大河ドラマ「べらぼう」に名前がセリフでのみ登場する「鳥居清長」の件
喜多川歌麿よりも先に、美人画浮世絵師として登場した鳥居清長(きよなが)。
もともとは歌舞伎の看板絵を描く絵師集団で、「鳥居派」がありました。
総帥は鳥居清満(きよみつ)。
鳥居清長はその一番弟子でしたが、黄表紙の挿絵や美人画を描くうち画壇の第一人者に。
西村屋与八から版行した吉原を舞台にした浮世絵がこちら。



八頭身のスタイルがいい美人画を描き、歌麿に多大な影響を与えました。(*^-^*)
手元にないので紹介できないのが残念ですが、とても気品がある春画を描くことでも有名。
ちなみに、息子の鳥居清政(きよまさ)も寛政年間まで絵師でしたが。。。
厄介な問題が。。。
このとき、鳥居派の内部ではちょっとした「跡取り争い」がありました。
亡き師匠・鳥居清満の跡目を継いで、鳥居派総帥になっていた清長でしたが、、、、清満の孫・清峯(きよみね 当時8歳くらい)を弟子にしていました。
将来、鳥居派総帥の跡目はどうなるのか? と弟子たちは動揺したようです。
清長の息子・清政(寛政6年ごろ20歳)
清満の孫・清峯 (同時期、8歳)
この二人が跡目争いをすれば、鳥居派は潰れる。。。。
と心配した清長が、息子に絵師廃業を命じて筆を折らせました。
父に逆らって、清政がこっそり蔦屋重三郎に接触し、「東洲斎写楽」としてデビューした。。。という説があります。

自分の画号(サイン)「鳥居清政画」脇に、「清長倅」とメモっているのがお分かりでしょうか?
とてもパパを尊敬していたのでしょうね、清政は。(*^-^*)
清政が絵師廃業の原因となった清峯の美人画がこちら。↓

再び清長の浮世絵です。(*^-^*)

鳥居清長は総帥となってからは浮世絵とは離れてしまいました。
腕のいい弟子たちはたくさんいたでしょうが、後年浮世絵師集団の隆盛を極める「歌川派」のような輝きは「鳥居派」に発生しなかったのは、「歌舞伎看板絵」の伝統を守る一派だったためでしょう。残念なことです。( ;∀;)
ちなみに、鳥居清長と清政父子の晩年の葛藤を短編に仕立てたのが「老いらく」です。
「雨やどり」に収録されています。(こちらの表紙絵も鳥居清長です)m(__)m
若き日の鳥居清政が蔦屋重三郎に「自分の絵を版行してほしい」と掛け合うシーンがある小説が「蔦屋重三郎の一日」(表紙絵は写楽)
ついでに、「べらぼう」ではやはり「セリフの中だけで名前が出てくるだけ」の扱いとなるであろう、歌川豊国(歌川派を大きく育て上げた立役者)を主人公にした自作が「かどわかし」です。(表紙絵は歌川豊国)
版行されたからこそ、こうして「絵が後世に残る」のですね。
自作の表紙絵に使わせてもらえて、光栄です。(*^-^*)

松平定信が筆頭老中となり、版元、戯作者だけでなく絵師たちも一方的に取り締まられて処罰の憂き目に。。。。
それでも花開いた文化が形として残っていることに、時代の慰めを感じます。
いいなと思ったら応援しよう!
ご覧いただき、ありがとうございます。