中道と中観
大阪では毎冬、年が明ける前に一度は雪がちらつくものなんですけど、この冬はまだ降っていません。暖冬というほどでもない気はするのですが、たしかに昨冬はもっと寒かったようにも思います。
一昨日から目にものもらいができて、同時に風邪の症状が出ているのでウイルス性の結膜炎でしょうか、右目がほとんど開かなくて具合が悪いです。とはいえ、そのせいで仕事を休んでいて暇でもあるので、ちょっとだけ記事を書いてみようと思いました。
2026年今年のベストバイ
正月にAmazonで安くなっていた BOSE の QuietComfort Ultra Headphones を買いました。これが最高で、間違いなく今年のベストバイです。BOSE は音響心理学の研究所でもあり、「いい音」の解釈に他のオーディオメーカーとは一線を画するものがあります。よく言われるのは "BOSEの低音" ですが、たしかに低音の響きは BOSE の魅力の中心ではあるものの、単に低音がよく鳴るというわけではありません。BOSEの低音は量感はあるのですが、ガツンと来るような芯のある音ではなく、倍音が豊富でジュワ~っと脳に染み込んでくるような感じです。これがなんとも気持ちいいわけで、ゆえにBOSEは大人気です。
ちなみにわたしがもう一つ持っているヘッドホンはスカルキャンディの HESH540 というモデルなのですが、低音の強さでいうなら BOSE よりも HESH540 のほうが断然強いです。とはいえ、どちらもEQで低音を強くしたり弱くしたりできますので、単に強いとか弱いとかいう比較にはあんまり意味がないと思います。要は聴いて気持ちいいか、楽しいかということであって、結論からいうとどっちも気持ちいいし楽しいです。ただ、気持ちよさ楽しさの質や方向性は違っていて、BOSE は「気持ちよく楽しい音響体験」をさせてくれ、スカルキャンディは「気持ちよく楽しい音楽体験」をさせてくれます。
ここ数年、イヤホンやヘッドホンに凝って色々聴いてきましたが、結論として言えるのは「音質を追求しだしたらキリがない」ということでした。高価なイヤホン・ヘッドホンほど音質がいい、というのは絶対ではありませんが相対的には正しいです。が、大切なのは音質がいいということと、自分が聴いて気持ちいいということは必ずしもイコールではないということです。そしてもう一つ、どんなにいい音質のイヤホンヘッドホンでも、ずっと聴いていると耳が慣れてしまってそれが普通に感じてくるということ。そんなときに音質でいえばずっとローファイな別のイヤホンヘッドホンを聴いてみるとこれがなんともよかったりするんですよね。
そんなことに少しずつ気付かされてきたこの数年間でしたが、ここにきてもう音質の追求はやめようという境地に至ったわけです。その決定打となったのがこのスカルキャンディとBOSEのヘッドホンでした。どちらもワイヤレスな時点で数値化できそうな意味での音質は有線のものと比べたら "そこそこ" なのですが、代わりにこれらのヘッドホンの音にはいずれも BOSE らしさとスカルキャンディらしさがあります。この "らしさ" が自分の好みにあっているので、「もうこれでええやん」となったわけですね。ワイヤレスは便利ですし。
と、長々と早口で捲し立ててしまいましたが、言っておきたかったのはそんな話ではなくて、「BOSEのイマーシブオーディオめっちゃすごい」ということでした。イマーシブオーディオというのは、いわゆる空間オーディオという最近のワイヤレスイヤホンやワイヤレスヘッドホンに搭載されている機能のBOSE版なのですが、わたしはこれまで色々なメーカーのその手の機能を体験してきました。その経験でいうと、BOSEのイマーシブオーディオはそれらとは次元が違っているといっても過言ではありません。
空間オーディオというのは音源をデジタル処理することによって空間を拡大し、立体的な表現を可能にする技術で、映画なら映画館で観ているような臨場感で視聴できたり、音楽ならスタジオ録音の音源でもライブ感が味わえたり、あるいはライブ音源ならそのライブの臨場感をよりリアルに感じられたりする、という触れ込みのものになります。
実際はどうかというと、まあ大体のメーカーの機種がその触れ込み通りにはなっていると思います。映画やアニメを観るなら、普通のオーディオモードより空間オーディオモードで視聴するほうが断然よいですね。ただ、音楽を聴くとなると、たしかに音場は広くなるのですが、反面として音がこもって聴こえたり、ライブ音源には合うがスタジオ音源には合わないといった「よしあし」があるものばかりでした。ちなみにスカルキャンディの HESH540 にもTHX空間オーディオというものが搭載されていて、これも映画を観るにはかなりいい感じですが、音楽を聴くにはイマイチです。
ところが BOSEのイマーシブオーディオは映画、アニメ、ポッドキャスト、音楽といった音源のジャンルをまったく問わず、どれを聴いてもその音源の空間に没入させてくれます。他社の空間オーディオが「映画館で観ているような」感じとするなら、BOSEのイマーシブオーディオは「映画の中にいるような」感じにさせてくれるんです。
