「トランサーフィン」に思うこと その1
「トランサーフィン」という概念がある。
参考まで、Geminiによる回答は以下のとおり。
トランサーフィン(Transurfing)とは、ロシアの量子物理学者ヴァジム・ゼランド(Vadim Zeland)が提唱した、現実選択の哲学・自己啓発理論です。 一言で言えば、「人生は膨大な選択肢がある『可能性のバリエーション』の中から、自分の意図する現実を選び取っていくプロセスである」という考え方です。
主な特徴的な概念をいくつか紹介します。
1.バリエーションの空間(The Space of Variations)
世界には過去・現在・未来にわたるあらゆる可能性が「情報」としてあらかじめ存在しており、それを「バリエーションの空間」と呼びます。私たちはこの空間を「移動」しているだけであり、新しい現実を「作る」のではなく、「望む現実を選択する」というスタンスを取ります。
2.振り子(Pendulums)
人々が同じ方向に思考やエネルギーを向けると、「振り子」と呼ばれるエネルギー的構造体が生まれます(例:政党、宗教、流行、会社など)。
振り子は人々のエネルギーを吸い取って維持されるため、個人の自由を制限しようとします。
これに対抗するのではなく、「無視する」か「受け流す」ことで、自分の人生の主導権を守ります。
3.過剰ポテンシャルと平衡力
ある物事に対して「どうしても成功させたい!」「失敗したら終わりだ」と強く執着(重要視)しすぎると、そこに「過剰ポテンシャル」が生じます。 宇宙にはバランスを保とうとする「平衡力」が働くため、その強い執着を打ち消すような(望まない)結果が引き起こされやすくなります。
対策: 「重要性」を下げ、淡々と行動することが推奨されます。
4.内部意図と外部意図
内部意図: 自分の力で目標を達成しようとする意志(努力や根性)。
外部意図: バリエーションの空間から、望む現実が向こうからやってくるように仕向ける力。トランサーフィンでは、この「外部意図」をいかに使いこなすかが鍵となります。
まとめ
トランサーフィンは、スピリチュアルな「引き寄せの法則」に似ていますが、より物理学的・構造的なアプローチをとっているのが特徴です。
「必死に頑張って世界を変える」のではなく、「重要性を手放し、リラックスした状態で、自分の望むラインへ滑り込む(サーフィンする)」という、ユニークな人生の渡り方を提案しています。
僕はもともと引き寄せ系の話には関心が向かないので、トランサーフィンも引き寄せの一種だろうと思い、調べることはなかったのだが、あるときたまたまトランサーフィン提唱者のヴァジム・ゼランドさんの言葉に触れる機会があり、何気に読んでみたところ、僕が感じている現象の構造と捉え方が似ていると感じ、少し興味が湧いて調べてみた次第。
僕が引き寄せ系メソッドの話に関心が向かない理由は2つあって、1つは若いころに引き寄せを散々試して心も現象も壊れてしまったことがあることと、もう1つは「自分の望む状態」を引き寄せようとすること自体が「ある方向性、状態に未来を固定してしまう」ことになるので不自由さを感じるから。
過去に引き寄せをやって心も現象も壊れてしまったというのは、まさにトランサーフィンで言うところの過剰ポテンシャル状態になり、それを打ち消す平衡力がはたらき、壊れてしまったということであり、これは自身の経験からも実感できるところである。現象にはそのような作用があると。
それと「バリエーションの空間(バリアント空間とも言う)」という概念もなんとなくではあるが僕自身が感じている「非現象次元」というエネルギーと知性が潜在するフィールドと少し重なるところがある。
重ならないところは、僕の認識では「非現象次元」には形になっていない無限のエネルギーと知性が潜在している、という感じなのだが、トランサーフィンでいうバリエーションの空間は、現象次元の領域をさしていて、すでに無限のバリエーションとして在る現象の中から、僕らの周波数と同調したラインを世界として体験しているというところか。
なので、トランサーフィンでは、僕らの周波数を整えれば、その周波数にみあった世界のラインと同期しその世界を体験するということのよう。
この捉え方だと、そこでいう「僕」とは何なのか?と疑問が湧いた。この身心のことを指すのかなとは思うが。そうだとすると僕が感じてる現象構造とは原理的に違っているのかなと。
僕の場合は、僕の本質は身心ではなくて「非現象次元(源泉)」そのものであり、それは僕だけでなく、他者もモノもありとあらゆる現象の本質はそれであり、様々な存在という交差を通じていまここで現象を生成し創造し体験しているという感じなので、すでに存在している無数の現象ラインの中の1つに身心が同調し、その世界を体験しているという構造に、ちょっと違和感がある。
それと「振り子」という捉え方も少し違和感がある。
人々が同じ方向に思考やエネルギーを向けると、「振り子」と呼ばれるエネルギー的構造体が生まれます(例:政党、宗教、流行、会社など)。
