東浩紀の『訂正可能性の哲学』を読む【要約・感想】
記事の内容
この記事では、東浩紀の『訂正可能性の哲学』という本を紹介します。内容をざっくり知りたいという方におすすめな記事です。
ビッグデータ、人工知能民主主義への懸念。人文知が踊る愉しい一冊です。
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哲学することの意味まで問う、東浩紀らしい一冊です。
簡単な要約、読書メモ、私の感想、となります。
それでは、目次をどうぞ。
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超要約
私たちのコミュニケーションには、本質的に、後からいくらでも難癖をつけられる構造(訂正可能性)がある。
政治=一般意志がうまく機能するためには、「訂正可能性」の維持が必要だ。
ただ過去や歴史をリセット・否定するのではない。訂正に開くような運動をし続けること。
ビックデータによる人工知能民主主義には訂正可能性が無いから危険。
超要約すると、こんな感じです。
以下に、本書のメインテーマに関する記述を要約します。
ただし、それら主張を支える厳密な理屈は紹介しきれません。なぜその主張が成り立つのか、気になる方はぜひ本書へ進んでみてください。
最初に、本書の雰囲気紹介のために一節を引用します。
政治的な正しさなるものは、本当は、ポリティカル・コレクトネスではなくポリティカル・コレクティング、すなわち「政治的に訂正していく」運動として、動詞的なかたちでしか表現できなかったはずだと考える。いま正しいこともいつ訂正されるかわからない。いまのマイノリティもいつマジョリティになるかわからない。いまの被害者もいつ加害者になるかわからない。
いまコレクトな発言や行為も、いつ「コレクトされる」かわからない。それこそがウィトゲンシュタインとクリプキが教えてくれたことである。政治的正しさは、政治的な訂正可能性としてしかありえないのだ。
ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。本書は、そんなおそろしくあたりまえな認識を、哲学や思想の言葉でガチガチになってしまったひとに思い出してもらうために書かれた書物でもある。
p343
一部を要約
家族の外にも家族しかなかった
家族を解体する方向に思想は進みがちだった。
カール・ポパーによるプラトン批判
・プラトンは閉ざされた社会から開かれた社会への移行を否定している。プラトンは全体主義的である。
人類学者のエマニュエル・トッド
・20世紀の政治思想の形態は、実は、家族の形態から来ている。
・政治の形も、家族類型に基づく部族的なイデオロギーに過ぎない。
家族の外にも家族しかなかったことがわかってしまった。
私たちは家族をモデルにした人間関係しか作れないのではないか。
家族的類似性、規則の訂正可能性 本書の理論的土台
「家族」概念を再定義する。
本書の理論的土台がウィトゲンシュタインの言語ゲーム、クリプキの規則のパラドクスだ。
ウィトゲンシュタイン 言語ゲーム
・私たちは、言語というゲームのルールを意識しないまま、理解しないまま、ゲームに参加している。これが言語の本質である。
・言語ゲームには「ルール的な本質」が欠如している。
・言語ゲームにかろうじて見出される共通性は、ある家族がどこかで似ているかのようなものだ。この共通性を「家族的類似性」と表現した。
クリプキ 規則のパラドックス
・規則も意味も原理的に絶対ではない。常に、後から、他者によって訂正される可能性がある。例えば、「足し算」ですら、後から、いやその計算規則は実はこうだよ、と訂正できてしまう。
・つまり、規則や意味の真理条件は、論理ではなく、他者の存在に依存している。衝撃的なことに、「足し算」についてもそうなのだ。
・ゆえに、あるゲームの規則を持つ共同体論につながる。
規則と共同体、訂正可能性
・先に規則があり、それを理解するプレイヤーが共同体を作るのではない。さきに共同体があり、それがプレイヤーを選別した後、規則が確定する。
・規則は少しずつ訂正され動いていく。プレイヤーがゆるやかに変わっていく。ここにも、家族的類似性が見える。
・訂正可能性により共同体は持続していく。
固有名(特定の誰かの名前、など)と訂正可能性
・固有名は、その定義を遡行的に訂正できる。一般名はできない。
・この固有名の性質こそ、訂正可能性による共同体の性質を表す。
家族の性質、ローティ、アーレント
家族は訂正可能性の共同体
・家族的共同体は、似ているがゆえに変わっていく。
・家族には、三つの性質がある。強制性、偶然性、拡張性だ。
・強制性、偶然性があるのに、拡張性を持つのは、訂正可能性の視点から説明できる。
保守とリベラル
・現代の日本では、リベラルと保守、右翼と左翼などの定義・境界は曖昧になった。
・宇野は次のように分析している。
・仲間との関係を優先する立場が保守に近い。
・普遍的な連帯を志向する立場がリベラルに近い。
