遠い場所だ。
「そうか。きれいな色の石なら、ここにはたくさんある。クリブの間や道に敷き詰められた石を見ただろう? あれはネス山のふもとにある、地表からせり上がった太古の地層、カラキラからとれる鉱物を加工したものだ。そうか、ナラがその方法を知っていたら、もっとたくさん絵が残っていただろうな。花の汁で描いた絵は、すぐに色が変わり、薄くなってしまうから。墨で描いてくれたものは、大切にしていたけれど、もうボロボロになってしまったよ」
ミヤトは寂しそうに笑い、メノウの背中をなぜた。
「そうだ、泉に浮いたおまえの写し絵を拾い上げたのが、ナラだった。写し絵の話は聞いてるか?」
ミヤトの問いに未来はうなずいた。
「ナラは、父親のアイエリじいさまのところに、それを持って行った。アイエリじいさまはマボウシのシキミ様にそれをお見せした。とても精巧に書かれた絵だったそうだ」
「その写し絵は、どこにあるんだ?」
「もうどこにもないよ。ナラが持っていたらしいけど、ナラはワクツに殺されてしまった。ノーバが放ったワクツにね」
「なんでワクツに襲われたって、わかったんだよ」
「足が三つに割れていたそうだ。それに、ナラはアサギ石を持っていた」
「アサギ石?」
「毒の石だ。ノーバが姿を現したよりずっと以前、大地が揺れ、地面が裂けた。ハクワの国からは見えないが、ワスリノトの東にアガツ山という岩山があって、その時その山の地底から現れたのがアサギ石だ。アサギ石の恐ろしさは、その美しさで人を惑わす魔力だ。アサギ石の話はまだ聞いていないのか?」
未来は首を横に振った。ミヤトは軽くうなずいて話し始めた。
「シュクラ様がクウラウを作られて百年ほどたった頃の話だ。若者の中に北の山に興味を持つものが現れ、シュクラ様に許しを請い山に入った。シュクラ様はこの地に入られた時からアガツ山に危い力を感じ、立ち入ることを禁じていたんだが、若者の熱意に負けてしまった。彼らが持ち帰ったその石は美しい青で、アサギ石と名付けられた。だがシュクラ様はアサギ石を手にしてすぐに、そのあまりに美しいきらめきの中に、人の欲望を増幅させて、禍を招く魔力があると気づかれた。その光には、悪霊が住んでいる。身に着けたものの心に入りこみ、魂を奪うんだ。シュクラ様は民に採掘を固く禁じた。けれど若者たちは、その石の邪悪な力に負けてしまった。その頃はシュガの花などなかったからな、外からハクワは見えないが、出入りはそんなに難しくなかったんだ。若者たちはクウラウを勝手に抜けて、密かにアサギ石を採り、外の国で売りさばくようになった。それだけじゃない。ハクワの国に外からのぜいたく品を持ち込み、商売を始めたんだ。それは諍いを次々と生み出して、国を司るあらゆる均衡が揺らぎ始めた。平和が崩れ取り返しがつかなくなる前に、シュクラ様はやむなく彼らを追放し、彼らは、シュクラ様の力で、二度とクウラウの中には戻れなくなった。その後、長い時を経て、常にアサギ石と共にあった彼らの子孫は、石の毒に身も心もむしばまれ、いつしか、およそ人の形とはいえない姿に成り果てた。ノーバが来て結界に閉じ込められた今も、アサギ石に執着し続けているんだよ。獣がえさを求めるが如くにね。ワクツというのはハクワの古い言葉で「穴を這うもの」という意味だ。ワクツはアサギ石のとりこになった人間の、なれの果てだ」
人間のなれの果て…。
未来は、ミロクの卵から発せられた光に浮かび上がったワクツの顔を思い出した。背筋に冷たいものが走る。やっぱりあれは、人の顔だった。
「ぼくも一度だけ、ワクツを見たことがある。このハウラオ山の東の中腹に、マヤソナという洞窟がある。そこから抜け出る道は、ほんの一瞬クウラウの外につながっているんだ。ぼくがそこから出た時は、もう日が落ちて夜になってしまっていた。クウラウとの境の岩山に急ぐ途中、ワクツに囲まれたんだ。クナミ叔父がいなければ、ぼくは死んでいた。あのものたちが、元は同じハクワの人間だったなんて、それをすっかり忘れて人を殺しまくったなんて、本当に哀れで悲しい話だ」
未来はまじまじとミヤトを見つめた。
「ふーん。ずいぶん冷めてんな。ナラさんを殺されたんだろ? 憎いとかじゃないんだ」
※
(確かにそうだ…)
ミヤトは憮然とした。夢から突然さめたような戸惑いがミヤトの胸を密かにたたく。
ナラが死んだと聞かされた時、ミヤトは悲しかった。優しいナラにもう会えないと思うと、涙が出たし、足が三つに裂けていると大人たちの話を耳にした時は、ただただ怖かった。
父は、ミヤトとタユトをアレモアの大樹の下に座らせて、ナラは天に上り、神の一部となったのだと言った。太陽や月の光の中にナラはいる。時には雨粒にもなってハクワの国に降り注ぎ、大地を潤してくれるのだと。
ミヤトはそれを素直に信じた。形は失ったけれど、ナラはいつもそばにいてくれるのだという安心感が、ミヤトにワクツに対しての憎しみを抱かせなかった。
未来に指摘され、ミヤトは改めて思った。そうやって親たちは、クウラウの中でさえ、油断なく、ノーバの牙から子どもたちを守っていたのかもしれない。憎しみの芽が育つことのないように。
今日モアミシュガで、その温かいゆりかごの中にいる自分にようやく気づいたのだ。自分を染めるノーバの毒。大切なタユトを奪い、カエラの母を殺した。ノーバはハクワの民の仇、憎むべき存在なのだ。
ミヤトは小さく息を吐き目を伏せた。
気づいたはずなのに、ミヤトの心はコユルギの香りのように宙を漂い、憎しみは実感を伴わないでいた。
ミロクは二人の間で長い耳をぴんと立てて、梢を渡る小鳥を目で追ったり、寄りかかる未来の頭を鼻先で押したりして、まるで無邪気に遊んでいるように見える。
未来はミロクの首筋を撫でながら訊いてきた。
「写し絵って、実際おれの顔だったのかな」
「そうだな。今となってはわからない。シキミ様は、もう百年も前に亡くなられたし、アイエリじいさまは視力を失われた。ただ、おまえはメノウの卵を持ってきたんだ。それがアスラオであるなによりの証だ」
瑠璃色の羽根を羽ばたかせ、小鳥たちが御神楽殿の柱の間をくぐり抜けて飛んでいった。未来はミロクの顔を見上げて、こんもりとした背中に手をまわした。
「ミロクを襲ったやつは、クウラウのほころびから入ってきたんだろ? ナラさんが殺された時には、まだいくつか穴が残ってたってこと?」
「いや、ワクツの掘った穴は、マボウシたちが封印してあったはずなんだ。そう。ナラを襲ったワクツがどこから入り込んだのかわからない。それに、なぜナラがアサギ石を持っていたのかもわからない。とうさんたちは、それを秘密にしていた。ハクワ国にアサギ石があるとなれば、余計な混乱を招くと心配したんだろうな」
ふとミヤトは疑問に思った。なぜナラが、ネス山のような何もないところにいたのだろう。
「ナラは、ネス山の中腹で亡くなっていたんだ」
ミヤトは、眉をしかめ自分自身に尋ねるように言葉を口にした。
「何のために、あんなところにいたんだろう。カラキラの石が必要なら、それはふもとの地層にしかないんだ。そこから上は、ほとんどが岩がむき出しで、男でも登るのが大変な険しい山だ。本当に、いったい何をしに行ったんだろう。のどの渇きを癒す清水も無いんだ。南側にあるトルマの谷には、大昔は、それでも小さな川が流れていたそうだけど…」
そう…トルマの谷には…。
ミヤトはハッと息を呑んだ。
(トルマの谷…どこかで聞いた…。そうだ!)
闇の中に浮かび上がる美しい色が鮮やかによみがえった。
(詩だ。ラスユングの社の柱に記された詩!)
私を探しておくれ
その手にあるものは、清らかな命
紺碧の空を、無に帰すもの
トルマの谷の水が…
ミヤトの全身に鳥肌が立った。
私を探しておくれ…
ナラが呼んでいる。
トルマの谷、そこに行けば、何か見つかるのだろうか。
胸につかえる違和感を取り去るような真実が、もしかしたらそこにあるのかもしれない。
ミヤトは、じわじわと湧き上がってくる力をこぶしでつかみ、固く握り締めて、体のどこかにいるタユトに語り掛けた。
(タユト、よく言ってくれた。多分おまえの言葉で、とうさんは日にちをずらしてくれた)
その間に、トルマの谷に行くことができる。あの詩は、ハスワスリの神からの啓示かもしれないのだ。
※
未来は憑りつかれたように宙を見つめ、黙り込んだミヤトに身構えた。
(こいつ、変身する?)
