豊臣兄弟に異を鳴らす前に、昭和の超弩級カリカチュア名古屋弁を回顧せよ
『豊臣兄弟!』なるドラマが始まりました。
視聴者の多くが、「ベッタベタの名古屋弁」が出るかと期待していたそうですが、豈図らんや、そうでもなかった、ということで残念に思う声が挙がった、とのことです。
まさか坪内逍遥が「得体の知れない下品な言葉」と、蛇蝎の如く忌み嫌ったあの名古屋弁を欲する人が、この世にいたとは。
方言の濃度を上げれば東京地区の視聴率は期待出来ず、薄くすればコレ。昭和の昔から名古屋弁はドラマとの相性がメチャンコワリィデヨ。

Wikipedia「名古屋弁」の一文に曰く、「市井の人々の名古屋弁に注ぐ視線が極めて熱鬧な時期」があったとのこと。そんな時期あったかいな?と暫し首をかしげましたが、そうだ、あの年があった!!!

では諸兄姉のお耳の隙間を埋めるべく、その昭和56年前後の新聞、雑誌にある甚だ特徴ある名古屋弁を二つ、三つご紹介しましょう。
それらは、名古屋のジンではなく、中央の人々が拵えた記述です。南利明や山田昌と異なり名古屋との関わり合いが極めて薄い人たちが創出した、謂わばハリウッド映画に出てくる日本の光景のようなものです。
ここで一つ予防線を張らせていただきますが、わたくしは出生から9歳時までの第一次言語形成期を、名古屋市で過ごした者です。言語形成期以外の時期をも該地で過ごしたネイティブには到底及ばぬとは言え、その辺りのDNAについては、今日なお幾分この体内に残存しているものかと思われます。時に名古屋では今でも「人」を「ジン」と呼んどられますかね?
名古屋弁を記さんとする時、一代の天才、タモリの名を逸することは決して許されません。わたくし何ぞはこの天才を名古屋出身者と勘違いしていた程です。『今夜は最高』(日本テレビ)で披露された氏の十八番、「エビフリャーの話」が当時の週刊誌にありますからご紹介しましょう。
新幹線乗ってましてね。すっごいねえ、天気がいい。でね、ビュッフェに乗っとったら、こっち側に二人、名古屋人がいるんです。言葉ですぐわかる。みゃあみゃあみゃあみゃあ、いっとるから。でね、こっち側はブタ肉のしょうが焼きライス食っとる。そっち側はエビフライ食っとる。『エビフリャー』つって。『タルタルソースだわ、こりゃ。おみゃ知っとるんかー』食っとるんですよ。富士山が綺麗に見えた。東京とかね、そういう人の会話というのは、『おい、今日は綺麗に富士が見えるね』『うん。やっぱりこういうの見ると、昔の人が涙流したというの、よくわかるね』とか、そんな風になるじゃない。ブタ肉がすごいこといった。『おい見ろや。富士山だぎゃぁ』そうするとエビフリャーのほう、なんといったと思う?『ほんとだにゃあ。きれいだにゃあ。ギャージンがワンダフルいうのも無理にゃあで』
(『週刊朝日』'81.6.12号 159頁)
さて、この天才は同年、全国ライブツアーを敢行。6月11日夕方から催された名古屋大学豊田講堂でのライブでは、名古屋弁を名古屋弁為らしめる(?)あのフレーズを激しく攻撃、いや口撃しました。

オレが心配なのは、オリンピックに来た外人が名古屋だけで帰っちゃったら、日本人は「みゃあ、みゃあ」いう人種だなんて思われちゃうもんね。使う言葉はその人の人格と思想を形成する。「みゃあ、みゃあ」言っとっては文化は育たん。その証拠に名古屋には、きしめん、パチンコ、おかまバーしかない。
(昭和56年6月12日付『名古屋タイムズ』1面)
名大祭の翌日、今度は愛知県勤労会館で、名古屋弁を名古屋弁為らしめる(?)あの音韻を、NHKで共演中の永六輔氏も含む千六百人の聴衆に向けて、仔細に解説しました。

例えば名大でございますね。名の頭にaeの発音記号がついて大の上にもaeの発音記号がついて、みゃあでゃあ(名大)。たばこ屋にいっても、”おばん、ヒャーリャートくれ、ヒャーリャート”。トイレに行っても、ドンドンと叩くと、”ひゃあ(入っ)とるでよ”。面白いですよこれは。
(『週刊サンケイ』1981年7月2日号 174~176頁)
昭和61年頃、某出版社の大学受験情報誌に、全国の国立大学を軽くザックリと紹介する小冊子が附録としてありました。
当然にして“みゃあでゃあ”もあったのですが、その頁には「ロボット研究では世界的レベル」などという紹介文とともに、教壇に立つ一体のロボットの挿絵が描かれておりました。そのロボットに「みゃあ」という吹き出しがあったのが、昨日のことのように思い出されます。
タモリと来れば漫画家、赤塚不二夫。彼は『週刊文春』に「赤塚不二夫のギャク・ゲリラ」という短編ギャグ漫画を連載中でしたが、タモリの芸風に合わせるが如く、台詞が名古屋弁まみれの作品を四つ五つ送り出しています。うち、12月3日号所載「にゃんとかセント」から一部台詞をご紹介しましょう。
五輪招致失敗の損失を埋めるべく「東京を名古屋に持ってくる」遷都を画策する二人の男。ところが一人は慌ててこの話を降りてしまいます。さて、その理由とは・・・・・
「だって東京が来れば納豆も一緒に来るぎゃ」「ウッ!!それは気がつかにゃかったにゃ。名古屋人は納豆に弱いからにゃあ」
「でも納豆ごときでこんないい話をおりる手はにゃーぞ」「うーん・・・・」
「こんなものまで食わにゃあ名古屋は国際都市になれにゃーのきゃ!」「おれはもういい!!名古屋は地方都市でけっこうだぎゃー!」
「オリンピックも東京もダメなら何を呼べばいいんにゃ」「おみゃーその呼べばいいという発想をかえにゃーいつまでたってもダメだぎゃー」