・つまり、「連帯感覚の範囲」の差異くらいしか特徴がない。
ローティ
・「公と私」は統一できない。
・普遍的な理念による連帯ではなく、他人の具体的な人生に対する共感による連帯。
・人類全体ではなく、隣人であるわたしたちにしか共感できない。ただし、私たちの範囲は根源的に偶然によって決まる。よって、共感の範囲、中身は、変化し発展していく可能性も持つ。
アーレント
・公と私の境界を引き直し、公の重要性を訴える。
・ゆえに、公共性を「開放性と持続性」で定義しようとした。さらに、持続性の条件を公での「名前を持つ私」としての活動から分析した。
・アーレントの持続性の条件も、訂正可能性の共同体として解釈できる。
活動者は自分が「だれ」であるかを訴える。たとえば、自分はいままでの政治家とは違う、社会を変える、だから投票してくれと有権者に向けて訴える。けれどもその自己理解が正しいかどうか決めるのは、あくまでも後世の歴史家だ。いくら正しく行動したつもりでも、時代とともに倫理基準が変わり、おまえはいつは腐敗していた、いつは差別主義者だったと言われたら、それには原理的に反論できない。アーレントが主張しているのは、ひらたくいえば、公共性にはそういう残酷な性格があるということである。そしてそれはまさに、本論がクワスやソクラテスの例を出して論じてきた言語ゲームの性格そのものでもある。アーレントの公共性論は、制作と持続性の論点を導入することで、ウィトゲンシュタインとクリプキの洞察にかなり近づけて理解することができる。p126
ルソーの一般意志を再解釈 遡行性、訂正可能性
人工知能民主主義の思想的な起源には、ルソーの存在がある。
ルソーの社会契約論
・全体意志と一般意志は違う。
・公共性は一般意志にのみ宿る。(だから、一般意志は常に正しい)
一般意志を理解するために、メンヘラでコミュ障なルソーの個性に注目する。
ルソーの人間観の前提
・1人で生きれる自然状態の方が幸せ。
・にもかかわらず、社会を作ってしまったのが人間。
「訂正可能性」視点でのルソー解釈
・共同体、社会はすでにある。だから、「訂正」によって遡行的に社会契約が発見される。
・元々はないのに、発見された後は実在として扱われる。
・一般意志は、「もし今不平等な社会が成立しているのだとすれば」という条件のもとで遡行的に見出される仮説的な存在。
・自然がつねに正しいように、一般意志も正しい。ゆえに、ルソーの思想は、独裁につながる解釈もあり危険な側面がある。
もしもいまきみたちがこの不平等な社会の存在を承認しているのであれば、かつて社会契約が成立したと想定せざるをえない。だとすればきみたちはいま、論理的な必然として、自分では自由だと感じながらも、同時に一般意志の命令には絶対的に服従しなければならないような、そういう状況に置かれていることになる。それこそが社会が成立するということだが、はたしてきみたちはその残酷さをどこまでわかっているのだろうか
p205
一般意志は素朴には実在しない。それは、人間がつねにすでに巻き込まれている訂正可能性のゲームのなかで、遡行的に発見され、「正しいもの」だとされてしまう、そのような逆説的な理念でしかない。ぼくはルソーをそのように読むことこそが、唯一民主主義の未来につながる道だと考える。一般意志の構想は、訂正可能性の思想によって補われねばならない。
p222
一般意志は、動的に訂正可能な言語ゲームとして捉えるべきだ。
ルソーの危険性 訂正可能性を忘れる
現代的視点からの解釈
・一般意志は統計である、と解釈できる。
・統計=一般意志には逆らえない。個人のレベルとは階層が違うからだ。
・これは、一般意志から「訂正可能性」を除いた議論につながる。この論理が人工知能民主主義の思想につながっていく。これは、ルソーの危険性をそのまま受け継いでしまっている。
成田悠輔の無意識データ民主主義
・データによって無意識を抽出した民主主義。政治は自動化される。
・政治家を不要にする。
訂正可能性の視点から、無意識データ民主主義を批判する。
ふたたびウィトゲンシュタインとクリプキの議論を思い起こしてほしい。彼らが示したのは、人間のコミュニケーションが難癖やクレームを原理的に排除できないということだった。人間は加算すら完璧に定義できない。すべてクワス算だったと言い募るクレーマーの出現を排除できない。まさにこの条件こそが、統治の実質を機械に委ね、人間が関わる政治の場をたんなる儀式に還元しようとする成田の構想を躓かせるはずである。一般意志がどれほど正確に抽出され、それを統治に変えるアルゴリズムがどれほど完璧になったとしても、そんなこととは関係なく、肝心のアルゴリズムやら人工知能やらの選択に難癖をつけ、制度の新解釈を並べ、「訂正」を迫り、一般意志そのものを再定義しようと試みる人々は必ず現れるだろう。それが人間社会というものだし、政治家とはそもそもそういう難癖をつける人々を意味している。成田はそのような困った人間をいかに黙らせるのか、ほとんどなにも考えていない。いいかえれば、人工知能民主主義は、人間のすべてのコミュニケーションが訂正可能性に満ちた不安定なゲームであることを忘れた、本質的に非人間的な構想なのである。
