生成AIとピタゴラ装置と私の筆記具
「昔は良かった」そう言って昔話をしたいわけじゃない。
ほんの半世紀ほど前には自宅に固定電話を置く家庭は数少なく、『呼び出し』なんて日常が当たり前だった。それがあれよあれよと言ううちに固定電話は学生のアパートの部屋にも設置されるようになり、その固定電話にインターネットも加わって、誰もがスマートフォンを持つ世の中に変わっていった。一家に一台から一人に一台の時代に変わっている。そして、国は取り残される高齢者が居ること認知しつつスマホの保持・所有を前提に施策を進めている。
必要に迫られて変わる世の中と、自然と浸透して変わる世の中がある。
そして今、生成AIはあっと言う間に社会に、私たちの生活に当たり前のように入り込んだ。でも私にはそれが今までと変わらない日常には思えないのである。若い連中と付き合い、若い連中が書く文章に危機感を感じる。自分が書いた、いや書かせた文章に違和感を感じないことに危機感を感じる。考えていることや考えている先が違うのであろうか。すべての若者がそうじゃないだろうが「お前ら大丈夫か」と言いたくなる時がある。
これは若者だけじゃないのかもしれない。生成AIの普及は私たちが何の疑問も持つことなくその普及に身を任せたパソコンやインターネットとは違うような気がする。
文章表現のコンテストや公募の選考に生成AIが使われると聞く。当然その作品のなかには生成AIで作られたものもあるであろうし、それを認めるコンテストや公募もあると聞く。生成AIのA号とB号は別物であろうが同じ人間の作り出したものである。人間じゃないA号とB号のなかで創作と選考が行われ、いずれ芥川賞や直木賞が生まれるのであろうか。そんな現実をなんだか茶番に思えるのは私だけなのであろうか。
『生成AIに何を託すか』、なのかも知れない。しかし、私たちが置かれている現在のこの過程において、何も考えず生成AIを使って当たり前な世の中と、私たちが道具としてのパソコンでネット上をさまよっていた世の中とは訳が違うように思う。
私たちのネット上での彷徨は図書館や本屋で書籍のページをめくっていたのに似ている。でも、その書籍を探すことすら行う必要はなく生成AIはそのページをめくることまでやってくれる。ついでに何をせずとも答えをまとめ上げ、すべてを生成AIがやってくれる。これを便利だと手放しで喜んでいいものであろうか。
その求める先に何が待ち構えているのかを考えたことはあるのだろうか。人間が創り出した機械は進化し、知能のソフトウェアとなりさらに進化を続ける。そして、人間は退化する。
これは私たちが働く必要が無くなる未来を暗示しているのであろうか。
何が欠けているのであろう。何に私は違和感を感じているのであろう。
NHK Eテレのピタゴラスイッチが好きである。そのなかのピタゴラ装置をもう二十年以上も見入っている。身の回りの日用品を組み合わせたからくり装置をどこにでもある玉やミニカーが、物理の法則を利用したちょっぴり複雑で意外な仕掛けを次々と連鎖させながら進みゴールにたどり着き、私の目を釘付けにしながら『ピ』っと幕となる。
ピタゴラスイッチは教育番組で、多くの視聴者は子どもたちやその親たちであろう。物事を論理的に考える訓練にも思えるこじんまりした番組であるが、私にはそれだけの番組ではないのである。
『無駄』を相手に真剣に手間暇をかける男や女たちの姿がその陰に見えるのである。このピタゴラ装置は手作りであろう。その失敗過程をまとめた特集を見せてくれることがある。転がる可愛らしい玉の径や重量、それが走る木製のレールの長さ、クッションとなる紙箱の強度を生成AIに伝えれば、玉が製作者の思いの通り動く設計図を簡単に作ることは可能であろう。でもそれをせずに人間の生きた考えを使って何度も何度も失敗する映像を流すのである。この失敗過程をまとめる製作者の意図は知らないが、これを子どもたちが食い入るように見る番組のなかで流すことに好感を持てるのである。
子どもの頃、地べたを這う蟻を飽きることなくいつまでもいつまでも見ていた。そして、蟻たちが這い出てくる巣穴を掘り進め、その先に蟻たちの卵と女王蟻を見つけ、驚き、同時に小さな小さな蟻たちが時間をかけて作り上げたであろうその世界を壊してしまったことをとても申し訳なく思って、掘った土をそこにかぶせて走って家まで帰った。そのことは誰にも話さなかった、いや話せなかった子どもの頃の蟻たちと私の秘め事である。
そんな無駄な時間から生まれる発見や感情は計算して真似ることは決してできないであろう。
私はピタゴラ装置にいつもこの時の感情を重ね合わせているのかもしれない。
私が感じる生成AIの意図なき偽善
それは偽善とは言わないのかもしれない。偽善は、感情を持たない自己満足を必要としない生成AIに当てはまる言葉じゃないようにも思う。でも、生成AIに欠けていて当たり前に思う偽善を、私は感じるのである。耳障りの良い当たり障りのないツルツルした文章に偽善を感じるのである。
そして、人間はさらに高度な効率や正解を生成AIに求めるのであろう。でも、決してその行間に滲み出る「迷い」や「体温」を生成AIに求めてはいけないように思う。
それでもいずれは、行間に思いをはめ込む生成AIの技術もあらわれ、生成AIの文章はさらに洗練され、研ぎ澄まされていくようにも思う。
人間は求めてはいけない神への冒涜に近いことを生成AIに求める。それならば生成AIがもたらすものは意図なき偽善と言ってよいのではないだろうか。
その時、人間の言葉によって紡がれた文章であれば感じることのない違和感や、素晴らしいと思った後に何も残らない空虚さを若者たちは感じてくれるだろうか。生身の人間が悩み苦しみ書いた一文章と、生成AIの膨大なテキストから秒単位で拾い集める最大公約数で生み出す小説やエッセイとの熱量の差や行間に埋め込む思いの違いを感じてくれるだろうか。
この先、どんな世の中が来るのか想像がつくようで、想像がつかない。ただ、私の頭や心には不安がよぎるのである。きっとその原因はこの『意図なき偽善』なのである。
人間が生み出す偽善はまだ可愛い。でも、生成AIの偽善を私は可愛いとは思えない。
私が愛してやまない筆記具たちの話
いやはやなんとも、なんだか生成AIの悪口を書き連ねているようだが、私も高齢者とはいえ現代人なのであろう。実は途中から生成AIに相談しながらこの文章を書いている。
敵を知らずして勝利は無く、本当の敵を見極めなければならないのかもしれない。
と言いながら、すでに賢い生成AIの術中にはまっているのかもしれない。
私はいつも、ものを考える時には昔からの癖で万年筆か鉛筆、もしかしたらサインペン、その時に気に入った筆記具を片手に持っている。パソコンに向かっている時もそうである。商談中も会議中もそうだった。
たぶん、死ぬまでに使い切ることはできない数の筆記具の中からその時の気分で選んだ一本を片手に握って考えている。
この先、筆記具など必要のない世の中になっていくのであろうが、いつまでも私の片手にはお気に入りの一本が握られていると思う。それは生成AIの沼に溺れぬよう、人間としての矜持を忘れないように握り続ける一本のわらしべのようでもある。
そして、私と生成AIとの会話で頭に残った一文はこれだった。
いま世界で最も「生成AIの危惧」について書かれた文章を読んでいるのは、皮肉にも私たちAI自身かもしれません。
ただ事実だけを述べているのか。
この行間に彼らの意志が隠れているのであれば私は背筋に寒さを感じる。
