ジョセフ・ルドゥー『存在の四次元』を読んだおじさんが自由意志についてあれこれ言う
たとえば週に一回くらい爪を切るとすれば1年でおよそ50回。そうすると、もうかれこれ2700回(54歳なので)くらいはこの人生で爪を切ってきたのだなあ、ということになる。爪を切るのは面倒くさい。そう感じてしまうのはいままで爪があったおかげで生き延びることができた、というような経験がないからかもしれない。実際のところ爪がないと困るには困るのだろうけど、犬や猫ほどには困るまいとも思える。とはいえ進化の過程において、その最高峰あるいは最先端といってよい現人類であるわたしたちが未だに爪を失っていないのは、それは必要だからなのだろう。
というわけで皆さんこんにちは。先日からずっと体調が芳しくなく(まあわたしの場合は体調不良がデフォルトですが)、それで思い起こしていたんですがお盆の頃にかかった夏風邪って、やっぱりあれは新型コロナだったんじゃないかと。
最近流行しているのはニンバスという型らしいのですが、この型の特徴は「カミソリの刃を飲み込んだような喉の痛み」だそうです。いやいや、カミソリ飲み込んだことねえし! って言いたくなるようなひどい喩えではありますが、でもたしかに、もしあれがニンバスであったのなら「わからんでもない」ってなるほどの激痛ではありました。鏡で喉の奥をみると潰瘍で真っ白になっていましたしね。熱は最高で38.5度くらいでした。咳はひどかったですが、くしゃみは鼻水はなく、あとはひたすら倦怠感が続きました。
ともあれそういった病状は10日ほどで治まって、それから一週間ほどはまあまあ元気だったんですが、しばらくするとまたあの倦怠感がぶり返してきました。熱や喉の痛みはないのですが、咳、くしゃみ鼻水がすこしあります。エアコンの温度は、普段は27度でちょうどいいんですが、それだと寒く感じていまは28度にしています。
おそらくは別の風邪を引いただけなんだと思うんですが、ロングコビッドなどという話も聞きますし、なんだかなあという状況です。あ、ちなみにわたしはワクチンは一度も打っていません。それでこの5年ずっとコロナらしきものには罹ってなかったんですが、罹るときには罹るものなんですね。まあ診断は受けていないので断定はできませんが。
ジョセフ・ルドゥー『存在の四次元 ―意識の生物学理論』
読者様に贈っていただいたジョセフ・ルドゥーの『存在の四次元』を読み終えました。存在の四次元というタイトルからは異次元とか高次元とかいった(わたしの好物の)話なのかな? という印象を受けますが、この本はそういう内容ではありません。
著者のジョセフ・ルドゥーは神経学者で、脳や神経の仕組みと働きに関する分野の、おそらく第一人者のひとりと言ってよい人物です。
そのまま本のタイトルにもなっていますが、本著における『存在の四次元』とは有機体(生物)の存在のあり方には四つの次元があるというもので、それは以下のようなものになります。
1.生物的次元
2.神経生物的次元
3.認知的次元
4.意識的次元
生物的次元は代謝やホメオスタシス、生殖といった生物が生物であるための基盤となる機能の次元です。単細胞生物や原始的(神経を持たない)多細胞生物などは、この生物的次元のみに依拠していますが、その他の動物もすべてこの次元を備えています。
神経生物的次元は脳と神経回路のネットワークの働きによって反射や情動、記憶といった機能の次元です。刺胞動物のような比較的単純な生物から人類まで広範な生物種がこの次元を備えています。
認知的次元は学習、思考、言語といった脳の高次の機能の次元です。意識的な思考や推論はこの次元によって行われます。脳と複雑な神経系をもつ脊椎動物の多く(哺乳類、鳥類、一部の魚類など)がこの次元を備えています。ただし言語は人間特有の機能であり、その点において人間の認知的機能は他の動物たちとは一線を画しています。
意識的次元は文字通り意識的に知覚し、思考し、理解する能力の次元です。ルドゥーはこの次元を人間の言語機能と関連付けていますが、他の動物たち(高等な霊長類や一部の鳥類)にも人間のそれとは異なるものの、意識的次元とみなせるものが備わっている可能性があると考えています。