これは確かにあると思う。エネルギー的な構造体という表現はちょっとものものしいかな。同じ考えや価値観の人々が集まると大きなエネルギー場ができて「勢い」「流れ」ができるのは確かにそうだと思う。
振り子は人々のエネルギーを吸い取って維持されるため、個人の自由を制限しようとします。
これに対抗するのではなく、「無視する」か「受け流す」ことで、自分の人生の主導権を守ります。
ここかなー、違和感があるのは。「振り子」と「個人」がなぜか対立構造として捉えられているところ。まるで「振り子」が個人の人生を阻む悪のようにとらえられているところ。
ここでいう「振り子」という現象は、良い悪いではなく、現象のハタラキ・自然法則として生じるもので、個人の自由を制限するという側面だけでみるのはちょっと違うのかなと思う。
たしかにこの振り子(勢い)に過剰に巻き込まれてしまうと、それこそ過剰ポテンシャルとなって平衡力がはたらいて望まない結果が生じるだろうけれども、「振り子」があることでエネルギーが集中し、新たな現象が生まれるという側面もあると感じるし、振り子というのは現象創造の原理ともいえると思う。僕の中では有難い聖なるハタラキという位置づけかな。
例えば、現象にも物理的なものと心理的なものがあるけれども、心象においても振り子というのは作用していて、例えば、なぜだかわからないけれども、とても動物に興味が湧いて、動物と関わりたいという振り子が大きくなり、結果、動物園の飼育の仕事に就くということが物理現象化する、というのもその振り子の原理かなと。僕のことではないけれども。
むしろ「振り子」という作用に対して、過度に心が同一化することがスムーズな流れを阻むということかなと。
まあでも過度に心が同一化することで、望まない現象が起こることを体験することも貴重だし、むしろその体験から現象の原理を学べるわけで、やっぱり有難いハタラキだと感ずる。
それと「外部意図」というものがよくわからないので、さらにGeminiに質問したところ以下のような回答。
外部意図の本質
外部意図とは、自分の外側にある「世界」や「運命」を動かす力のことです。ヴァジム・ゼランドは、「内部意図は対象に直接働きかけようとするが、外部意図は対象が実現するプロセスそのものを選び取る」と説明しています。
どうすれば「外部意図」が働くのか?
外部意図を使いこなすには、単に「願う」だけでは不十分です。以下の3つのステップが重要とされています。
「重要性」を下げる
「どうしても叶えたい!」という執着は「内部意図」の現れであり、過剰ポテンシャルを生んで外部意図をブロックします。「叶っても叶わなくても、どちらでもいい」というくらいリラックスした状態が必要です。
「決意」を持つ
「願望(〜したい)」ではなく、「選択(〜すると決めている)」という感覚です。例えば、売店で新聞を買うとき、あなたは「新聞が買えるだろうか…」と不安になりませんよね?「買う」と決めて手を伸ばす。その「当然手に入る」という確信が外部意図を動かします。
スライド(視覚化)を利用する
自分が望む状況がすでに実現している場面を、頭の中で映画のように上映し続けます。これにより、自分の周波数が「バリエーションの空間」にある目的のラインと同調し、外部意図がその現実を引き寄せ始めます。
わかりやすい比喩
内部意図: 暗闇の中で、一生懸命自分の手足を使って出口を探し回ること。
外部意図: 出口まで続く「道」が向こうから足元に滑り込んでくるのを、ただ見守りながら歩くこと。
自分自身の力を信じるのではなく、「宇宙(バリエーションの空間)にはすでにその現実が用意されており、自分にはそれを受け取る権利がある」と完全に認めたときに発動する力が、外部意図です。
「内部意図は対象に直接働きかけようとするが、外部意図は対象が実現するプロセスそのものを選び取る」ことのようで、望む状態の実現に向けて、自力で1つ1つ進んでいくプロセスではなく、望む状態が自動で実現するように身心の状態を整えることのよう。
どのように整えるかは、重要度を下げてリラックスすること、望む状態を選択すること、望む状態を視覚化しイメージし続けるということのよう。Geminiの回答があっていればだが。
直感的に、面倒だなと感じた。
ただ部分的にとても共感できるところはあって「重要度を下げてリラックスすること」は、豊かに生きる上でとても大事なことだなと感じる。
身心をゆるめて柔軟性や流動性を高めるというのは僕のライフワーク、ライフテーマであもるので。
僕の世界観では、経験上、身心が緩んで柔軟性が高まれば、おのずと身心のポテンシャルが開花するよう現象は自然に展開・創造していくと感じているので、あえて望む状態を視覚化したり意図する必要はないのかなとも感じている。どう展開していくかわからないほうが愉しいと思うし、「望む状態」自体が記憶(過去)の束縛下にあり、制限があると感じられるからかもしれない。それと流れの中で自然にその延長線上に希望のようなものも生まれてくるので意識的に望む状態を意図する必要も感じない。
でもトランサーフィンという認識はとても面白いと感じた。
いろんな認識、世界観、いろんな進み方があるからこそ豊かだなぁと感じる。