もっとも、イマーシブオーディオには2つのモードがあり、一つは普通のイマーシブオーディオで、これは目の前に仮想的な音の空間が出現する感じです。これで音楽を聴くと目の前にスピーカーがあって、そこから音が鳴っているような感覚になれますし、映像コンテンツだと強いていえば映画館で観ているのに近い感覚になります。でも映画館とはまたちょっと違う気もします。とても不思議な感じですが、とてもよいです。
もう一つはシネマモードで、文字通りこれは映像コンテンツ向けで、このモードでは映画館というより、映画そのものの中に没入してしまう感じがします。映画の中に、と先ほど書いたのはこのシネマモードの話でした。いや、もうこれ本当にヤバくて、音響だけでこのような感覚を演出できるのって、めちゃめちゃすごいと思います。さらにすごいのは、このシネマモード、シネマモードなのに音楽にもめっちゃ合うところです。ライブ音源ではライブ会場にいるように聴こえますし、スタジオ音源ではスタジオの中、ではなく楽曲の中(?)に入り込んだような気になります。音楽を聴いているというより、音楽そのものの中にいる感覚です。それでいて、変な音のこもりとか歪みもありません。
イマーシブオーディオがすごすぎて、わたしはこのヘッドホンでは基本的にずっとイマーシブかシネマモードにしています。もちろん普通のオーディオモードで聴いてもすごくいいんですが、せっかくイマーシブが使えるのに使わない理由があんまりありません。それに、普通に音楽を聴きたいならスカルキャンディのほうがより音楽的な鳴り方をしてくれます。
というわけで、BOSEのイマーシブオーディオはぜひ体験してもらいたいと思って紹介しました。ちなみにヘッドホンだけでなく、イヤホンの QuietComfort Ultra Earbuds でもイマーシブオーディオは使えます。ただし、シネマモードはいずれも第2世代のものだけしか使えません。現在は第1世代のものも少し安くなって売られていますが、シネマモードのある第2世代を買ったほうがいいです。どちらもちょっとお高いですが、買う価値はありますよ。外で使うことが多い人はイヤホン、家で使うのがメインならヘッドホンがよいです。ヘッドホンは夏場は暑すぎて外では使えないので……。
さて、余談はこれくらいにしてそろそろ本題に入ります。
中道とは?
某野党二つがくっついて突然に中道を名乗りだしましたが、政治的な意味での中道とは右翼と左翼の中間という意味でしかありません。まあそれはともかくとして、C国を慮ることしきりで左に寄りつつあったK党と、あからさまに大きく左傾化していたR党がくっついてどうやって中道になるのだろうか?🤔 と思わずにはいられません。ちょっと何を言っているか分からないです……。
またK党的には「いやこの中道はそっちの中道ではなく、こっちの中道だ」というような思惑もあるようです。(※そっちとこっちは各自で想像してください)
まあ、それについては裏の思惑であって、K党が公式に認めることはおそらくないでしょう。なぜなら、そうなると政教分離の原則に反する可能性が出てくるからですね。
政治に関して正しい「中道」というものがあるとするなら、それは "是々非々" の姿勢しかあり得ないでしょう。保守的(右)であるかリベラル的(左)であるかにこだわらず、ケースバイケースでその時時において適切な法案を提示あるいは支持するというのがそのような是々非々の姿勢だと言えますが、KR連合の中道がそのようなものであるとは、わたしには思えません。単に、高市政権の右傾化(言うほどでもないと個人的には思いますが)を批判しつつ、自分たちの左傾化を否定するために「真ん中!」って言ってみたかっただけではないでしょうか。
さておき、中道という言葉はそもそも仏教用語で、それが転じて一般的な用語としても使われているわけですが、本来の意味そのままには使われていません。一般的な用語としての中道とは単にあれとこれの中間という意味で、上で述べた政治における中道もこれです。そして、中道という言葉をそうして用いるとき、そこには「真ん中はよいものだ」「間を取るのはベターである」という考えが前提としてあります。
まあ、それが正しいか間違っているかはともかく、この考え方が見落としているのは「真ん中を主張すると、それは両端に次ぐ第三の極となる」ということです。政治でいえば「右だ」「左だ」と言って争っているところに「いや真ん中こそが正解だよ」と言い出すと、それまでは「右か左か」という二元論であったものが「真ん中か、それ以外か」という別の二元論にすり替わってしまうのです。そうなると、もはや真ん中は真ん中ではなくなるわけですが、K党もR党もそのことには気づいていません。中道はここが中道だと言った瞬間に中道ではなくなるのです。
もう一つ、一般的に理解されている中道の危うさは、そもそも間を取ることがよいとは限らないということです。というよりむしろ、ほとんどの場合、間を取るということは骨抜きにすることにしかなりません。政治でもそうで、保守的でもなくリベラルでもないその中間的な政策といって、具体的にイメージできますか? わたしはできません。政治家が常に真ん中を意識していたのでは、なにも決められないでしょう。
では本来の中道とはどういった意味だったのでしょうか?