未来の視線に気づき、ミヤトの瞳がパッと光量を増した。ミヤトはミロクを見上げて微笑み、青い手をミロクの温かい首筋から背中に滑らせて「待っていてくれ」と言った。
「え? 何を?」
未来の問いに、ミヤトは鋭い視線で返してきた。敵意はないが、見るものを焦がすような熱量を感じ、未来は仕方なく睨み返してやった。
突然ミヤトは立ち上がり、未来を見下ろした。
「ぼくは少しの間ここを離れる。ソワハチュリの翌朝までには帰るつもりだ。ユマランの丘で待っていてくれ」
そう言うと、髪をなびかせて、すべるように西宮の廊下を抜けていった。
丸い柱で十字に仕切られた本殿の天井は、格子造りの高窓から光が差して、そこに描かれた生き物たちが、まるで生きているかのように躍動して見える。ミロクを連れて、渡り廊下から勝手に本殿に入り込んだ未来は、頭上の世界に圧倒された。
一つのスペースには、紫の地に純白の羽を広げた大鳥が羽ばたき、風を起こして、赤や黄色の花を散らしている。隣は、黄色の地に深紅のたてがみをなびかせた獣が、今にも飛び掛からんばかりに、金色の牙をむく。その下には、朱色の地にあふれんばかりの緑の植物が描かれて、ツルの絡み合う葉の間に虫たちが潜み、羽根を震わせて歌っている。その左側は、青色の地に銀色の線で波が幾重にも描かれ、その中に、色とりどりの魚が跳ね回っていた。
本殿は学校の教室ほどの広さがある。床には、乳白色の四角い石がタイルのようにぴったりと敷き詰められている。よく磨かれて、はだしで歩いても、継ぎ目を感じさせないほどだ。
境内に向かう入り口の扉は閉まっていたが、障子のような造りで、薄紙が外の光を柔らかく引き入れていた。
祭壇らしきものは、本殿の中央、飴色の柱の間に設けられた奥まった空間の中にあった。波型に透けた鴨居の左右から五色の糸で縦じまに織られた帯が床まで垂れている。中央には低い階段があり、腰ほどの高さのその先に金色に輝く両開きの扉があった。鼻先に、ミントのようないい香りがかすめていく。階段の左右にある台の上に、細長い薄緑の葉が、金色の壺の中にパスタのように刺さっていた。
スッと空気の動く気配がして、東宮側の引き戸が突然開いた。未来は飛び上がるほど驚き、ミロクの前に立ちふさがった。
くるぶしまである白い衣装を纏い、真っ白な髪を頭の上に盛り上げた老婆が立っていた。相当な年に見える。そのろうそくのような姿がアイエリと重なり、未来はすぐに、このばあさまがアイエリの妹ではないかと思った。
確か、クサノワの話にも出ていた。目玉をくりぬいたクサノワのそばにいた女がアイエリの妹で、名前は…。
「おまえがアスラオですね。私はサキ。大長の妹です」
サキは、目じりにいっぱいにしわを寄せて柔らかく微笑んだ。この人がクサノワ様じゃないだろうかと思うほど、陽炎のようにとらえどころのない透明感。未来はミロクの首に手をやりながら、少しずつ後ずさりした。
「すみません。ここ、入っちゃいけなかったかな」
サキは静かに首を横に振り「見てごらん」と言って、天井を見上げた。
「東には風が起こり、南は炎があがる。西に行けば地中から若葉が芽吹き、北には生き物をはぐくむ水がある。この世は風、火、水、地、そうして、それら四つの力の存在する空、その五つの要素で成り立っている。マボウシのクサノワ様が私に教えてくれたことです」
天井は四つに区切られている。言われてみれば、描かれた絵はそれぞれ風、火、地、水を印象付けるデザインに見えた。
「空はどこにあるんですか?」
「空は描くことはできない。空とは私たちを見守る大空であり、時であり、この世のすべての存在そのものだからです」
サキの灰色の瞳は、静かに未来とミロクを捉えた。
「美しいメノウね。とてもよい顔をしている」
胃のあたりがグッと固くなった。
(だから? 美しくたって、どんなにいい顔してたって、ミロクには何の意味もない。あんたたちのために、ミロクはおれに殺されるんだ)
未来は、毛羽立ちそうになる心をグッと抑え、こぶしを握った。
「この宮を造られたシュクラ様は、空の使い手でした。マボウシは五つのうち、何かしらの力を持っています。さて未来、おまえはどうやってこの国に来ることができたのだろう。マシシカバの時は、まだ少し先のはずであろうに」
どうやってと言われても、こっちが聞きたい。だいたいマシシカバ、マシシカバっていったい何?
未来は前髪をかき上げながらむっつりとした顔を上げた。その時だ。小さく扉をたたく音がして、本殿の右奥にある細長い引き戸が開いた。薄闇の中から、鮮やかな色とりどりの花が現れ、次いで、黒髪の女の子が顔をのぞかせた。女の子は未来に気がつくと、つと足を止め、横にいるミロクを見た。女の子の顔がパッと輝き、頬に赤みがさすように見えた。
「おや、ノニ。花を持ってきてくれたの? まあ、なんと美しい。さあ、入りなさい」
ノニは顔が隠れるくらい、たくさんの花を差した大きな壺を両手に抱え、おずおずと祭壇に近づいた。階段の横に壺を置き、腰をかがめて少し手先で花を整えてから、一礼をして入ってきた引き戸に戻ろうとした。
「ノニ、こちらにおいで。紹介しましょう」
女の子は振り返り、未来に目を向けた。未来より少し上かもしれないが、まだ幼さの残る顔立ちだ。未来はこの国に来て、初めて日本人に出会ったと思った。彫の浅いすんなりした目鼻立ちに心から安心する。そしてとてもきれいな人だった。
「未来、この子はノニと言います。いつもはノコトコの谷で、マボウシのカズラ様のお世話をしているの。昨日からカズラ様のお加減が悪くてこの宮にいます。カズラ様は、体調のすぐれない時は、人間をお近づけにはならないのでね」
未来は、朝クルミが話していた女の子を思い出した。この子がノニ。胸の鼓動が早くなり、首から上が急に熱くなった。
「アスラオの未来よ。この美しいメノウを連れて来てくれました」
ノニは細い腕を伸ばし、下を向いている未来の手をとった。思わず手を引いて、未来はノニを見た。ノニはあふれる笑顔を未来に向けている。
「ど、どうも」
なんとも間の抜けた挨拶だ。未来は前髪をかき上げて情けなさをごまかした。ノニはミロクを眺めて微笑むと、もう一度未来と目を合わせ、ゆっくりとお辞儀をしてから、くるりと背を向けて、引き戸の向こうに消えていった。馥郁とした花の香りが、あたりにたちこめる。
「あの子は、外の世界からクサノワ様が連れてこられたのです。生まれ落ちた世界で何があったのかは知らないが、声を失ってしまっていた。ずっと私のもとで暮らしながら、カズラ様のお世話もしているの。とても心根の優しい子です。草や小さな虫までもかわいがる。そう、不思議なことに、あの子はどこからか花を摘んでくる。この辺りにこんな大きく鮮やかな花をつける植物など、もうないはずなのに。どこか森の中に、ノニだけの秘密の花園でもあるのかもしれないわ」
サキは、壺に差し込まれた美しい花を見つめた。
ノニがマスランエに来なくてよかった。ミヤトとの乱闘騒ぎを見られないですんだのだ。なぜだかホッと胸を撫でおろした自分に未来は少し戸惑いながら、ノニが吸い込まれていった薄緑色の引き戸を、幻を見たかのように眺めていた。
「意味など、ない」
コムトは干し草で編んだ敷物の上にあぐらをかき、カカママの酒をクナミの器に注いだ。西宮の葉陰の間の開け放した窓から、ネス山の岩肌が西日に黄色く染まるのが見える。
「ただ、胸が騒いだ。ミヤトが…」
クナミはなみなみとつがれた器を持ち上げて窓の外を眺めた。
「私を父上と、父上と呼んだのだ」
眉間に浅くしわを寄せ、クナミはコムトに視線を向けた。
「クナミ、おまえは知らないかもしれないが、ミヤトは私を父上と呼んだことはない。特別に気分が高揚した時、何度か私をそう呼んだのは…」
コムトは酒を口に含み、のどをゴクリと鳴らして飲み込んだ。
「タユトだ」
クナミは太い眉をゆっくりと持ち上げて鼻から息を吐きだすと、カカママの酒に口をつけた。
「まあ、マスランエの時といい、先ほどのあの言動は、とてもミヤトとは思えない。だがタユトであるはずもなかろう」
「そうだな」
「ミヤトは結界を修復して、この国を守りたいはずだった。だが、ミヤトに何か起こっているのだ。それは、アスラオを迎えて今この国が動き始めたことと無関係ではないだろう。そのミヤトが、戦え…と言った…。コムト、おまえもそう感じただろう。ミヤトの言葉は人を超えた、神に近いものの叫びに聞こえた。だが…かといって、未来にノーバを倒す術などない…か」
コムトは肩を小さく揺らして笑った。
「おまえも笑ってくれ、クナミ。私には、未来に与える時間をほんの少し伸ばすことしかできなかったよ」
クナミは深く頷くと、再び窓の外に目をやった。
二人がいる|葉陰〈よういん〉の間は、宮西の端にある。窓辺から数歩足らずで山は斜面となり、少し下がったところまでは木を切り倒し、均されている。その下に育つ木々は、クナミのいる窓辺から盛り上がって見えるほど葉を茂らせて、風に裏葉を返している。
その向こうにそびえるネス山は、ほとんどが岩がむき出しの厳つい山だ。植物を育む土の層が薄く、雨水をためることのない山ではあるが、代わりに美しい石が採れる。カラキラの地層から削り出した色鮮やかな鉱物は、ハクワの民の優れた技術によって、大きさの整った平たい形に加工される。その技は、代々ある一つの家族に受け継がれたが、ノーバの報復により家は絶え、今はもう幻の技となった。
その家に嫁いでいたのは、クナミのいとこであり、コムトの妹のナラだった。ノーバによって家族を殺されたナラの夫は、その兄弟とともにワスリノトに登った。たった一人になったナラは、宮に帰ってきた。
青い子が生まれ、混乱の続くさなか、ナラは偶然来世の泉に写し絵を見つけた。それから少ししてナラは行方が分からなくなった。
クナミはナラの亡骸を見たひとりだった。ナラを探し数週間が立ち、ふとカラキラを思い出しネス山に登ったクナミが、岩肌に横たわるナラを見つけ、その無残に割れた足に自分の上着をかけてやったのだ。
クナミは下腹に手をやり、力を込めて大きく息を吐いた。こうして何度憎しみを腹に押し戻したかしれない。いつかノーバを倒す。その日が来ると信じていた。
「私も同じだ、気持ちはわかるぞ、コムト。数日伸ばしたとしても、何も変わらないかもしれない。だが、やはり胸が騒ぐのだ。それだけだ」
酒が喉をゆるりと降りていく。
それにしても、ミヤトは本当にタユトを演じているだけなのだろうか。マスランエの最中、あの時未来に挑むミヤトの目は、タユトではなかったか? シーリンは二人ともうまかったが、未来の胸に入れたあの突きは、タユトの得意とする形だった。
カカママの酒が、頭の芯をゆるく包んでくる。クナミは首を左右に曲げ、活を入れるがごとく、自分の頬を平手で叩いた。
「ミヤトです。とうさん、話があります」
廊下でミヤトの声がした。クナミは酒を置いて、コムトと顔を見合わせた。
「入れ」
引き戸を静かに開け、現れたミヤトを見て二人は驚いた。
ミヤトはサラオキを着ていたのだ。ミヤトは部屋に入ってすぐのところに正座をした。コムトは首を傾げ、眉をしかめて訊いた。
「どうしたのだ、ミヤト。これからシーリンの稽古でもするつもりか」
「とうさん、ぼくはソワハチュリの祭りに出ることができなくなりました。その許しを得たいのです」
「何を言っている?」
コムトは身を乗り出して、息子の顔を見つめた。
「ネス山に登ります。祭りの翌朝には必ず帰ってきます」
「ネス山?」
クナミが怪訝な顔で聞き返した。
「なぜ今ネス山に登るのだ。ワクツがまだ捕まらんのだぞ。あそこはナラがやられたところだ」
「クナミ叔父、ワクツの一匹くらい、今のぼくなら倒せます。確かめたいことがあるのです」