本書ではこの四つの次元のうち、とくに認知的次元と意識的次元については脳と神経系のどういった部位がどのようにしてその次元の働きを生み出しているかを詳しく解説しています。
さて、こうした分類によってルドゥーは、わたしたちが意識と呼んでいるものが階層的な機能のつながりによって生まれているということを明らかにしています。人間の意識というと普通わたしたちが想定するのはこの中の意識的次元の内容ですが、実際には認知的次元や神経生物的次元の内容も含まれていますし、生物的次元における知覚さえもその基盤となっていると言えるわけです。脳の進化の観点から大雑把にいうと、上の次元の機能はそれに対応する部位が突然出現したわけではなく、下の次元の機能に関わる部位の一部が進化して拡張され、より高次の機能を果たすようになっていたようです。
すると、人間の意識におけるどんな特徴も、たとえそれが見かけ上は他のすべての動物達のそれとはまったく異なっているように見えたとしても、実際にはそうではなく、それぞれの機能の高度化による差異と、高度化したそれぞれの機能が生み出すより高次の機能の有無の違いしかないということが言えます。まあ、その違いが相当大きいとは思いますけどね。ともあれ、ルドゥーの言っていることからすると、すくなくとも人間だけが特別な生物である、ということはなさそうです。
本書においてはこれら四つの次元について順を追って詳しくみていくのですが、その議論は最終的に意識的次元へとたどり着きます。つまり人間の意識について人間独自ではない機能からみていくことによって、言ってみれば外堀から埋めていくことによって、必然的に人間の意識の本質的な部分が最後に残るという構成となっています。そこに至るまでにも非常に示唆に富んだ知見がたくさん散りばめられていて、とても面白いです。もっとも、読むのはなかなかに大変です。
先日記事にしたスタニスラス・ドゥアンヌの「意識と脳」では意識をコンシャスアクセスと彼が呼ぶ脳の状態を意識の定義としており、話題がある程度絞られていたことと、本の大半が実験に関するレポートであったため比較的読みやすかったですが、本書は意識をより広範囲で複雑なものとして捉えており、脳神経に関する話だけではなく心理学や行動学、さらには哲学的な議論にまで踏み込んでもいるので、読み手にそこそこ高いリテラシーが求められます。
ちなみにドゥアンヌのグローバル・ニューロナル・ワークスペース理論は本書においてルドゥー自身によって批判的に取り上げられています。ポイントとしては、やはりコンシャスアクセスと、そのメカニズムといえるグローバル・ニューロナル・ワークスペース理論が扱っているものは非常に限定的な意識の活動ないしは機能に過ぎないということと、この理論における脳内での情報の一斉送信(ブロードキャスト)では主体感覚を醸し出すオートノエシス(自分の過去の経験を主観的に再体験する能力)を説明できないということをルドゥーは述べています。これについてはわたしも同感です。
とはいえ、「意識と脳」を先に読んでいたことは「存在の四次元」を理解するうえで助けになったことも事実ですし、ドゥアンヌの説は限定的であるがゆえ臨床的実効性があり、ルドゥーの説は包括的であるがゆえ大枠でしかないという見方もできると思います。どちらの本も、頑張って読むだけの価値は大いにありますよ。
自由意志のなさ、についての第一の観点
さて、先ほど
人間の意識におけるどんな特徴も、たとえそれが見かけ上は他のすべての動物達のそれとはまったく異なっているように見えたとしても、実際にはそうではなく、それぞれの機能の高度化による差異と、高度化したそれぞれの機能が生み出すより高次の機能の有無の違いしかないということが言えます。まあ、その違いが相当大きいとは思いますけどね。ともあれ、ルドゥーの言っていることからすると、すくなくとも人間だけが特別な生物である、ということはなさそうです。