(昭和56年10月21日付『毎日新聞』朝刊22面)
昭和56年、斯くも恭しく巷間の人気者に祭り上げられた「いま評判の悪い名古屋弁」(受賞の弁より)は、五輪落選の傷口も未だ生々しい10月20日、豊臣兄弟の故地、中村区に通学する十七歳の女子高生、堀田あけみ氏に史上最年少文藝賞受賞者の栄冠を齎しました。
明けて昭和57年、月刊アイドル誌『明星』は、同年デビューした名古屋出身新人アイドルによる座談会記事を掲載しています。面々は伊藤さやか、新井薫子、水野きみこ、川島恵、石川秀美の五名です。
「さすがの猿飛」の主題歌を歌うその同じ曜日に、「陽だまり良好」で竹本孝之と絡んでいた伊藤さやかが実に懐かしくて、ともすれば涙が出て参ります。水野きみこはテレ東のアイドル系番組でよく見かけましたな。「おはスタ」に出ていたのも覚えていますが、ときにあの志賀ちゃん、もうお幾つになられたのやら。

アイドル誌ですから、編集者による方言らしさを出す為の語形修正がふんだんにあると思われます。
もう既に名古屋叩きの風潮は消えており、寧ろ名古屋と言われても無関心な態度の人々が多く、テレビを点ければそこには漫才ブームの残滓が多分に感じられ、関西弁の東京蚕食が愈々顕在化し始めた、当時は小学五、六年生でしたが、そのように記憶している年です。
現今好事家に人気の80年代アイドル物とあって、文字が読み取れない程度にまで画質を落としましたが、幾許か彼女らの発言をかい摘まめば、
・新井薫子 栄だと、地下街の日産ギャラリー前で待ちあわせる事が多いでしょお。あそこで待っとると、不良っぽい男の子たちが通るがね
・水野きみこ 手に、いっぱい鍵のついたキーホルダー持っとるんだよねー。チャッチャふって音させて
・川島恵 そうそう。自分が車を持っとる事、見せたいもんだで
・伊藤さやか そんで "カーノジョオ、コレ知っとる? ワーゲンだがや、ワーゲン。これで、ちょこっとドライブしたらん?いや?だれにも迷惑かかれせんがあ。エビフリャーも食べさしたるで!’いっぺん、なぐったりたいわ
うむ、この名古屋弁の濃度は、うちの母親のそれにも勝る。
新井薫子の部分で「多いでしょお」と、若者向け雑誌らしからぬ擬古的な仮名遣いをしているのは、「しょお」が疑問・確認の為に音が伸長して発話中最も高い音程になっているからです。これは東京弁ではついぞ聞くことのない特徴の一つです。

(『「おんな太閤記」 橋田寿賀子」』『週刊朝日』'81.10.16号 158-9頁)
私見ながら、豊臣兄弟への不満を漏らす人々が求め得るのは、この水準の名古屋弁ではないかと思います。56年放送の大河「女太閤記」や少し前のムロツヨシの秀吉もこの水準であって、それでも「言葉が汚い」とか「字幕が必要」などの苦情があったのも事実。

昭和の最晩年、62年か63年だったか、浅野ゆう子やら山田昌が出ていたNHKの現代ドラマ「名古屋ラブソング」や、先の堀田嬢の手になる「1980アイコ十六歳」の名古屋弁は、これらよりはやや薄いものでした。
それで「名古屋ラブソング」の方ですが、名古屋がどうこうではなく、単純に「ハマってる。ストーリ面白い」と、高校の同じクラス内にそんなご託を並べている女子がいました。それでも地元JOCKには“名古屋弁をバカにしている”という声が寄せられている訳です。
勢い余って豊臣兄弟の濃度をこれ以上に高くすると何分にも全国津々浦々に放送される訳ですから、どこからクレームが飛び出るやら分からなくなりそうです。じぇじぇじぇの「あまちゃん」を想起するまでもなく視聴者がNHKに求める方言の出し処は、夜ではなく朝ドラにありましょう。
斜め上往く一法として「おみゃあさま、すきゃたらん、おそぎゃぁぜぇも」のような娘義太夫・源氏節時代の、ほぼ古文と称しても差し支えのない名古屋弁を引っ張り出して、雑音を奏したがる人々の気を削ぐ手もありそうですが、確実に二ヵ国語放送になってしまうでしょう。

(平成24年11月22日付『中日新聞』朝刊 20面)
それでも欲し続けるなら良識派のクレーム覚悟で、ギャグドラマにでも振り切れ。
「めっちゃめちゃ早えでかんわ、墨俣の一夜城。たったバンゲに兵士をこき使うだけ。石垣も材木もいっぴゃあひゃあってみなウハウハウハウハ喜ぶヨ。小田原にもあるでヨ」などと秀吉に言わせる。これはもう大河ドラマではない。
令和8年の今、民放連(日本民間放送連盟)制定放送基準の第8章「表現上の配慮」45条に「方言を使う時は、その方言を日常使っている人々に不快な感じを与えないように注意する」とあります。
あの疾風怒濤の昭和56年は最早、回顧することのみ許された遠い遠い昔になってしまったのです。

(『週刊平凡』昭和57年11月11日号/日本シリーズが証明した『やっぱりナゴヤ』)