「何を確かめるのだ」
「わかりません…。ただそこに…真実がある気がするのです」
コムトは思わず語気を強めた。
「わからないのは私のほうだ。話にならん。ミヤト、祭りの翌朝に何を行うか、おまえは知っているだろう」
「ですから、それまでに戻ります。とうさんお願いです」
ミヤトは額を床にこすりつけた。後頭部で束ねられた青い髪がばさりと床に広がり、青く染まったうなじが見えた。コムトは訳の分からないミヤトの申し出に困惑し、かたくなに首を振った。
「だめだ。ソワハチュリもネム・トシュラのおまえがいなければ始まらん。あきらめろ。ミヤト」
ミヤトは顔を上げ、父親に詰め寄った。
「それならば」
上気した顔に、青い目が熱を帯びて潤んでいた。
「なぜとうさんは、時を伸ばしたのです。とうさんだって、タユトの言葉に心が動いたのでしょう」
葉陰の間に、一瞬の沈黙が流れた。
「タユトの言葉…?」
「いえ、ぼくの言葉です」
訂正したミヤトの目は、揺らぎもせずコムトを見つめ続ける。
山の斜面からせりあがってくるセミの声が途切れ、代わりにククカカムーの群れが、体の二倍はある尾っぽを振り回し、ククカカと打楽器のように鳴きながら斜面に根を張る樹木の上を、北側に渡っていった。
(ネス山…)
クナミはまた、窓辺からネス山に目をやった。
山の真上に、白い雲が一つ、青空に片翼を広げるように浮かんでいる。そういえば、ナラを見つけた日も、空に同じ形の雲が浮かんでいた。
ふと、クナミは思った。ナラが呼んでいるのではないか。真実がここにあると、ミヤトを呼んでいるのではないか。
クナミは、さざ波のたつ胸を鎮めてミヤトに訊いた。
「おまえの確かめたいこととは、我らの行く末と関係があるということか?」
「はい。そうです。たぶん…ですが…。いえ、そのために、ぼくは行かなければなりません」
クナミは驚きをもって、ミヤトを見つめた。ミヤトがこんな風に、真っ直ぐに主張を通してきたのは初めてだった。
求めるものが、それが何かもわからず行くとなれば、十中八九ミヤトは何も得ずに、ただうなだれて帰ることになるだろうことはわかっている。
だが、万が一にも見つかれば。
クナミの胸は、密かに高鳴った。
それは、必ずハクワの民の悲願に繋がるものだ。
自分でもばかばかしくなるほどだった。根拠など何もないのだから。
「さて、どうするかな、コムト」
クナミが声をかけると、コムトは大きく息を吐き、両手で頬に垂れる髪を後ろにかき上げて、疲れた顔を上げた。
「ならば、気のすむようにしなさい。だが、必ずソワハチュリの翌朝、ユマランの丘に来るのだぞ」
マイマの群れ
清潔に吹き清められた煮炊きの間で、ミヤトは井戸から水を汲み、クロイナの木の節で作った水筒に水を満たした。クロイナは中が空洞で、ジュアの木同様、殺菌成分を含む、水筒に最適の木だ。長いものなら、節約すれば二日分の水は腐らずに確保できる。ミヤトは念のため二本用意して、一本を肩に斜めにかけた。それから棚の中からカシコマの壺を取り出して、布製の袋にめいっぱい詰めた。ギギの干し肉も一切れ、薄くのして乾燥させたノリイの実の団子も袋に入れた。それらをさらに大きな移動用の袋に入れて口を絞り、紐に両腕を通して背負った。
煮炊きの間から外に出ると、境内はがらんとして、空だけがやけに青く、ジュアの大木が、午後の風にサワサワと枝を揺らしている。鳥居のところで振り返り、ミヤトはラスイヤカの洞窟に向けて指を合わせ、もう一度ハスワスリの神に感謝の咒を捧げた。
石段を下りたところでミヤトは視線を感じ、いぶかし気にマトバミの木の下に目をやった。大樹の陰からゆらりと日差しの下に出てきたのは、ルマイだった。
「どこに行くんだ? ミヤト。そんな恰好で」
「ちょっと確かめたいことがあるんだ」
「何を確かめる?」
ミヤトは言葉を選び、黙り込んだ。ルマイはミヤトに一歩近づいて、深い井戸を覗き込むような眼をして言った。
「ぼくも、確かめたいことがある」
「なんだ?」
ルマイは一瞬ためらいがちに横を向いたが、意を決したようにミヤトに顔を向けて言った。
「タユトだろ? おまえタユトだよな」
背筋にヒヤッと冷たい風が触れた。ルマイはタユトと特別仲が良かったのだ。気づかれても不思議ではない。ミヤトは焦る心を隠して笑って答えた。
「なに言ってるんだ。おかしなやつだな。ぼくはミヤトだ」
今は説明をしている時間すら惜しい。それに、タユトにトウバシの迷い草を教えたのはルマイではないかと、ミヤトは密かに考えていた。ルマイはモブカの木工所を手伝い、ウルとともに山を巡って、木材や草のツルなどを調べている。迷い草を知っていても不思議はない。
タユトがトウバシを吸っていたことは、ミヤト以外誰も知らない。もしタユトが現れて、ルマイとその話でもしたりしたら、その時自分は、ルマイを許すことができるのだろうか。それが怖くて今までルマイに聞くことをしなかったというのに。
ミヤトはルマイを振り切り、スーの神殿に向けて石畳を歩き始めた。
それに、今タユトにこの体を取られたら、ルマイと二人で何をするかわからない。マーチュワスリに潜って、魚獲りに夢中になったとしても、自分には見ていることしかできないのだ。
タユトに貸した体は、なぜか、タユトが返してくれるまで自分のもとには帰らない。三日の間にラス山に登り、真実を探してこなければならない今、タユトに体を渡すわけにはいかないのだ。
ルマイはすぐに追ってきて、ミヤトの肩をつかみ、前に回り込んだ。
「待てよ。あのシーリンはタユトだ。ぼくはジュアの木の下で、自分の目を疑った。ありえないと思った。でも、風光の間にいたのもタユトだ。なあ、タユトだろ? おまえ、タユトだろ?」
ルマイはすがりつくような目でミヤトを見つめた。ミヤトの瞳の中にタユトを見つけようと、必死に探しているようだった。ミヤトは心が乱れぬよう、呼吸を整えた。激すると、タユトが出て来るような気がした。ミヤトは努めて冷静に言った。
「ぼくがタユトだったら、どうするっていうんだ」
ルマイは、日に焼けたりりしい顔を歪ませた。
「謝りたい…」
「何を?」
「…言えない」
クッとミヤトは唇をかんだ。
「言えないのは、ぼくがミヤトだからだろ。それで終わりだ」
生温かい風がスーの神殿を抜け、並木の葉を揺らしながらやってきて、ルマイの髪を後ろからふわりと持ち上げた。
「どいてくれ。急いでいる」
ミヤトはルマイの横をすり抜けて、歩き出した。
「なあ、どこに行くんだ? ミヤト」
ルマイが再び声をかけた。ミヤトは前を向いたまま、大声で答えた。
「ネス山」
「何しに?」
「一言じゃ言えない」
ルマイは乾いた声で笑った。
「悪かったよ、そうだ。おまえは全くのミヤトだ。変なこと言って許してくれ。それから、これからネス山に行くんなら、足りないものがある」
ミヤトは振り返った。ルマイは、ネス山のはるか上空を指さした。薄い雲が西の空に、幾層にもたなびいている。
「ちょっと前から風が変わった。たぶん明日か明後日には雨になる。雨除けが必要だ。ネス山は大雨になるかもな」
以前ウルが〈ルマイの予想はよく当たる、山を巡る時にとても役に立つ〉と言っていたのをミヤトは思い出した。
雨が降るのはなかなか厄介だ。土の少ない岩山のネス山は、雨水がそのまま流れ落ち、いたるところに激しい滝を作るという。よほど良い岩場を探さない限り、足をすくわれて、そのまま滑落することもありえるのだ。
「ぼくを連れて行けば? ネス山なら詳しいぜ。何だか知らないけど」
「ああ…」
ミヤトは迷った。タユトが現れないだろうかと不安だったが、雨のネス山に一人で登るのも自信がない。
ルマイに話そうか。ネス山に行く目的を。何かわからないが、そこにある真実を見つけるために登るのだということを。ルマイならわかってくれるかもしれない。タユトが現れて、万が一山を下りると言ったとしても、もしかしたら説得してくれるかもしれない。
(いや、タユトだって、きっとぼくと同じことをするだろう。だからこそ、風光の間で姿をあらわしたのだ。きっとぼくに、思いを託してくれる。そうだろう? タユト)
ミヤトは目を閉じて、自分の心に語り掛けた。迷い草の話なんて、いまさらこだわることではないのだ。それよりも、もっと大きなうねりが自分たちを、このハクワの国を待ち受けているのだから。
ミヤトは大きく息を吐き、こっくりと頷いてから、顔を上げた。
「ああ。助けてくれるか? ルマイ」
「まかせろ」
ルマイはこぶしをミヤトに突き出して、不敵に笑った。
太陽が西の空からハクワの街並を照らしている。真ん中を貫くツクトナの道の両側に茂る並木や、ぽつぽつと見える家らしき建物は、右側を黄色く染めながら左にいっせいに影を落としていた。高い山に囲まれた広い盆地に広がる円形の不思議な街。街並みから右に外れた草原の中に、大きな川が見えた。西日を跳ね返し鈍色に光るその川は、大きく蛇行して南の山裾に消えていた。
スーの神殿の巨大な樹木を挟んで、ちょうどこの宮と対のような位置に、背の高い建物がある。街並みより少し高く持ち上げられた広場は、側面が石垣のような物で覆われていた。広場には、こんもりとした木が、ブロッコリーのように盛り上がり、建物はその中央からまるで羊羹を立てたように、ニョキリとそびえ立っている。遠すぎてわからないが、白っぽい表面からすると、きっと石造りの建物なのだろうと未来は思った。最上階は数本の太い柱で三角形の屋根を支えているだけで、壁がなく、背後にある黄金色の山々が柱の間から見通せた。こんな小さな国の技術で、どうやってあんな高い建物を建てられたのだろう。
未来は鳥居の下に佇み、ミロクの背中に手を置いて、カレンダーの写真を見るように見知らぬ町の風景をぼんやりと眺めていた。
しばらくして、御神楽殿に上がり、未来は床の上に寝転がった。天井の極彩色の虫たちが薄闇をいいことに、大きな羽や細長い足を秘かに動かしているようで、未来は軽いめまいを覚えた。
ノニが消えていったあの引き戸の向こうに何があるか知りたい。本殿の北には元宮があると言っていた。そこに通ずる道があるのかもしれない。それとも屋敷がまだ北に続いているのだろうか。そして…ノニもそこにいるのだろうか。
人の気配がして未来は起き上がり、西宮の方を振り返った。ジュアの木の陰から、ロッキと、すっかりしぼんだクルミが歩いてくる。白いドレスから、見覚えのある薄緑の服に着替えていた。
ロッキが御神楽殿の上にいる未来に気がついて、クルミの手を取り近づいてきた。クルミは下を向き、御神楽殿の前で足を止めた。ロッキは眉毛と口元をミミズのように変形させて、未来を見上げた。
「未来…」
ロッキの情けない声に、未来はため息をついて御神楽殿の階段を降り、クウのヒモをぶら下げて地面に降り立った。後ろから、ふわふわの体を揺さぶりながら、ミロクもゆっくりと降りてくる。クルミは下を向いたまま、ミロクの前に進み出た。細い腕を持ち上げてミロクの首筋に回し、頬を寄せて、そっと抱きしめた。
「温かいよ」
喉をつぶしたような声で、クルミは呟いた。
「ミロク、温かいよ」
そう言って、クルミは顔を上げ未来を見た。見事に瞼がはれ上がってる。声もおかしいし、相当泣いたのだろう。
「ミロク…」
ロッキも背中に手を伸ばし、柔らかな羽根に触った。
突然ロッキは、ミロクの背中に顔をうずめた。肩を震わせて、ロッキは声を上げて泣き出した。クルミもミロクの首筋にしがみついて、どうやら枯れることのないらしい涙を滝のように流し始める。未来は一歩下がって二人を眺めた。
なんだよ、ミロクがびしょ濡れになっちゃうじゃん…。
「未来ー」
ロッキが、涙でグシュグシュになった顔を未来に向ける。未来は思わず笑いそうになった。
おまえ、なんておかしな顔して泣いてんの? あれ?
