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ブルガリの部屋で、輸送経路を想像する人

ブルガリ展に行った。
“あの”ブルガリ。
財布より高そうなピアスが平然と飾られているあのブランド。

最初の部屋で、
圧倒的な数の宝石に飲み込まれる。
赤、青、白。そこから黄色、緑。
色が部屋ごとに増殖していく。
人は目の前がピカピカすると、
なぜか自分まで何か成し遂げた顔になる。
照明、罪深い。

そして私は考えた。
――これ、どうやってここまで運んだんだろう。
煌めきの前で最初に浮かぶのが輸送経路。
もう完全に目線は生活者サイド。
誰が管理して、誰が数を合わせて、
誰が箱を最初に開けたのか。
「いま私が見ているのは、宝石の美ではなく“段取りの美”なのでは?」と、
展示の2部屋目にして、
裏方に感動している自分がいた。

会場は新国立美術館。空間はSANAA設計。
光そのものが素材みたいに回り込み、
壁も床も上品に反射する。
おかげで、「ここ、掃除の人が一番プロだよね」と心の中で拍手した。
たぶん私だけが拍手している。

隣を見ると、子どもたちはそんなこと一歳考えていない。
息子はショーケースに顔を近づけて、
「この手裏剣がいい!」と指さす。
(手裏剣ではなくピアスである。)
それを指摘するほど、私はまだ大人になりきれていない。

娘は蛇のモチーフの前で足が止まる。
「これ、部屋に欲しい」
値段の概念より先に、“好き”が先に来る。
子どもは作品を見ない。
自分を見ている。
それが正しい鑑賞法なのかもしれない。

子供たちはひとつひとつの色を、
まるでキャンディを舐めるように見ていた。
「これは何でできているか」とか「値段」とか、関係ない。
ただ、自分が好きかどうか
それだけ。
正直、私もその感覚を取り戻したかった。

途中の休憩スペースには銀色のラビットチェア。非売品。

うさぎに座る子どもという構図が良すぎて、
「生きてるアートってこういうことだよな」 と思った。
買えなくても、
見る自由は誰にも止められない。
この一点だけは、
親として言葉にして残しておきたい。

展示が進むほど、
ブルガリの“目線の高さ”が見えてくる。
もともと宝石と呼ばれなかった素材
――アメジストやシトリンまで引っ張り上げて、
「美しい」と名前とデザインを貼る。

アメジストもシトリンも、
誰かの目線ひとつで「価値」に変わる。

価値は“見下ろしてつくる”ものじゃなく、
“見上げて見つける”ものだと、
このブランドは平然と言ってのける。
つまり、価値とは照明。
照らすかどうかを決めるのは、
結局「人間の眼差し」だ
と改めて再認識させられた。

出口で子どもたちはポストカードを1枚ずつ選んだ。
娘は蛇、
息子は(もちろん)手裏剣っぽいピアス。
家に帰ってすぐ、
2段ベッドのわきに貼られたカードを見て思う。
寝る前に見る景色が変わるだけで、
子どもの一日って少し上書きされる。
高級ブランドの展示は少し遠いけれど、
日常の壁はすぐそこ。
そこに小さな光を貼ることは、案外たやすい。

「また行きたい?」と聞くと、
二人そろって「また!」。
“また”という言葉は、
今をちゃんと持てた人だけが使える未来形だと思う。
今日いちばんの名品は、それだったかもしれない。

会場を出ると、
外の蛍光灯はやけに無表情で、
駅の床は宝石のカットとは無縁のゴム色だった。
でも、ふと気づく。
さっきまで万華鏡の中にいたから、
今の無表情も少し光る。
そういう変化を起こすのが、
展示のいちばん正しい効能だと思う。

あの日、私は確かに万華鏡(カレイドス)の中を生きていた。
そして今は、スーパーの冷蔵ケースの前で同じように光を探している。
冷凍餃子のパッケージにも、たまにすごいグラデーションがある。

そして私はまだ考えている。
――わたしたちは、どれくらい自分の中の光に照明を当てそこねているんだろう。
いつか、輸送経路じゃなくて自分自身にスポットを当てる日が来るのかもしれない。
その日まで、私もポストカードをベッドの横に貼っておく。

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