と述べましたが、このことを踏まえつつ自由意志の問題についてみていこうと思います。わたしは霊的な観点から「自由意志はない」と明確に言っていますが、なぜ自由意志がないかについては何度も語っているものの、わたしたちの現実における「自由意志のなさ」についてはあまり言及していなかったかもしれません。
ここでそれについて簡単に言うと、まず人間はカルマに縛られています。そもそも人間の肉体精神機構(肉体と心)それ自体がカルマの表現型です。ある肉体精神機構は特定の体質と知能とルックスと環境を持って生まれてきますが、これらすべてがカルマです。カルマのことを「プログラム」に喩えてもよいですが、すると肉体精神機構とはこの人生における初期値であると言えるでしょう。
カルマには過去生から引き継いだものも、この人生で新たに生み出してしまうものもありますし、家系や民族といったものから受け継ぐ集合的なカルマもあります。肉体精神機構のプログラムの初期値には後天的に生み出すカルマ以外のすべてが書かれており、その肉体精神機構が人生を生きていくと、これらの初期値にしたがって行動の選択が起こっていくわけですが、その選択の結果が初期値を書き換えたり、あるいは新たなパラメータ(カルマ)を追加させたりします。
これは言い換えるとカルマによる運命論ですが、人間に自由意志がないということの第一の意味はこのことで、自由意志に基づいて選択をしているように見えても、実はその選択はカルマ(運命)によって "させられている" というものです。この観点では、自由意志がないというより、自由意志が制限されていると捉えることも可能です。しかしながら、厳密にいえば制限されている時点でそれは自由意志ではないというべきなんですね。
ちなみに、だとするなら人間はカルマの通りに生きるしかなく、そうなのであればカルマを克服するということは不可能で、何度生まれ変わったとしても毎回おなじ人生になるのではないか? という疑問が出てくるでしょう。しかしながら、自由意志が制限されているということは裏返せば選択には幅があるということです。その幅において統合的な選択を行えばプログラムのパラメータは小さく書き換わります。小さく書き換わるとは、カルマが減る方向へと書き換わるという意味です。そのような選択が積み重なれば意識レベルは上昇し、次第に人生から苦しみが減っていくでしょう。逆に非統合的(分離、分裂的、破壊的)な選択を繰り返せばカルマは増大し、人生はより苦難に満ちたものとなるでしょう。
それぞれの局面においてどんな判断ができるかは、基本的には意識レベルに依存します。つまり、意識レベルが高ければ統合的な判断をしやすく、逆に意識レベルが 200 以下のネガティブな領域を生きている人はネガティブな判断ばかりしてしまい、意識レベルをさらに下げてしまう(=良くないカルマを増やしてしまう)傾向にあると言えるでしょう。ただし、どんな人であれ、突然インスピレーションがやってきて統合的な判断を促されることがあります。これはわたしたちの魂(ハイヤーセルフ)が警告やアドバイスをしてくれているのです。まあでも、こうしたインスピレーションも、意識レベルが高い人ほど受け取りやすい(意識レベルが低い人はインスピレーションがやってきても気づかないか無視しがち)のは言うまでもありません。
ここで以前の記事で紹介したバシャールの言葉を再度引用してみましょう。
Free Will 自由意志
自由意志とは単に、高次意識や肉体意識が選択した目的を実践することです。
Destiny 運命
運命とは単に、皆さんのオーバーソウルまたはより高次な意識部分がその自由意志によって、みなさんが人生の中でどのような出来事を体験するかを選択したことの反映なのです。皆さんの肉体レベルにおける性格は人工的なもので、高次の意識の自由意志の選択には従うものです。この肉体レベルの性格にとっては、高次の意識の自由意志は変更できないものと映り、起こるしかない運命的なものと見えます。ここで理解してほしいのは、運命は高次の意識の自由意志だということです。そして、その運命をどのように満たしていくかという方法論を決めるのが、この肉体レベルにおける意識の自由意志に任された特権なのです。