未来の目頭から、ぽろりと熱い水が小鼻の上に流れた。
あれ?
それは目じりからも、とめどもなく湧き上がり、顎から地面に滴り落ちた。
おれ、泣いてる?
ロッキが未来の肩に手を伸ばし、ミロクのそばに引き寄せた。ミロクの背中は、とろけるように温かかった。羽根の上に頬を乗せ、未来は胸いっぱいに甘い匂いを吸い込んだ。大量の悲しみと切なさが腹の底からのどを駆け上る。
ミロク、ごめんな。おれがおまえを連れてきたばっかりに。ごめんな、ミロク。
未来はミロクにしがみつき、ロッキに肩を抱かれて号泣した。溢れる涙は柔らかなミロクの羽根の上を、滑るように流れていった。
太陽がハスワスリの宮西の森に隠れ、境内が薄闇に包まれると、まだ日の沈まないハクワの町並みが、見事な紅色に染まる。未来は鳥居の下に立ち、異国の景色を眺めた。
「どうした? 未来」
ロッキが後ろから声をかけた。
「なんでこんな色になるんだろう。まるで絵の具で塗られたようだ」
未来は湊の絵を思い出していた。抽象画ではあったが、同じような美しい赤に染められた絵だった。
そうか。あれは夕日に照らされた町並みだったのかもしれない。
夕げの支度が始まっているのだろう。いい匂いが漂ってくる。ロッキがクルミの肩をたたいた。
「中に入ろう」
「私、何も食べたくないよ」
クルミはしんなりとうなだれた。
「だめだよ。さっき話しただろ? ミロクといられる間、精一杯楽しく過ごそうって。おれたちの記憶に、しっかりとミロクとの思い出を刻むんだって」
「そうだね。楽しい思い出だけをね。私たち四人のね」
クルミはそう言って、ようやく微笑みを浮かべ、未来に目を向けた。
未来の胸に、じんわりと温かい熱がこみ上げてくる。人前であんなに泣いたのは子どもの頃以来だった。
風は生暖かく、子どもたちの髪を夕闇になびかせる。虫の来ないジュアの森は、遠くからセミの鳴き声がとぎれとぎれに聞こえてくるだけで、境内は静かだった。
未来はふと耳を澄ませた。急いで鳥居の下に行き、何物か、気配の近づくハクワの町の上空に目をやった。
赤く染まる東の山の中腹から、黒い煙が湧き上がる。それは町の上を大きく蛇行して、小さな雑音を引きつれて近づいてくる。やがて雑音はとんでもない音量の騒音になり、未来がその煙が何百羽の鳥の群れだとわかった時には、鳥たちは、一の鳥居の脇にあるマトバミの木の中に吸い込まれていった
「ムクドリの群れだ。ここにもいるんだな。相変わらずうるさいな。ここまで聞こえてくるんだから、すごい声だ」
ロッキは眉毛を上げて、あきれたように未来を見た。
「ムクドリじゃないよ。マイマの群れだ。昼の間は、南のマクリマの谷や東の原で、虫を食べて過ごすんだ。夜になる頃、この辺りに帰ってくる。夏の間はずっとこうだ。騒がしいだろう? でも少ししたら静かになる」
クルミはすっかりと明るい顔に戻っていた。
(本当に、どこにでも同じような鳥はいるんだな)
高那駅前にもいたし、御玉神社の木にもいた。未来は鳴き声にうんざりしていたつい数日前の自分を、懐かしく思った。
「おまえたち、ここにいたか」
クナミとキノイが御神楽殿の前に姿を現した。気がつけば、西宮の窓にゆらゆらと明かりが灯っている。
「夕食の支度が整ったよ。今夜はナナトが腕によりをかけてこしらえてくれた。クルミ、おまえの生まれた日だからね。昼間からごちそう続きだが、スイナの粥は頂かないとね」
キノイはクルミの髪をなぜて、微笑んだ。
「スイナの粥か。ぼくにもくれるって言ったよな、クルミちゃん!」
「うん! この一年健康に!」
クルミはロッキと顔を見合わせて、にっこり笑った。
「ふたりは先に行きなさい。未来に少し話がある」
クナミの言葉にロッキは神妙な顔になり「はい」と言って、クルミをうながした。
黒々としたジュアの枝葉の隙間から見える空に、星が薄っすらと瞬き始めていた。ミロクが顔をキノイに寄せた。キノイは微笑んで、ミロクを見上げた。
「触っていいかい?」
遠慮がちにそう言ってから、キノイは急に苦しそうに顔をゆがめ、伸ばしかけた手を引いて、首を横に振った。
「未来、私たちはあんたに詫びなきゃならない。大切なメノウの命を使わせてもらうことになってしまった」
「すまない。未来」
キノイとクナミは地面に立膝をついて座った。それから拳を握り、腕を交差させて胸に当て頭を垂れた。それが謝罪の所作であることは未来にも分かった。
「私は、おまえのメノウを守ると約束した」
下を向いたクナミの顔はわからないが、胸を摺り下ろされるようなその声に、口惜しさが潰し出されているような気がした。
本当は戦いたかった…。ミヤトの言葉が蘇り、胸が熱くなる。
「わかってる。クナミもキノイもミロクを殺したくなかったんだって。ミヤトが教えてくれたんだ」
そろって顔を上げた二人の瞳が、ぶれることなくまっすぐに自分に注がれていることが、未来の心を安らかにした。
「立ってよ。もういいんだ。仕方ないんだ。これがおれたちの使命だったんなら、受け入れるしかないんだからさ。だから、そんな、謝ることなんてないんだって」
未来は、ミロクの首をふっくらと包む柔らかな毛に手をやり、温かい頭をなぜた。
「覚悟はできてる。でも今は考えないようにしてるんだ」
「未来、すまない」
傷口がこすれるようなキノイのかすれた声は、未来の胸の奥深く沈んでいった。
太陽はとっくに西の山に沈み、あたりは青い空気に満たされていた。それでも境内は不思議に明るく、石畳にジュアの影が黒々と揺れる。見上げると、木立の間に真っ白な半分の月が浮かんでいた。
西宮の玄関から右に伸びる廊下の、最初の角を左に折れた先に、広間があった。部屋の中に光が揺れている。窓が二つ、すだれが真ん中あたりまで下されている。左右の壁には等間隔に台が取り付けられていて、その上に火の灯ったランプが乗せられていた。中央に大きな丸テーブルがあり、クナミの家にもある円形の照明が、並べられた料理をつややかに照らしている。
未来を迎えた皆の顔は優しかった。薄紙を通す柔らかな光のせいだろうか。カラトでさえも、穏やかな笑みを浮かべているように見え、未来は不思議な気分で部屋に足を踏み入れた。
クルミが席を立って、未来をロッキの横の椅子に案内した。ミロクは未来の後ろに立ち、すました顔で未来の肩越しに食卓を覗いていた。
「そろったようじゃな、ではコムト、始めよう」
アイエリにうながされ、コムトは静かに祈りをささげる。
ロッキは指で作る祈りの所作を、もうずっと前からハクワの人間だったかのように、まったく自然にこなしている。未来のおぼつかない手元に、憐みの視線を投げてきた。この分じゃ、調子に乗ったロッキが自分に祈らせてくれと名乗りを上げるのは、時間の問題だ。
料理はどれも彩りがよく、多分おいしいのだろう。口に運んではみるが、今の未来にはどれも同じ味に感じた。
皆、気を使っているらしく、未来の後ろでくつろぐミロクの話に触れるものはいなかった。さっき穏やかな表情に見えたのは、やはり照明のせいだったのかもしれない。カラトは相変わらず険しい顔をしていた。
「お茶のおかわりはどう?」
ナナトが、未来に声をかけた。夏ミカンの香りがするお茶だ。
「あ、ください」
ナナトは壺の中から未来の茶碗に茶を注ぎながら、灰色の瞳を向けて微笑んだ。
「ミヤトが失礼なことを言ったそうね。ごめんなさい。いつもはそんな子ではないの。許してあげて」
ナナトが離れると、未来は肘でロッキをつついた。
「なんか言ったの?」
「それは言ったよ。事実はしっかりと伝えないとな。でも、イヤなやつだとは言ってないよ」
ロッキは目を細くしてニッと笑い、つやつやの肉の塊に手を伸ばした。学習したらしく、もう何の肉とは尋ねなくなった。ロッキは肉が山盛りになった小皿に目をやった。
「未来、おまえ全然食ってないじゃないか」
「食ってるよ」
ロッキは肉の塊を頬張りながら「同じ時間だ。楽しく過ごす!」と言った。
(そうだったな)
背中にミロクの気配を感じる。悲しさが鼻の奥を刺激する前に大きく息を吸い、空っぽの胃に詰まったやるせない思いをおもいきり吐き出した。
「なあ、なんでミヤトはいないんだろう? まだ具合が悪いのかな。さっきはびっくりしたからな」
唇をテカらせて、ロッキが小声で訊いた。
「どこかに行くって。さっき少し話したんだ」
「そうなのか?」
ロッキは驚いたように、眉毛を上げた。
「さっきは普通だった」
「ふうん」
ロッキは口をとがらせて頷いた。
「クルミ、運んでちょうだい」
ナナトに呼ばれてクルミは席を立ち、すぐに、小さな陶器の椀を三つのせた盆を運んできた。それを、自分とロッキと未来の前に置き、いそいそと席に戻った。
「スイナの粥だよ」
クルミはにっこり笑った。椀の中には、恐ろしいほど鮮やかな緑色の物体が入っていた。未来は思わず聞き返した。
「粥?」
おおよそ、未来たちが知る粥とは程遠い形状だった。粥のような水分の多い感じではなく、こんもりと盛られているところから見ると、かなり粘度の高いものなのだろう。色だけではなく、表面のつややかさが、さらに毒々しさを演出している。
「誕生の祝いに頂くものなんだ。スイナは薬草だ。体にいいんだよ」
「薬草…」
味わう前から、口の中に苦みが広がる気がした。大抵のものは大丈夫なほうだが、苦いものだけは苦手な未来なのだ。
ロッキも未来を見て、情けない顔で笑った。
この国に来て、何度ロッキのこの顔を見ただろう。そして未来も今回だけは、ロッキと同じ気分に陥って、心の中でため息をついた。この幸せに満ちた空間の中で、祝いの粥のおすそ分けを断わることができるヤツがいたとしたら、かなりのツワモノと言っていい。しかもせっかく立ち直ったクルミの行為を無にすることになる。
「次の一年も健やかに過ごせるように、感謝していただくんだよ」
キノイがそう言うと、クナミがクルミの黒髪を撫ぜ「おめでとう、クルミ」と頬を崩した。
クルミは嬉しそうに頬をバラ色に染め、瞳をキラキラさせている。その様子に、未来は心からほっとした。今日からの三日間、悲しんでも楽しんでも、同じ時間が過ぎていく。だったら笑って過ごそうと三人で決めたのだ。
大窓から、涼しい夜風が流れてくる。向かいの山は黒々として、その上に灰色の雲がたなびく夜空が広がっていた。
