日本の原風景が消える。祖先が残した「棚田」は守れるのか?
山間部の急傾斜地を開拓し、階段状の水田にした「棚田」。日本の原風景ともされる農業遺産が今、消滅の危機に直面している。
棚田は水を貯えることで水害防止にも役立っているが、狭い田んぼは農業機械が入れない。中山間地の過疎化が深刻化する中、農家の高齢化と人手不足で手入れが困難になっているのだ。
高知県中部の津野町には、田んぼオーナー制度の導入などで農地の保全を目指す「貝ノ川棚田」がある。梅雨の晴れ間に現地を訪れ、先祖が守り続けた棚田の現状を確かめた。


江戸時代に開墾された貝ノ川棚田は、新荘川の支流沿いに広がっている。
急峻な山々に囲まれた津野町では、支流の呼び名が集落の名称になった。この棚田も「貝ノ川」という支流から命名されている。
新荘川左岸を通る国道197号を北上し、支流に沿ったわき道を右折する。曲がりくねった道は、東方向にそびえる山に向かって登っていく。10分ほど走ると、石積みの棚田が見えてきた。
資料によると、貝の川棚田は江戸時代末期に生まれた。標高は100~180㍍。耕作面積は4㌶に及び、全体で約230枚の田んぼがあるという。


棚田は昔、鬱蒼とした森だった。貝ノ川の人々は生活の糧を得るため、山に挑んだ。木を切り倒し、根を掘り起こす。地中に埋まった石を掘り出し、田んぼを支える石垣とした。気が遠くなるような重労働の末に、狭い田んぼが1枚、また1枚と増えていった。
降水量が多い高知の山々は、さまざまな植物が繁茂している。私は愛知、岐阜、長野、滋賀の4県で狩猟を手がけてきたが、高知の山は緑の密度がけた違いに高い。まるでジャングルのような場所が多く、見通しが効かないのだ。重機もチェンソーもなかった時代、これだけの開墾をするのは並大抵の苦労ではなかっただろう。



集落の一番高い場所に設けられたビュースポットに立つと、貝ノ川棚田の全体像を把握できる。
田んぼはどれも細長く、石垣がくねくねと曲がっている。何かに似ていると思ったら、棚田の連なりが見事な等高線を描いているのだ。テラス状の田んぼは、山の斜面に整然と積み重ねたように見える。上から下まで20段もあるそうだ。
棚田のほとんどは田植えを終え、青々とした苗が行儀よく並んでいる。山奥から流れてきた水は、細い用水路を通って田んぼを潤す。やがて秋になると、棚田は黄金色に染まって収穫の時期を迎える。



集落内を歩いていたら、とても小さな田んぼが目についた。面積は畳2枚ほどしかない。形はいびつで、棚田の隅に無理やりくっつけたかのようだ。
貝ノ川の祖先は、こんなに狭い土地でも無駄にしなかった。一粒でも多くのコメを育てようとした執念が感じられる。
山奥に入る狩猟を続けていると、あちこちで棚田を見る。岐阜県郡上市白鳥町には、日本の棚田100選に名を連ねる「正ヶ洞棚田」があった。
標高650㍍、耕作面積3.6㌶。人里から遠く離れた棚田は、戦国から江戸時代にかけて開かれた。一説には年貢を逃れる「隠し田」だったともされ、独特の景観を求めて外国人観光客も訪れていた。
長野県の南信濃地域には、棚田にまつわる民話が残っている。ある農民が自分の田んぼを数えたら、なぜか1枚足らない。立ってみて気づいた。1枚は自分の尻の下に隠れていた…。


眺める分には美しい棚田も、実際に稲を育てるとなったら一筋縄ではいかない。高低差のある狭い田んぼは、トラクターや田植え機、コンバインといった農業機械の進入を阻む。効率が悪いものの、結局は昔ながらの手作業に頼るしかないのだ。
しかし、農村はどこも過疎が進み、農業の担い手は減るばかり。貝ノ川棚田でも、持ち主の大半が60代以上の高齢者が占められる。狭い棚田の収穫量は限られている。稲作にかかる労力と費用を考えると、棚田の維持はあまりにも負担が大きい。後継者が見つからなければ、10年後に棚田が残っているという保証はない。
貝ノ川集落には、放置された空き家が目立つ。稲作をやめた棚田はあっという間に雑草で覆われ、自然に戻っていく。
同じような光景は、全国で見られる。人の手が離れた瞬間、田んぼは山に飲み込まれてしまう。私は各地で棚田を取材したが、どこも貝ノ川と同じ課題を抱えていた。
棚田に歴史的な価値があるとしても、持ち主に公的な援助はない。今、棚田で働く人たちを支えるのは、祖先が与えてくれた田んぼを維持しようという使命感だけと言ってもいい。

私は自宅近くにある約1200平方㍍の田んぼを受け継いだが、1度も稲作をしたことがない。現在は地元の人に貸して、稲作を任せている。
収穫が見込まれるコメの価格と費用を秤にかけたら、全く割に合わないと分かったためだ。苗や肥料、農薬などは年々値上がりし、農業機械を借りようとすれば相当な費用がかかる。早い話、スーパーでコメを買った方がよほど経済的なのだ。
私の田んぼは平地にあり、きちんとした圃場整備もされている。それでも、稲作しようとすれば赤字を覚悟しなければならない。これが不便な棚田なら、状況はさらに厳しくなる。
山にはイノシシやシカがいる。棚田を囲む鉄柵は、獣害が絶えないことを示している。


貝ノ川地区では、棚田を保全するために保存会が結成されている。会は「棚田オーナー制度」を取り入れ、希望者に稲作を体験してもらう活動を展開している。
オーナーは1区画(100平方㍍)あたり2万5000円を支払い、田起こしから稲刈りまでの一連の作業に取り組む。収穫量に関わらず、オーナーにはコメ30㌔が配られる。棚田の存在を知ってもらうとともに、外部の人たちの手を借りることで、棚田を存続させる試みだ。
毎年10日に開かれる「棚田キャンドルまつり」は、貝ノ川地区最大のイベントとして人気を呼んでいる。棚田を照らし出す光は、多くの人たちを魅了する。城塞を思わせる石積みの集落が、自然と調和して生きてきた日本人の暮らしを伝えているのだ。


集落の入り口には、幕末の志士坂本龍馬と妻お龍(おりょう)の木像が並ぶ休憩所が設けられている。
龍馬は脱藩のため、津野町の山中を通る道を歩いて愛媛に出た。
看板には「わしもおりょうと来たぜよ。貝の川はえい所じゃのう」とある。高知が生んだ志士も、この棚田を見たのだろうか。
もうひとつの看板には「永遠なれや棚田の里の貝の川」と書かれていた。
この言葉通りに、棚田が存続していくことを祈りたい。
田んぼが山に戻ったら、復活させることは不可能に近い。衰退した中山間部の農村に、再び自然と戦う力は残されていないのだ。
もしも棚田が消え去ってしまえば、集落の人たちは自らの拠り所を失うことになる。
貴重な遺産を守るため、何ができるのか。国や地方自治体も含め、本気で考えるべき時が来ている。
