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《創作》第103回 物価高④ ― IPの低い人

※本作は《創作》第101回「物価高③ ― 値段ではない暮らし」の続編です。
そこでは、善意の行為が「IP履歴」として記録され、
人の価値の一部として見られる社会が生まれていました。


スーパーの棚には、今日も新しい値札が貼られていた。
パン。牛乳。米。
どれも、少しずつ高くなっている。

だが街の空気は、以前ほど重くはなかった。

Iポイント。

社会貢献に応じて付与されるその仕組みは、
すでに生活の一部になっていた。
公園の掃除をすれば、ポイントがつく。
誰かの買い物を手伝えば、履歴が残る。
その記録は「IP履歴」と呼ばれ、
履歴書にも記載されるようになった。
   学歴。
   職歴。
   そして、IP履歴。
それが、その人の「価値」を表す指標になっていた。


男は、その履歴書を見つめていた。
IP履歴の欄だけが、空白だった。
学歴も、職歴も、特別に悪いわけではない。
だが、その欄だけが、
不自然なほど何も書かれていなかった。


面接官が言った。
「あなたのIP履歴ですが……」
男はうつむいた。
「何も、していません」
しばらく沈黙が続いた。

面接官は、少しだけ言葉を選んでから言った。
「この制度は、ご存知ですよね」
「はい……」
「誰かの役に立った記録が、ここに残る仕組みです」
男は、小さくうなずいた。


帰り道。
商店街の八百屋の前を通る。
Iポイントで野菜を受け取る人たち。
笑い声。
夕方の光。
その横を、男は通り過ぎた。


男は、何もしていなかったわけではない。
ただ、
記録されていなかった。


数年前。
男は、夜遅くまで働いていた。
古いシステムの改修。
誰にも気づかれない、不具合の修正。
それが止まれば、
    ・物流が止まる
    ・決済が止まる
    ・店が閉まる
そんな場所だった。
だが、その仕事は、
IPには記録されなかった。

誰かに「ありがとう」と言われることもなかった。
ただ、何も起きない日常だけが続いた。


数日後。
男のもとに、一通の連絡が届いた。
再面接の通知だった。


面接官は、前回とは違う資料を見ていた。
「こちらの記録ですが……」
画面には、別の履歴が表示されていた。
システムの保守ログ。
障害の未然防止記録。
夜間対応の履歴。
誰にも見られていなかったはずの仕事が、
そこに並んでいた。


面接官が言った。
「これは、あなたの仕事ですね」
男は、少しだけ驚いたようにうなずいた。
「はい」
「なぜ、申告しなかったのですか」
男は少し考えてから答えた。
「……当たり前のことだと思っていたので」


面接官は、しばらく画面を見ていた。
そして、静かに言った。
「IPは、まだ完全ではありませんね」


帰り道。
商店街は、いつもと同じように賑わっていた。
野菜を受け取る人。
笑う子どもたち。
男は、その光景を少しだけ違う目で見ていた。


物価は、今日も上がり続けている。
だが、この街は、
誰かの行為で静かに支えられていた。
見える善意と、
見えない貢献。
そのどちらもが、
この街を回している。


物価は下がらなかった。
だが、
すべての価値が、
数字で測れるわけではなかった。


おまけの一句
    見えぬもの  支える人に  値はつかず



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