「ヨモギの香りに似てるな」
ロッキは木製のレンゲのようなスプーンで粥の上っ面を少しすくって、恐る恐る匂いを嗅いでいる。
「ロッキ、食べないの? あんなに食べたいって言ってたのに」
口の中をま緑にしてクルミが話しかける。ロッキが絶句しているので、未来が代わりに答えた。
「なんかさ、クルミ、舌に苔が生えてるみたいだけど」
答えになっていないその言葉が気に入ったのか、クルミはにっこりと笑い、ふたりに、緑色に染まった舌を突き出して見せた。
「クルミ、あんたは今日いくつになった? まだまだお子様なのかい?」
キノイが呆れた声で注意する。クナミは微笑み、サキとナナトは苦笑し、コムトが声を上げて笑った。サキから様子を聞いたアイエリが、見えぬ目をしわだらけのまぶたでふたをして、フォッと空気が抜けたような声で笑った。
「クルミ、おまえは十三になった。明日からクサノワルクの実をいただくのじゃろう?」
アイエリに言われ、クルミはスプーンをコトリと置き、目をキラキラに輝かせた。
「いいの? とうさん」
クナミはゆっくり頷いた。クルミは「あっ」と何かを思いついたように声を上げ、目を輝かせたまま神妙に言った。
「それなら、ロッキと未来にもください。でないと、あっという間にふたりは大人になってしまう」
ロッキが、テーブルの下で未来の足をそっと蹴った。口元が期待に満ちて、今にも笑いそうに歪んでいる。未来に頼んでほしかったことが、思いがけずクルミの口から大人たちに伝わったのだ。
いや、ちょっと待てよ、ロッキ。そんな感じじゃないんだけど…。
「そうだな…」
クナミは顎に手をやり、コムトと目を合わせた。空気が強張るのを、未来は気づかないふりをした。
ひとりふんぞり返って茶をすすっていたカラトが体を起こし、茶碗をテーブルに置いた。
「だめだ。クルミ。外から来た人間に、あの実がどう作用するかわからないだろう」
そりゃあそうだ。未来は初めてカラトに賛同した。こっちだって副反応は心配だ。実際クサノワルクの実は、何しろクサノワの目玉から生まれた、恐ろしく神聖な実なのだから、よそ者には、おいそれとは渡せない代物であるはずだ。それでも、クルミの一言で、ここまで大人たちが戸惑う必要があるのだろうか。
未来はランプの明かりに揺れるキノイの硬い表情を眺めた。
「ロッキと未来は、我々とは違う。どうしたって、仕方のないこともある」
クナミはテーブルに肘をつき、手のひらを握り合わせて言った。クルミは少し頬を膨らませ、つまらなそうに下を向く。ロッキはその様子に、慌てて声を上げた。
「そうですよね。ありがとな、クルミちゃん。でも、みなさんの言う通りだよ、きっと。それに、ほら、スイナのお粥分けてくれたからな、きっと丈夫で一年暮らせるし、これって毎年食べるんだろ? だから、おれたちずっと元気でいられるから。まあ、年は取るけどな。でもそれだけで十分だよ。な、未来」
「あ、うん」
いきなり振られて、未来は思わず大げさに頷いた。
「ほら、未来食べてみろ。ありがたいぞ」
ロッキは小声で言いながら、未来の椀を指先でズズっと押した。一発殴らせてくれるかなと思ったが、笑顔の中の大きな目が必死に懇願してくるのが分かった。
「ったく」
未来は腹をくくり、粥をすくい上げて口の中に流し込んだ。思いがけず口いっぱいにさわやかな香りが満ちて、舌の上に優しい甘さが広がった。スイナの粥は、なんと上等のスイーツだったのだ。
「うん、うまい」
未来は唇を緑にして、クルミに笑いかけた。それを見たロッキは、スプーンに乗せたわずかな量をそっと舐め、この上ない幸せな顔をしたと思うと、今度は豪快にすくって口に運んだ。
「甘い! うまいなぁ!」
お決まりの屈託のない素直な声は、御馳走の並ぶテーブルの上を渡り、大人たちの顔を和ませて、一挙に空気を変えた。クルミも「そうだろ? よかった!」とすっかり機嫌を直した風だ。
「あんたはほんとにいい子だね」
キノイはそう言って笑ったが、ランプの明かりが落とす端正な影が、微かに歪んだような気がして、未来はしばらくの間キノイを憮然と眺めていた。
ハッカの夜
暗闇の中、ロッキの寝息が頭の上を通りすぎる。未来はロッキに背を向けて横になり、足元の小さな明かりにうっすらと浮かび上がる、ミロクの姿を眺めていた。
キノイに連れられて、この部屋に通され横になってから、どのくらいたったのだろう。眠気は一向に襲ってこなかった。
低音を奏でるオカリナに似た声が聞こえてくる。フクロウの鳴き声かと思ったが、この声の主はもう少し小型のモミズクという鳥らしい。セミは古いハクワの言葉ではウバというらしいが、今はセミと呼ぶのだと教えてもらった。結界ができてからは、外の世界の言葉を積極的に取り入れたのだそうだ。
ミロクは首を背中に回し、羽の中に顔をうずめている。顔が獣で体が鳥。
ノーバの使いである妖獣メノウ。
未来は今更のように、まじまじとミロクを見つめた。もしかして、やっぱり夢ではないかと、未来は目を閉じてみる。だが、眠くなることはなく、すぐに苦痛になり目を開ける。
ミロクの小山のようなシルエットが、規則正しく盛り上がる。未来は腕を伸ばし、ミロクの体に手を乗せた。柔らかい羽の下に息づく生物の温かさが、手のひらに伝わってくる。
夢ではない。自分もミロクも、ちゃんと生きているのだ。そして、それなのに、三日後の朝、自分はミロクを殺すのだ。
胸の奥がねじれるように痛み、未来は布団の上で背中を丸めた。その時、廊下で人の気配がした。未来は起き上がり、布団の上で身構えた。
「未来? ロッキ? もう寝ちゃった?」
「クルミ?」
扉がスーッと開いて、クルミがランプを持って入ってきた。
「あー。やっぱりロッキは寝てしまった」
ランプの光がクルミの膨らんだ頬を、明るく照らしている。ミロクが首を持ち上げて、大きく瞬きをした。
「何だよ、クルミ」
「未来まで忘れたの? ハッカを見に行くんだよ」
「ハッカ!」
あの小さなトンボだ。
「とうさんたちに言うの、忘れてしまったんだ。だって、いろいろあったから」
クルミはミロクの頬に手を伸ばした。
「とうさんとキノイは寝てしまったみたいだし、私たちだけでも行きたいって思って。だって、本当にこんな機会、めったにないんだ。未来やロッキに見せたいんだ。本当にきれいなんだよ。それに、ミロクにもね。私たち四人で見たいんだ」
四人で見る。その言葉が切ない響きをもって、未来の心に沁みわたった。
そうだ、ミロクと過ごせる残りはぼ二日間、本当に少ない時間だが、できるだけ思い出を作るっていうのもいいかもしれない。
目を覚ましたミロクは、ランプの明かりに大きな瞳をきらめかせて、未来を見ていた。ロッキは派手に寝返りを打ち、布団から転げ出たまま熟睡している。その横で、クルミは小さくため息をついた。
「でも、ロッキが寝てしまったから」
「なんで? 問題ないじゃん」
未来は、平和な顔で口を半開きにして眠るロッキの鼻をつまんでやった。
顔をしかめ、プワッと息を吐き、未来の手を払ってロッキは飛び起きた。
木立の隙間からのぞく夜空は雲に覆われていた。どこかに潜む月の光が、天空に灰色の濃淡を浮かび上がらせている。暖かい風が木の葉を揺らし、水霧の道を下る未来たちの上で、ザワザワと音を立てた。
ランプをかざしたクルミを先頭に、ロッキ、ミロク、未来と続いた。石段を降りるのはミロクには大変だろうとこの道を選んだのだが、こちらもなかなか急坂だ。それでもミロクはゆったりと足を運んだが、ロッキのほうは危なかった。ぐっすり寝ていたところを起こされて、いきなり歩かされているものだから、何度も足をもつれさせた。
ようやく白い石畳の道に降り立った頃には、皆かなりの汗をかいていた。深夜だというのに気温が高く、蒸し暑い。ムクムクとまるで羊の毛のような雲が覆う東の空の一部が、行灯の明かりのように薄黄色い光をにじませていて、そのあたりに月がいることを知らせていた。
「なんだか不気味だな。昼間と全然雰囲気が違うな」
ロッキは声を潜め、あたりを見回した。森の反対側には、道に面してまばらに並ぶ家々が黒々と連なっている。夕方あれほど騒がしかったマイマの群れも、さすがに就寝中らしく、あたりは草に住む虫が密やかな声を響かせていた。風が南から石畳の道をすべるようにやってきて、森の木々がいっせいにざわめいた。ロッキがひょろ長い首を縮めて、ランプを手にするクルミに一歩近づいた。
この真っ暗な森に分け入るには、この小さなランプの明かりだけでは足りないのではないかと、さすがに未来も少し心配になった。なにしろミロクも一緒なのだ。ミロクは長い耳をぴんと立て、風に背中の羽を震わせて、おとなしく未来の隣に立っている。
「いまさらだけどさ、クルミ。おまえ、ちゃんと道わかってるんだよね?」
「大丈夫。放牧場の囲いに沿って入っていけば、ケルブの岩場に行けるんだ。前も、とうさんたちとその道を行ったんだから。大丈夫。迷わないよ」
クルミはまじめな顔でそう言うと、未来とロッキに熱い瞳を向けた。
「こんな日だった。その時もね。ハッカはこういう湿った夜が好きなんだ。マーリには教えたから、カエラたちも来てるかもしれない。さあ、行こう。きっとすごいよ」
森の中は風もなく、獣のにおいが微かに鼻を突く。ランプの明かりに照らされた先に、放牧場の柵が見えた。昼間のパーラとの出会いを思い出しながら、未来はふと足を止めた。左の黒々とした建物は馬屋のはずだが、馬たちの気配がない。未来はクルミの腕を取った。
「馬、いる?」
クルミが眉をひそめて馬屋に近づき、ランプを差し出すと、中はもぬけの空だった。
「パーラ? トス? ラス?」
馬たちの名を呼ぶクルミの声が、森の闇に吸い込まれていく。ランプの明かりに浮かび上がったクルミは、不安な面持ちで首をひねった。
「どこへいったんだろう」
「きっと蒸し暑いから、涼しいところに移動したんだよ」
ロッキが、妙に明るい声を放った。クルミは頷いて笑った。
「丘の上で寝ることにしたのかも。原っぱだから、風も吹いてくれて涼しいって、知ってるんだよ」
ロッキは未来に体を向け「そうだって。未来」と目を細めて笑った。
一行は、柵に沿って緩やかな森の傾斜を登っていった。前を行くミロクは、大きな体を揺らしながら歩き、時折未来を振り返る。暗いので、どんな表情をしているのかはわからないが、きっと坂道がつらいのだと未来は思った。どんなことでも自分の言うことを聞くミロクの健気さに、胸が痛んだ。