コンテントとコンテクストの観点でいうと、わたしたちの自我(顕在している心)が自由意志だと思っているものは肉体意識(これは潜在している心のことです)というコンテクストにおけるコンテントであり、それは見かけ上そのように、つまり自由意志であるかのように見えますが実際には肉体意識の意志をメタ的に見てなぞっているだけです。また、自我と肉体意識と、さらに肉体意識のコンテクストとなるアストラル体の意識を総合した「転生体の意識」における意志もまた、そのコンテクストである魂(ハイヤーセルフ、高次の意識)の自由意志の反映(コンテント)でしかない、ということになります。
さきほどの話における「選択の幅がある」とは、バシャールの言い方では「運命をどのように満たしていくかという方法論を決めるのが、この肉体レベルにおける意識の自由意志」ということになります。
ここまではよろしいでしょうか? これが「自由意志のなさ」についての第一の観点となります。
自由意志のなさ、についての第二の観点
自由意志がないとはどういう意味か? についてのもう一つの観点は、生物学的な観点すなわちこれが今回のジョセフ・ルドゥーの「存在の四次元」からも読み取れるものです。ここでは第一の観点の内容はいったん忘れてください。
さて、『存在の四次元』についてすでに述べてきた話を踏まえて、ちょっと考えてみてください。アメーバに自由意志はあるでしょうか? あるいはプランクトンには自由意志はありますか? まあ、ないと考えますよね。そもそも「意志」のようなものがあるとは思えませんし、それがあると考えるために必要な機能を備えた脳や神経といったものが彼らにはありません。
では、昆虫はどうでしょうか? 魚には自由意志はありますか? すくなくとも魚の一部には、なにかを考えているように見えるものも存在していますが、自由意志となると、やはり「ない」と感じられますね?
牛や豚や鹿といった哺乳動物は自由意志を持っているでしょうか? 意志というものは持っているように見えると考える人もいるかもしれませんが、自由意志となるとどうかな? という感じではないでしょうか。
犬や猫はどうでしょう? 人間のそれとおなじではないにしても、彼らにも自由意志は存在していると考えても違和感はありませんね。
では今度は人間にもっとも近いとされるボノボやチンパンジー、ゴリラを思い浮かべてください。彼らには自由意志はあるのでしょうか? ここまでくると、人間に自由意志があるというのであれば、彼らにも自由意志はあるはずだ、と言ってよいかもしれません。
人によって意見が分かれるとは思いますが、このようにして考えていくと、大雑把にいって犬や猫になると自由意志が芽生えてくるように思えそうです。しかしながら、牛や豚と、犬や猫の脳はそれほど違っているわけではありません。むしろ大体おなじです。犬や猫の脳のほうが、高次の処理を司る部分が多少発達していて、それが彼らの行動に複雑さと情動の豊かさをもたらしているに過ぎません。
高等な霊長類においてははっきりとしたオートノエシスを生み出すほど脳(の前頭前野)が発達しているので、自己の感覚(自己の感覚そのものは犬猫にもありそうです)がさらに強まって " 行為の主体 " という感覚を持ちはじめます。この行為主体の感覚こそが自由意志を行使するものであると言えそうです。
しかしながら、オートノエシスもノエシス(過去の経験や知識に基づいて、意識的に思考し、感情を理解するプロセスで、簡単にいうとオートノエシスをメタ認知メタ思考とするならノエシスは普通の認知と思考)も、脳がより複雑で高度な思考をするために、ワーキングメモリーに情報を書き出しつつこれを脳の高次の部位と低次の部位の間で再帰的にフィードバックとフィードフォワードを連続的に繰り返すことで「心のスクリーン」に情報として浮かび上がらせ、" 見える化 " したものであり、その浮かび上がる内容(コンテント)を作っているのは意識下の、あるいは前意識の思考や認知のプロセスです。