p220
人工知能民主主義は訂正可能性を消すから危険
データによる人工知能民主主義
・人口知能民主主義はルソー主義である。しかし、訂正可能性がない。ゆえに暴走する。
・ビックデータは個人をとらえない。統計や平均を捉える。例外性を消去する。固有名がない。固有がなければ、誤配も生まれない。ゆえに、個人の存在からは基本的に、平均を訂正できない。
・結果として、個人の意向に沿わない決定が権力から強制される危険性がある。例えば、戦争になんか行きたくないのに、ビッグデータからは「あなたに似た人は戦争に行きたがっていますよ」と判断されてしまう。
「私の固有性」を無視した政治思想は危険である、とまとめられる。
自然と訂正可能性
ルソーの自然観
・自然の絶対性を訴えつつ、同時にその絶対性そのものが訂正可能であるという矛盾を小説によって表現した。
・自然と人為的な自然の対立、とも言える。
・真実と嘘の境界をなくすことで、はじめて自然は訂正されうる。この実践には、「小さな社会」が必要である。
一般意志を訂正し続けていくために
バフチン
・対話は常に開かれる。終わらない。ここに人間の自由がある。
・たった一人でも、内省的に、自分自身にツッコミを入れ続けることができる。
ルソーを総合的に解釈
・ルソーの『社会契約論』と『新エロイーズ』、両者の相補性に注目する。
・一般意志の訂正には、無数の「小さな社会」を存在させなければならない。
・対話には私性、固有性がある。ラフプレイとも言えるが、それらは事前にはゲームのルールに書かれていない。だから、いい。
一般意志は「私」を必要とする。政治は文学を必要とする。これは統治者には文系の教養も必要だとかなんとかいった、感情論の話ではない。人間のコミュニケーションの条件そのものから導かれる、厳密に論理的な話である。ぼくたち人間は、絶対的で超越的で普遍的な理念を、相対的で経験的で特殊的な事例による「訂正」なしには維持できない、そのようなかたちの知性しかもっていない。政治の構想もまたその限界には制約される。
だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない。それが本論の主張であり、本当は『一般意志2・0』でも伝えたいことだった。
p326
トクヴィル
・民主主義には喧騒が必要である、と要約できる。
・アメリカ人はすぐに結社を作る。ゆえに、権力に反抗できる。
・彼らは、公共のためというよりも、私利私欲で集まる。色々なところで、いろんな結社が生まれやすい。この動きこそが自由を守る。権力の訂正につながる。
人文知、哲学の意義について
正義なんて本当は存在しない。同じように真理もないし愛もない。自我もないし美もないし自由もないし国家もない。すべてが幻想だ。
みなそれは知っている。にもかかわらず、ほとんどのひとはそれらが存在するかのように行動している。それはなにを意味するのか。人間についての学問というのは、究極的にはすべてこの幻想の機能について考える営みだと思う。
p344
哲学者の使命は、概念の説明というよりも、それら概念に対する人々の信念を変えることにある。
感想
「訂正可能性」という概念の土台として、ウィトゲンシュタインやクリプキを使用する視点が面白かった。言語哲学、分析哲学好きとしては、理屈なので納得できる。
公共性、政治を語るために、さまざまな人文知をまとめ上げていく構成は、政治思想の学びにもなった。
人工知能民主主義には訂正可能性が無い、という主張はどこまで確からしいだろうか。たしかに、「私」は扱えないが、ある程度の群れ単位での意見反映、訂正可能性ならば機能しそうだ。
すると、この先には、訂正可能性という概念の厳密化、細分化、定量化に進むのだろうか。しかし、これは、本質的に、定量化できるような概念なのか。「訂正可能性」とは、もっと構造的な、運動的な、遡行的なダイナミズムのような気もする。ただし、こうした運動ならば、ある種のアルゴリズムとして再現することは不可能ではない、気がする。
また、公共への「私」の反映は、人工知能民主主義以外のシステムでも、実現不可能そうな印象がある。(現在の政治のように、「政治家」のキャラクターが活かされている状態が、「私」のある種の反映にあたるか)
個人の生活態度という視点でなら、この訂正可能性という概念はかなり役立つアイデアだと思う。しかし、公共的なシステムでの実装という視点では、もっと議論が欲しい。
本書には、具体的な政治システム提言が無い。ゆえに、訂正可能性の具体化、実装という点で、曖昧な印象で終わる。なぜなら、「訂正可能性」という概念が何で、何ではないのか、がまだ十分に体系化されていないからなのだろう。著者の今後の思考で精緻化されていくだろうか?
続論、テック界隈からの反応を調査したい。
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