ミロクの長い尾羽を踏みつけないように注意しながら、何もこんなところまでミロクを連れてこなくてもよかったのではないかと、未来は後悔し始めていた。
ミロクとの思い出を作ろうなんて、ただの自己満足だ。これでハッカの金色祭りが言うほどのことでもなかったら、たぶんクルミにブチ切れる。いや、そうじゃない、自分にだ。結局自分も人間で、エゴの塊だったのだ。
ミロクが祭りを楽しみにしているわけがない。ただただ自分についてきて、腐葉土に足を潜らせながら、頑張って歩いているだけなのだ。
ため息をついた未来の鼻に、フッと甘い香りが抜けた。
「見て!」
先頭を行くクルミが、声を潜めた。
乱立する木立の向こうが明るい。一行は足を速めた。やがてランプの明かりもいらなくなるほど、地面が明るく照らし出された。
「なに? なに? なに?」
ロッキが興奮して声を上げる。
「ミロク、足元に気をつけろよ」
まるで自分たちの気持ちを汲んだかのように、急ぎ足になるミロクに声をかけながら、未来も胸の高鳴りを抑えられなかった。
いきなり目の前が開けた。皆そこで足を止め、息を吞んだ。
森に囲まれた広場の真ん中に、二階建ての家くらいはある大岩がそそり立っている。その背後が、まるで後光のように金色に光り、大岩のごつごつしたシルエットを黒々と際立たせているのだ。木々で囲まれた夜空が、その境目を無くすほど、金色の光は強かった。風も無く、あたりはシンとして、虫の声すら聞こえない。ただ、甘ったるいはちみつのようなしつこい香りが、蒸し暑い空間を満たしていた。
やがて、絹をこすり合わせたような微かな音が、大岩の後ろから聞こえてきた。
「来るよ! ハッカだ」
クルミが胸の前で、両手を握り合わせた。
それは、大岩の右手に現れ、周りの木立を金色に浮かび上がらせながら、ゆっくりと回ってきた。壮大な光の波だ。衣擦れの音は、シャラシャラとした高い金属音に変わり、太いうねりは、未来たちと大岩の前で、ゆっくり大きく螺旋を描く。
「なにこれ」
未来は鳥肌を立て、思わずつぶやいた。蛍の乱舞など、比べ物にならない。小さな羽を金色に輝かせた何千、いや、もしかしたら何万ものハッカの群れが光の塊となって、暗い森に、まるで一つの生き物のように長い尾をしならせて移動している。
「す…げえ」
美しいなんてものじゃない、怖いくらいだ。未来の心は感動を越え、感電したらこんな風だろうかと思うほど、ピリピリと全身にしびれが走った。
ハッカは十年もの間、岩の隙間で、この日を、今日のこの一日だけを、ずっと待っていた。命を次に繋げるために。
生き物とは、なんて哀れで純粋なんだろう。
未来は、黄金色に染められたミロクの顔を見上げた。
おまえもこの国を守る、そのことのために生まれてきたんだ。そして、おれはその手伝いをするためにだけに、生まれてきたのかもしれない。
未来はミロクの首に手のひらを当て、神々しいハッカの群れに目を戻した。
だったら、おまえのここに刃を当てる時、おれはお前の一部になるよ。おまえの魂とつながってやる。悲しむことは、おまえへの冒瀆だ。おまえの使命を全うさせるために、おれはここにいるんだから。
未来は横の二人に目をやった。
クルミは無邪気に顔を輝かせていたが、ロッキは目を潤ませているようだった。
「すごいなあ、クルミちゃん。すごいなあ…」
そう繰り返すロッキが、クルミとしっかり手をつないでいるのを見て、未来は心に暖かい水が流れ込むのを感じた。自分が引き込んでしまったロッキにとって、クルミは本当に感謝すべき存在だと、あらためて実感した。
「さあ、そろそろ帰ろうよ。クナミたちが、おれたちがいないのに気がついたら大変だ」
未来はそう言ってロッキの肩をたたいた。
「そ、そうだな。でもずっと見ていたいな。本当に素晴らしいよ。ありがとう、クルミちゃん」
ロッキはクルミと繋いだ手を持ち上げて、ぐっと力を込めた。クルミは満足そうに、火照った顔を未来に向けた。
「また来年、なんとしてもハッカを見つけて、また来よう! また四人で!」
そういったクルミは、ハッと顔をゆがめた。来年、ここにはミロクはいない。ロッキはクルミの手を放し、クルミの頭に置いた。
「そんな顔しちゃだめだよ。おれたちは来年だって四人だよ。心の中に、ミロクはずっといるんだからな。なあ、未来」
「ああ」
そう。悲しんではいけない。
「それにしても、カメラがあればなあ。記念撮影だって撮れるのになあ」
想像を遥かに超えたハッカの祭りに背を向けるとき、ロッキは口惜しそうに、そうつぶやいた。未来は、神社のバス停のごみ箱にすべり落ちたスマホを思い出した。たった五日前のことだとは信じられなかった。
時間の経つのも忘れ、金色祭りに見入っていたため、ランプの明かりが宮までもつかまでは、岩場を離れる時まで考えなかった。未来は慌てて確認したが、火は赤々として心配はなさそうだった。
「きれいだったな。本当に連れてきてくれてありがとうな、クルミちゃん」
ロッキは、何度もそう繰り返した。
ケルブの岩場を離れると、忘れていた蒸し暑さが襲いかかってきた。それでも、帰り道は緩い下り坂なので楽だった。放牧場の柵の向こうに、相変わらず馬たちの気配はない。
馬小屋が近づき、白い石畳の道が木立に透けて見えた時だった。一番後ろを歩く未来の後頭部に、ゾクリと悪寒が走った。心臓の鼓動が一気に早くなる。未来は全神経を集中させて、気配を探った。
(何かいる! おれたちをつけてくる…)
「マーリたちはもう帰ったのかな。ハッカの祭りを見逃すはずないもの。会えると思ったのに」
先頭を歩くクルミが、首をひねった。
「ふーん。まあ、みんなで見られたらよかったんだろうけど、おれは四人で見れたから、満足だな」
ロッキは呑気に答えている。
ゆるい風が、木の葉を鳴らしながら森の空気をかき混ぜる。その時、未来の鼻先が覚えのある臭いを捕らえた。一瞬で体が凍りついた。
(これ…。昨日嗅いだ臭い…あいつ!!)
そうだった。昨日の夜、ミロクの卵を襲って逃げたバケモノ。あいつの存在を忘れていた。マーリたちが来るわけない。夜の外出を禁止されているのだ。
未来は、もう目の前に迫る空っぽだった馬屋に目をやり、さらに背筋を緊張させた。馬たちは逃げていたのだ。
迫ってくる!
未来は、全身の毛を逆立てて叫んだ。
「クルミ、ロッキ、ミロク、走れ!」
「え?」
ミロクの前で、ロッキが驚いて振り返った。
「いいから走れ、逃げろ、あいつだ! ワクツだ!」
その名を聞くや否や、怯えて足を止めたクルミの手を取って、ロッキが斜面を駆け降りる。
ただでさえ、狭い木立の間を抜けるのだ。土や根に足を取られ、ミロクには、早く降りることなどできやしない。未来はミロクと並び、背中に手をやりながら後ろ向きに道を下る。暗闇の中、ワクツがもうすぐそこにいることに未来は気づいた。未来は足を止め、闇に向かい合った。
「ミロク、行け!」
後ろに叫んだが、ミロクが足を止め、こちらをうかがっているのがわかる。
くっそ! 仕方ない。ここであいつを止める。
未来は大きく息を吐くと、気を研ぎ澄ませながら、全身の筋肉を緩めた。シーリンは、すでに未来の体に刻まれていた。目の前数メートル先の暗闇に、小さな青い光が二つ浮かび上がる。その瞬間、身震いするほどの悪寒が走り、緩めたはずの筋肉が緊張した。汗がこめかみを伝い、耳の前を通って顎から滴り落ちる。
「来い!」
未来は下腹に力を込めた。風が止み、生臭さが最高潮に達したとき、闇の中からクエーッと声を上げ、黒い影が飛びかかってきた。長い手に肩を掴まれ、すぐ後ろの木の幹に、背中を強打した。ワクツの顔が間近に迫り、生暖かい息と腐った肉の匂いが未来の顔にかかる。闇に溶けた顔に、青い目玉だけが、自分の顔を捉えているのがわかった。
嫌悪感が首筋を駆け上がり、未来はその顔に、思い切り頭突きをした。ワクツはグウーと声を上げ、力を緩めた。その機を逃さず、未来は臭い脇の下をすり抜けて背後に回り、ワクツの脇腹あたりにけりを入れた。ビチっと湿った音がして、ワクツは多少よろけただけで、ゆっくりと未来に体を向けた。ワクツの臭い体液がつき、蹴った足が濡れている。脇をすり抜けた時触れた髪からも、嫌なネバネバが頭皮に到達するのがわかる。未来は吐きそうなほど身震いをした。
「未来ー! 大丈夫かー!」
下からロッキの声がする。
「いいから逃げろ! クルミを守れ!」
そう叫び、未来は大きく息を吐いて、ワクツとの間合いを図った。木立が邪魔をして、攻撃が難しい。未来の体は、再びシーリンを思い出していた。派手な動きをせず、森の中で風のように相手の急所を狙うには、シーリンほど長けた武術はない。
間合いに飛び込もうとしたその時、ワクツの顔が、ズイと横を向いた。その先には、暗闇の下で佇むミロクがいる。
(やばい! ミロク!)
ワクツは体を反転させて、長い腕を振り、飛ぶようにミロクに近づいた。未来はワクツの胴体に後ろからタックルした。ミロクの顔にあと少しのところで空振りした腕で、灌木の枝をボキボキと折りながら、ワクツは未来と共に地面に倒れこんだ。ミロクは身じろぎもせず、ひっそりとこちらをうかがっている。未来はタックルしたまま、ミロクに叫んだ。
「ミロク、逃げろ!」
ワクツは未来を引きずりながら、ズリズリと地面を這い、ミロクに近づいていく。ヌルヌルすべるワクツの体を必死で押さえ込みながら、未来は、体の芯が焦げるほどの憎しみを感じた。
そうだったのだ。標的はミロクだ。一昨日の夜も、ワクツは卵のミロクを狙っていたのだ。
殺す。今度こそブチ殺す。
未来はタックルを解き、ワクツの背中に素早くせり上がって、腕を首に回し、渾身の力を込めて引いた。グウッとワクツは喉を鳴らし、長い腕を背中の未来に回してきた。未来はワクツの動く方向に自分の体を移動させた。滑る体液も潤滑油となって、ワクツの長い腕をヌルヌルと逃れた。その間も、緩めることなく腕で首を絞め上げる。青い光が接触不良の電灯のように、ついたり消えたりする。未来はその青い眼が閉じ、この悪に満ちた汚い体から、永遠に力が抜ける瞬間を待って、更に力を込めた。
(死ね、バケモノ! 死ね! 死ね!)