そもそも仏教はお釈迦さんが人々を悟りへと導くために教えたその教えです。ですから、中道という概念もあくまで悟りを目指している修行者に対する教えでした。その意味は「極端から離れなさい」というもので、最初に言われたのは極端な苦行も極端な快楽主義もいずれも執着でしかないから、そこから離れよ、というものでした。
これを現代の一般的な理解のされ方で解釈すると、修行者は苦行も快楽もほどほどに味わうべしということになるはずですが、そんなわけがないことはこれをお読みのみなさんなら深く考えずともお分かりのことでしょう。つまり、中道とはそういうことじゃないわけです。
そうではなく、お釈迦さんは「苦行に苛まれるのでもなく、快楽に溺れるのでもなく、そのようなものからは離れ、心身を調和した状態に保ちなさい」と言ったのです。そして、この心身の調和した状態を保ちながら修行を続けるための指針として八正道というものを教えたとされています。右と左の真ん中ではなく、右だの左だのを超越した道、それこそがお釈迦さんの説いた中道でした。右も左も真ん中も、それを主義主張にして自らの立ち位置とした時点でそれは執着なのです。
中観(ちゅうがん)とは?
中道について触れたので、ついでに中観についても少しだけ書いておきます。中観とは龍樹の思想で、彼は「すべてのものは他のものとの関係性(縁起)で成り立っており、それ自体で独立して存在する実体(自性)はない。よって(すべてのものは)空である」と説きました。
さらに、空であることの性質を
不生・不滅(生じず、滅せず) 不断・不常(断たれず、常ならず) 不一・不異(同一でもなく、別でもない) 不来・不出(来ず、去らず)
という八つの「不」すなわち八不(はっぷ)によって表現しました。
ここでは八不について詳しく踏み込むことはしませんが、要するに右だとか左だとかいうものに実体などないのだから、その真中というものも当然に存在しないというのが「空」ということであり、龍樹はこの「空」こそが真の中道だと言ったわけです。わたしも詳しいことまでは不勉強で知りませんが、お釈迦さんの時代の数百年後に生きた龍樹の時代にも、中道という概念が誤って理解されていたのでしょう。龍樹はお釈迦さんの言ったことを訂正したのではなく、より抽象的に、より厳密に言い直したのです。
まとめ
中道という言葉がトピックとなったことにより、政治とは関係なく、この中道という概念があらためて注目されることになってしまいました。中道という言葉の語感や字面の印象には「正しさ」の匂いがついていますが、その匂いにつられて誤った中道思想に囚われてしまう人が増えていくのではないかと、わたしは危惧しています。
もちろん、世の中には「間を取る」ことで丸く収まることはあります。しかしながら、それは結果的にそうなることがあるというだけであって、最初から真ん中を狙っていくというのであれば、それもただの主義主張であって、右や左やと言っているのと同じです。
大切なのは、どんな優れた主義主張であれ、考え方であれ、それは立ち位置であり、執着にほかならないと理解することです。物事と物事の間に中間などというものはありません。なぜなら、どんな物事も空だからです。
おまけ
チョーキューメイは落語「寿限無」に出てくる長久命の長助からきているそうです。
そうそうそれから、フリーレンの2期がはじまりましたね。めちゃめちゃ楽しみです。他には「勇者刑に処す」とFateの新しいやつも観はじめました。もちろんBOSEのヘッドホンで観て(聴いて)ます。
最後までお読みくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。
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