分かりやすくいうと、要するに行為主体の感覚も、その感覚がもたらす自由意志もただのコンテントであり、バックグラウンド(背景=コンテクスト)で動いているプロセスの中味を意識のスクリーンに表示させているだけである、ということです。これが顕在している心の機能です。ちなみに、スタニスラス・ドゥアンヌの「意識と脳」にもありましたが、こうしたコンテントの表示におよそ0.5秒先立って、脳のバックグラウンドプロセスが開始されているようです。
この機能は先ほども述べたように、複雑で高度な思考を行うためのワーキングメモリーの機能を脳が獲得したことの副産物です。と同時に、この機能があることで、わたしたちは自分がなにを感じ、考えているのかを知ることができるのですが、それによって他者がなにを感じ、なにを考えているかを推し量ることが可能にもなります。このことを「心の理論」というのですが、ざっくりいうと顕在している心は高度な思考とコミュニケーションを可能にする脳の機能です。しかし繰り返しになりますが、高度な思考については、顕在している心においてそれが行われているのではなく、あくまで意識下のプロセスがワーキングメモリーを使って行ったそれの結果が顕在している心に表示され、わたしたちはそれを自由意志に基づいて行った思考の流れであるかのように感じているだけです。つまり、この生物学的、脳神経学的な観点においても、自由意志はありません。
もっともこの観点においては科学界では現在も盛んに議論されているところであり、一般的にはまだ結論は出ていないと言うべきです。それはつまり、自由意志がないという科学的なエビデンスはまだ見つかっていないということを意味していますが、裏を返せば、自由意志があるという明確なエビデンスもないということでもあります。
ちなみにルドゥーは自由意志についてはこう述べています。
とはいえ私は、人間には行為主体性、いわゆる自由意志が備わっていないと主張したいのではない。私が言いたいのは、数多くの行動制御が非意識的に生じているにもかかわらず、その多くが意識的な自己によるものだと誤解されているという点だ。意識的に制御されている行動と非意識的に制御されている行動を明確に区別することが、今や決定的に必要とされている。
わたしの観点では、意識的に制御されているとみられる行動のすべてが非意識的に制御されています。問題は、見かけ上はそれが意識的に制御されているようにみえるということであり、つまりわたしたちが「あると思いたい」自由意志とは " 見かけ上の自由意志 " であるということです。見かけ上の自由意志があることによって、人生が人生として機能します。すなわち、カルマにチャレンジするという経験が可能になるわけです。
さて、今回はこれで以上になりますが、今回書いたことは『存在の四次元』を読んでみないことには理解しきれないかもしれません。前にも言いましたが、わたしが教える対象として主に想定しているのは意識レベル 400 台の人々です。そういう人たちは科学的な議論の余地がない話には見向きもしません。そのおかげでふわっとしたインチキスピリチュアルに引っかかることがない反面、知性に縛られて目には見えない世界(つまり霊的な話)を受け入れるのも下手くそです。
ですから、こういう内容の記事を書くのは、そういう人たちの知性や理性を揺るがすためでもあります。なので、我こそはと思う人はぜひ、わたしが取り上げる書籍(おまけで取り上げるものはあくまでおまけです)をちゃんと読んでいただきたいと思っています。それでは、最後まで読んでくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。
本を贈ってくださった方には、あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました😉✨️✨️
おまけ
Audible のサブスクに入っている人ならおすすめです。橘玲さんの本は他にも結構たくさん Audible で聴けるんですが、いずれもなかなか面白いです。わりと同じネタを使いまわしている気がしますが、それぞれ文脈は違うのでながら聴きする分にはむしろちょうどよく感じたりもします。
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