時間の問題だ、そう思ったその時。雲が割れ、月の光が、地面にうごめく未来とワクツに木漏れ日のように降り注ぎ、ワクツの顔をチラチラと照らした。その瞬間、全身を巡る血管が冷水を浴びたように冷えて固まった。
自分が腕に挟んだワクツの顔は、苦痛に歪み、反吐が出るほど醜いものだった。そしてそれは、紛れもなく人間の顔だったのだ。
未来はワクツの体から飛び退き、自分の腕から解放されたワクツがもんどりうって苦しむ様を、茫然と見下ろしていた。心臓の音が耳の奥で鳴っている。
こいつは人なのか…? おれ、人を殺そうとしてるのか?
〈ワクツは人間のなれの果てだ〉
ミヤトの言葉が蘇る。ワクツは、ハクワの国の若者だったのだ。
立ち尽くした未来の前で、突然ワクツが起き上がった。グエッと声を上げると、未来に向かって飛び掛かってきた。未来は寸前で体を縮め、脇をすり抜けた。
違う。これは妖怪だ。ミロクを襲うバケモノだ。人じゃない。でも…。
戸惑いは大きなスキを作った。未来は木の根に足を取られ、体勢を崩した。そこにワクツが覆いかぶさり、未来はワクツの体の下敷きになってしまった。ワクツの開けた口から、臭い汁が未来の顔に垂れる。自分の首筋を噛もうとしているのだとわかり、未来はもがいた。だがワクツの体は重く、しかも、ぬるぬる滑り未来を優位にしていたワクツの体液が、下敷きになった今は、服に滲み込んで摩擦を生み、未来の動きを完全に封じてしまった。
少しでも噛まれたら死ぬ。首が伸びて、足が三つに割れて死ぬ。ワクツの大口が迫る。
「くっそうー!」
少しでもひるんだ自分を後悔し、あらん限りの声で叫んだ時だった。大きな手のひらがワクツの顎に伸び、未来から醜い顔を引き離し、もう一つの手がワクツの頭を掴む。次の瞬間、ボキッと鈍い音が未来の耳に響いた。ワクツの顔が斜めに曲がり、腕を掴まれていたワクツの手から力が抜けて、だらりと地面に落ちた。
未来には、何が起こったのかわからなかった。ワクツの体がズルリと胸の上から滑り落ち、誰かの顔が自分を覗き込んでいた。
「大丈夫か? 未来」
それはクナミの声だった。
「クルミの様子をのぞいたら、いないんだ。厠にもいない」
キノイが腰に手を当てて、三人を見回した。クルミはクナミにしがみついたまま、離れようとしない。ロッキも口をへの字にして、下を向いていた。
雲はまだ割れたままで、そこから月がほんの少しのぞいている。あたりはほの明るかった。
石畳の道に降りた未来は、力が抜けて座り込んでいた。ミロクは未来の横にぴったりと寄り添い、涼し気な様子で南風に顔を向けていた。
「未来たちのところかと思ったが、もぬけの殻だった。慌てたよ。どこに消えたのかと思った。で、思い出したんだ。クルミが昼間マーリに言っていたことを。ハッカを見たってね」
「見せたかったんだ。未来やロッキに。ハッカの祭りを。だって、知らなかった、ワクツがクウラウの中にいたなんて。知らなかったんだ」
クルミが泣きながら訴えた。震えるクルミの背を撫ぜながら、クナミが言った。
「クルミ、おまえに言わなかった私が悪かった。入り込んだのはたった一匹だ。どうせすぐに捕まるだろうと、無駄に怖がらせることもないだろうと思ったのだ。ロッキ、未来、怖い思いをさせたな。危険な目にあわせてしまった。すまなかった」
「いえ、夜遅く家を抜け出したおれたちも悪いんです。とうちゃんだったら、おれきっと、ぶん殴られると思います」
そう答えたロッキは肩を落とし、未来を眺めた。
「未来はほんと、危なかったな。クナミさんたちが来てくれなかったら…」
ロッキは手で口を押さえた。下を向き、しかめた顔に涙が流れた。
森の中からコムトとカラトが大股で出てきた。カラトは腰を後ろにそらせて目をつぶり、唸りながら息を吐いた。
「ヤツは、しっかり日の当たる場所にさらしてやった。日が昇れば粉となり、この世から消えてなくなるだろうよ」
カラトはそう言うと、すぐ横で地べたに座りこんでいる未来を数秒見下ろした。
皮肉のひとつも言われるだろうと未来は半ば観念していたが、カラトはそのまま闇に消えていった。
「よくメノウを守ってくれたな。未来。礼を言う」
コムトは、未来の肩に手を置き微笑んだ。未来はうなだれて、首を振った。
守れなかった。クナミが来てくれなければ、ミロクもやられていた。
それだけじゃない。生暖かい夜風に吹かれながらも、体の芯が冷え、未来は寒気が止まらなかった。クナミに折られたワクツの首の骨の鈍い音が、耳の奥から離れない。ワクツは妖怪なんかじゃない。首を折られて死ぬのだから、動物であり、やはりもともとは、人だったのだ。
未来は両手を握り合わせ、歯を食いしばって、体の底から突き上げてくる震えを封じ込めようとした。
おれはやっぱり甘い。
数日前、高那中学の近くの空き地で暴れまわった自分は、なんと幼稚だったのだろう。ワクツの顔にとらわれて、死ぬところだった。自分がやられたら、ミロクも殺されていた。ここは真に命がけの国だったのだ。
「帰って体を流しなさい。それからキノイにマコ茶を作ってもらうといい。体の芯がほぐれて楽になるだろう」
クナミに促され、未来は立ち上がった。
「クナミ、ありがとう、おれ…」
下を向いた未来に、クナミは太い腕を伸ばし、ワクツの体液でベトベトの肩を抱いた。クナミの胸の温かさに心が緩む。
未来は、泣きそうになる自分を必死に抑えた。
重ねた指
夜が明けた。境内はジュラの大木が枝を広げ、いまだ薄闇に沈んではいたが、鳥居の下に広がるハクワの町は、ぼんやりとした朝の光に照らされていた。厚い雲が天空を覆っていた。重い鐘の音が響きわたる。コスガがつく一日の始まり、ひとつ時の鐘の音だ。
未来は目を開けていた。薄暗い部屋の床を漂うように、鐘の音の余韻が残る。すだれの向こうに、うっすらと光が透けて見えている。未来の横には、ロッキが頭を布団から落とし、大の字になって寝息を立てている。未来が上体を起こしたので、ミロクが背中から顔を上げた。
「おはよう、ミロク」
頬に手をやり、ふっくらとした毛をなぜてやると、ミロクは気持ちよさそうに目を細め、もっとしてくれとばかりに、グイグイ押し返してくる。未来はミロクの首筋に自分の顔をうずめて、温かい頭と首を抱きしめた。
(よかった…。生きている。自分もミロクも)
寝る前にキノイが入れてくれたマコ茶は、薄甘く美味しかった。驚くことに、飲んで数分経った頃、体の隅々がシュワシュワと泡立つようにほぐれ始め、首や背中が軽くなった。おかげで、この部屋に戻るとすぐに、眠気が襲い、未来はぐっすりと眠ることができたのだった。
鳥のさえずりが、すだれの向こうから聞こえ、梢を揺らして飛び立つ羽音がした。未来は布団から出て、引き戸にそっと手をかけた。戸は音もなくスッと開いた。
部屋に囲まれた廊下は薄暗かったが、ずっと先から光がさしている。
「おまえは、ここにいな」とミロクにささやいて、ロッキがまだ夢の中にいることを確認すると、未来は廊下に出て、静かに戸を閉めた。
明るい方に進んでいくと、境内に面した、昨日何度も歩いた外廊下に出た。もう太陽は上っているのだろうが、濃い霧に覆われて、東宮の屋根の向こうに迫る森は、上の方が空に溶けて見えた。
まだみんな眠っているのか、人の気配は何もない。もっとも広すぎて、昨日だってどこに誰がいるのか、さっぱり感じられなかった。
広い廊下の真ん中で、未来は軽くストレッチをした。背中に痛みがあるのは、ワクツに飛び掛かられた時、木の幹にぶつけたからだろう。だが大した痛みじゃない。
未来は腰を低く構え、足を開いて鼻から息を吸った。コユルギの香りが、湿気を伴い鼻をかすめる。未来はこぶしをおろし、下腹に吸い込んだ息を、鼻の奥をうならせながらゆっくりと吐いた。気が体の隅々に行き渡る。新鮮な空気が細胞を満たし、力が湧いてくる。
静かな境内に、未来のたてる歯切れのいい衣擦れの音が響いた。未来は好きでなくとも体が覚えている空手の型を一通り演じながら、情けない昨夜の自分と戦った。
廊下を進み、昨日マスランエが開かれた光葉の間を過ぎると、目の前に本殿の入り口に続く渡り廊下が見えた。未来は吸い寄せられるように、本殿の扉の前に立った。引き戸を開け中に入る。甘い花の香りが、薄暗い本殿の中を満たしていた。昨日ノニが活けた花だ。大きく息を吸い込んだ途端、まるで柔らかな羽でくすぐられたように、胸がサワサワと疼いた。
本殿の奥の引き戸に手をかけた。ここからハスワスリの宮の北側に行けるはずだ。心を揺さぶる何かが未来の背中を押していく。
引き戸はまたも音もなく開いた。薄暗い小部屋の向こうに障子のような扉があって、ぼんやりと朝の光を通している。
軽やかな野鳥の声が響き渡る中、水音がして人の気配があった。
ノニだろうか。
そう思った瞬間、心臓がフルスピードで胸をたたき、未来は扉にかけた手をぴたりと止めた。
そう。さっきから自分は、なぜだかノニに会える気がしていた。それとも会いたかったのかもしれない。予感と期待が折り重なった淡雪のような思いが、未来をここまで連れてきたのだ。
(何て言えばいいんだろう。おはよう…とか?)
壁に張り付いて、息を整えているうちに、最初は鳥の鳴き声かと思っていた音が、それはハミングする人の声だと未来は気がついた。澄んだ高音で、若い女の声のように聞こえる。ハミングの間に、何か歌詞を挟んでいるのだろう。その部分の抑揚が、鳥のさえずりのように響くのだ。
いっぺんに気が抜けた。ノニではなかった。ノニは声が出ないのだ。未来は眉間にしわを寄せて様子をうかがった
誰だろう。こんな朝早く。クルミだろうか。ノニ以外にも、他に女の子がいるのだろうか。それともまさか、サキだろうか。あのばあさまがこんなかわいい声を出すなんて想像したくはないが、なにしろここはハクワの国だ。何が起こるかわからない。
ためらわずに、そのまま扉を開けて出ていけばよかったのだが、いったん足を止めてしまうと、自分が禁じられた領域に忍びこんできたような、妙な後ろめたさに襲われた。
少しして、ハミングと一緒に気配が消えた。片手でほんの少し扉を開けてみた。光と一緒に風が滑りこみ、青臭い森の匂いを運んでくる。細長い視界から見えたのは、白い石で覆われた井戸らしき構造物と、その向こうに広がる森の緑だった。
誰の気配もしない。未来は思いきって、ドアの隙間から外に出た。
そこは広い屋根が覆う下屋で、深い森が迫る清々とした空間だった。右手には、太い木で組まれた高い床と白い壁が続く、風変わりな建物がある。森とその建物の間には小道があり、山の上へと続いているようだった。
澄んだ空気を切り裂いて、鋭い鳥の声があたりに響き渡る。敷き詰めた石の冷たさが心地いい。
未来はそっと井戸に近づいた。井戸には半分だけ板の蓋がかぶせてあり、その上に、濡れた釣瓶がおいてある。井戸周りも濡れている。さっきの水音は、井戸の水を汲んでいた音らしい。
(誰だったんだろう)
足裏にヒタヒタと水を感じながら井戸に近づき、未来は蓋の隙間から中を覗き込んだ。内側には、長方形に整えられた石がきっちりとはめ込まれていて、底はかなり深く、闇に閉ざされて見えなかった。
湿気た水の匂いが鼻をつく。未来はその陰鬱な気配に、ノーバの毒に侵された青い水を汲んで、しぶきで皮膚を焼かれた親子の話を思い出した。ゾワリと全身に鳥肌が立った。
未来は、ケイナの白い顔を思い浮かべた。なんて悲惨な過去だろうか。母親や妹があんな目にあわされているのに、結界の穴をふさぐだけで、あの人は本当にいいのだろうか。
ケイナだけではない。毒の粥を孫に与えたウルの祖母も哀れだったし、モブカの話や、キノイの胸が詰まるような切ない声までも耳の奥によみがえり、井戸の底に引き込まれそうなほど、未来は気持ちが落ち込んでいった。ハクワの国のすべての人が、誰かしらをノーバに殺されているのだ。
ノーバを外の世界に出さないことが、自分たちのできる唯一の復讐なのだと皆が言っていた。そしてそのために、命を差し出すことがミロクのさだめなのだ。
昨夜、ハッカの金色に輝くさまを見て、未来は誓った。ミロクの生まれた意味を尊重し、自分も粛々とその役目を果たそうと。
だけど…。未来は垂れていた首をゆっくりと持ち上げた。
(結局、あいつもノーバに殺されるってことだ…)
そして、自分がその一端を担うのだ。
「くっそ!」
未来は石の床を踵で蹴った。腹の底から怒りが込み上げる。ノーバが憎いと思った。自分に力がないことが、心底悔しかった。そしてその悔しさは、トシュラの人々や、もしかしたら、すべてのハクワの人々の思いかもしれないと思い当たった瞬間、全身が一気に熱を帯びた。話し合いの場で「みんな戦いたいんだ」とミヤトは叫んだ。カエラも言っていた。「未来はそのために、この国に来たんだ」と。
そうなのだ。要するに、ハクワの人たちが待ちわびたアスラオは、実際はノーバに対抗できる有能なやつじゃなかったのだ。こんな自分だったからこそ、結界の穴しかふさぐことができなかった。みんな、どんなにか落胆したことだろう。カラトの厳しいまなざしには、ちゃんと理由があったのだ。
未来は力なくその場にしゃがみこみ、背中を丸めて、肺の奥から大きく息をはいた。
突然、カタリと後ろで音がした。未来は獣のように飛び上がり、身をひるがえして、気配のする方に身構えた。次の瞬間、心臓が口から飛び出そうなくらい驚いて、未来は上段の構えのまま、石像のように固まった。
目の前にいたのはノニだった。
ノニは立ちすくみ、蛇ににらまれたカエルのように、じっと動かずに未来を見ていた。生成りのワンピースを着て、ボタンのような白い大きな花を、腕いっぱいに抱えている。
背後の森に悲鳴のような鳥の声が貫き、未来はハッとして構えを解いた。汗が堰を切ったように、だらだらと体を流れる。
なんてばつが悪い。せっかく会えたのに、怯えさせてしまった。
何か言わなければと思うのだが、浮かばない。結局気持ちに反して、未来はぶっきらぼうにノニに声をかけた。
「なんか、ぶらぶらしてたらこんなとこまで来ちゃってさ。驚かせたんなら謝るよ」
さりげなさを装うはずが、顔にどんどん血が上っていくのがわかる。
(やばい! 顔赤くなる!)
未来は焦りまくり、なんとか気持ちを鎮めようと、必死に言葉を探した。
「あの、おれ、外の世界で空手っていうのやっててさ、体が反応しちゃうんだ。なんか、ほかのこと考えてて、その、後ろに来てるのがわからなかったからさ。このまえはシーリンも教えてもらったし…。あ…ノニ…もシーリンを習ってるんだっけ?」
(ヤバイ。カッコ悪すぎ…)
もはや観念して、この場をやり過ごすしかない。
ノニはきれいに弧を描く眉を上げて、切れ長の二重の目をさらに見開きながら、首を横に振った。それから一拍おいて、ホッとしたように微笑んだ。抱えた大輪の花がふんわりと膨らむような気がして、未来はおもわず瞬きをした。
昨日、薄暗い本殿の中で会った時は、白く儚い感じがしたが、朝の光の下で、ノニの肌は、とても健康的で輝いて見える。
口がきけないなんて信じられないほど元気な顔をして、ノニは未来にずんと近づいた。そして抱えた花を未来に押しつけるように渡し、下屋の壁に取りつけられた棚から、大きめの壺を取り出した。あっけにとられて見守る未来の横をすりぬけて、ノニは井戸の前に立ち、壺を床に置く。どうやら水を汲んで、花を生けるつもりなのだ。ノニが釣瓶を井戸の中に落とすと、上につるされた滑車が、カラカラと軽快な音を立てて勢いよく回り、やがて、微かに水音が聞こえた。思った通り、相当深い井戸らしい。
ノニは滑車から垂れる紐を手にとり、体重をかけて引っ張った。ぎしぎしと滑車は音を立てて、井戸水に満たされた重い釣瓶を引き上げる。たくし上げられた袖口からのぞくノニの二の腕は、細いわりに意外と筋肉質でいい形をしている。頬をピンクに染めて、一生懸命に紐を引っ張るノニの横顔を、渡された白い花を抱きしめながら、未来は馬鹿みたいに突っ立って見つめていた。
釣瓶が、井戸の口からのぞくかどうかの時だった。ノニの手から紐が滑り、滑車がガラガラと音を立てた。あわててノニは紐を握りなおしたが、たっぷり水をくみ上げた釣瓶の重さに引きずられ、井戸の中に半身を落とした。
未来はとっさにノニに飛びつき、腰を支え、片手で紐をつかんだ。すぐに釣瓶は井戸の中ほどで止まった。未来は、握っていたひもをノニが離し、井戸のふちに両手をかけたのを見て、ノニの体に回した腕をそっとはずした。
ノニは井戸の内側から上半身を慎重に起こして、濡れた床の上にへたり込んだ。黒髪が乱れて、ノニの頬に絡みついていた。
「大丈夫か?」
紐をつかんだまま、未来は訊いた。ノニはあわてて座りなおし、両手を合わせて深々とお辞儀をした。ノニも相当怖かったのだろう、肩で息をしながら、緊張した面持ちで未来を見つめている。
「いや、いいよ。それよりそんなとこで座ったら、濡れちゃうじゃん。立ちなよ」
未来がノニに手を貸そうと、うっかり紐を離した途端、滑車が音を立てて回り、釣瓶はさっきより派手な水音を立てて、井戸の底に落下した。未来とノニは顔を見合わせた。未来は思わず苦笑した。ノニも、声こそは出さなかったが、楽しそうに目を細めて笑う。
心が一気に弾んだ。
「おれが汲んでやるよ」
未来は紐に手をかけて、両手でグイッと引っ張った。
「結構重いじゃん。よく持ち上げられるな。こういう井戸って危ないよなぁ。今まで誰か落ちたことあったんじゃないの?」
未来は紐を引っ張りながら、ノニを振り返った。ノニは、未来が床に放り出した花を拾い集めながら、ニコニコ笑っている。
未来はあらためて、ノニが口をきけないことに戸惑った。質問しても、ノニの答えをどうやって探ればいいのだろう。そもそもノニは、いつもどうやって人と付き合っているのだろう。もしかしたら筆談かもしれない。だが、今ここには書く物もなければ、だいたい自分たちが、文字を共有できるかもわからない。
未来が満タンの釣瓶を引き上げると、ノニは嬉しそうににっこり笑った。釣瓶を受け取り、壺の中に水を少し分け、そばにあった桶に残りの水を移して、中に花を入れた。しゃがみこみ、一本ずつ水の中で茎をちぎっては、それを壺に差していく。未来は遠慮がちに隣に座り、その手元を見ていた。
ツンと甘い花の香りが漂う中、ノニの手先は魔法のように、花の太い茎を切っていく。まるで触るだけで切れているような、優しい扱いだ。胸元に垂れてくる長い黒髪を、肩の後ろに回しながら、下を向いて熱心に作業するノニを見つめ、未来は、さっき落ちそうになったノニの腰に、とっさに手をまわしたことを思い出した。
胸がギュッと締め付けられ、未来は森に目をやって、道場訓第四を脳みそから引っ張り出そうとした。と、突然目の前に白い花が迫り、フルフルと震えて、未来の顔に水しぶきを飛ばした。
うわっとのけぞった未来に、濡れた白い花を一輪持ったノニが、いたずらっ子のように笑いかけた。未来が体勢を立て直すと、ノニは未来の手を取り、桶の水の中に引き入れた。
汲みたての冷たい井戸水の中で、上から重ねるノニの手のひらも、ひんやり冷たい。それなのに未来の顔は、内側からやけどしそうなくらい熱くなった。
ノニは未来の手を花の茎に誘い、自分の指を未来の指に重ねて、そっと押した。すると、未来の指の下で茎はフワッと溶けるように切れた。不思議な感覚に、驚いて桶から顔を上げると、ノニの顔が目の前に迫る。未来は慌ててまた下を向いた。
心臓が胸を蹴破りそうなくらいドキドキする。
すると、今度は未来の火照った頬を、ひんやり冷たい感触が包んだ。ノニの冷えた手のひらだった。ノニは挟んだ未来の顔を自分の正面に戻し、微笑んでそっと手を外した。
脳みそが溶けてなくなりそうだった。すべての思考が停止して、未来はまるで映画を見るように、ノニの振る舞いを眺めていた。
ノニは壺にすべての花を差し終わると、立ち上がって、桶に残る水を下屋の外の草むらにまいた。黒髪を揺らして未来に手を合わせ、深々とお辞儀をする。それから井戸のふたを閉め、釣瓶をその上に伏せて、花で溢れんばかりの壺を抱え上げた。
頬を濡らしたまま棒立ちになっている未来に、ノニはもう一度お辞儀をして、鼻緒のついた履物に足を入れ下屋を出ると、右手の建物と森の間の小道を歩き出した。
未来はひっついていた喉から、ようやくの思いで声を振り絞った。
「また会えるかな」
ノニは振り返り、ただ微笑んだだけだった。それからくるりと前を向き、緑が滴る道に消えていった。
あっけなく残された未来だったが、ノニの笑顔は、胸に抱えた花の何億倍もきれいだと思った。
熱い胸が疼く場所に、未来は何度も息を通す。
森の奥でセミが鳴き始めた。六日目の朝が動き始めていた。
第十二話に続く
ハクワに雨が降る。雨はラス山に登ったミヤトたちの足も止めた。
雨が止んだ真夜中、月の光の下でルマイが流す涙のわけは・・・。
全二十八話
