エドゥアルド・コーン『森は考える』について考えるおじさんが他にもあれこれ述べる回
こないだスーパーでちょいと大きめのスイカが一玉4,000円で売っていました。高っ!ってなりましたけど、わたしはスイカ食べないのでまあいいかな。果物ではゴールデンキウイを一番よく食べますね。この時期はスモモも好きです。
さて、昨日ようやくエドゥアルド・コーンの『森は考える』を読み終えました。今日はその感想などを書こうと思いますが、その前に前回の記事のおさらいをしておきましょう。
コンテントとコンテクストについて:アドバンストな話
語りえぬものものについては沈黙しなければならない
前回の記事ではホーキンズ博士が用いる「コンテント(内容、中身)とコンテクスト(背景、文脈)」という概念について解説しました。ここでは、これについて一歩踏み込んだ話をなるべく簡潔にしてみます。
なにかをじっくりと見たり、なにかについて考えたりするとき、そのなにかのことをコンテントということはすでに説明しました。そして、なにかがコンテントであるとき、そのなにか以外のすべてをコンテクストと呼ぶということもお話しましたね。
この「なにか」と「それ以外」つまり「コンテント」と「コンテクスト」という二元的なモノの見方は人間の基本的な知覚である視覚(を司る "目" )がそのような見方をするように作られていることに由来しています。それゆえ、人間が二元論で世界を認識していることはある意味で自然なことであり、かつ、この認識の仕方は生きていくうえでは合理的な面もあります。
ところで、コンテクストという言葉には背景や文脈といった意味があるわけですが、例えば「ある事件」があったとします。この「ある事件(内容はなんでもよいです)」がここではコンテントであるわけですが、「その事件のコンテクスト」と書いたら、どんな意味になるでしょうか? それはもちろん「その事件が起きた背景」のことですね。ここで気づかれた方もいるかもしれませんが、「その事件が起きた背景」には内容や中身が含まれるはずです。つまり、「その事件が起きた背景」はコンテクストではなくコンテントだということです。
前回の記事でも、頭(心)の中で物事のコンテクストを捉えようとすると、結局それはコンテントを拡大するだけになってしまう、という話をしましたが、いま述べているのもこのことです。
要するに、そもそも「コンテクスト」という言葉それ自体がコンテントであるということですが、分かりますか? ここでホーキンズ博士の言葉を振り返ってみましょう。
Q:「コンテント(内容/中身)」と「コンテクスト(文脈/状況)」の意味と、このふたつの関係を教えてください。
A:これは、きわめて重要な質問であり、真理へと続く戸口のまさに核心に迫るものです。このふたつは恣意的ですが、視点を表す大変重要な言葉であり、超越するまでは有益なものです。
コンテントは恣意的な焦点であり、そこに含まれるデータや形の送料を指します。コンテクストはコンテント以外のすべての全体性を指し、それは暗示された、あるいは特定の範囲であったり、神や宇宙全体のように、まったく限定がなかったりします。
前回の記事でもコンテントが恣意的に決まるものであることは確認しましたが、実はコンテントが恣意的に決められるとき、同時にコンテクストも恣意的に決まるのです。さきほどの例でいえば、「ある事件」というのはある時ある場所で起きた一連の物事のことを指していますが、言い換えると時空間上の出来事を恣意的に切り取ることによって「ある事件」というものが見えてくるわけです。ポイントは、「ある事件」と言ったときにすでにそのコンテクストも恣意的に決まってしまうということです。
「ある事件」のコンテクストを見ようとするときに100億年前の宇宙の状態から話をはじめる必要はありませんね。つまり、コンテントが恣意的である以上、対応するコンテクストも恣意的にならざるを得ないのです。そして、恣意的である時点でそのコンテクストはそれ自体がコンテントでもある、ということです。
真理というものを(わたしの言葉で)一言でいうとそれは「すべては一つである」というものになります。しかし、『真理』にせよ『すべては一つである』にせよ、それらは言葉である時点でコンテントです。
しかしながら、「すべては一つである」という言葉の真意は「分離しているものはない、分離はない」ということであり、すなわち「コンテントとコンテクストという分離は幻想である」ということを示しています。存在するすべてをコンテントとして含むものがあれば、存在するすべてに対して「それ以外」はありえないので、それはコンテント=コンテクストとなります。
これが「究極無限のコンテクスト」としての真理の表現型となるわけですが、もうお分かりの通り、これらの表現もまたただの言葉であり、つまるところそれはコンテントです。コンテントである以上、こうして語られるとき、そこには「それ以外のもの」つまりコンテクストが想定されてしまいます。なにが言いたいかというと、要するに真理を言葉で言い表すことは不可能であるということです。可能なのはコンテントつまりなんらかの内容(説明)によって文字で言い表せない真理のありどころを指さす(👆️)ことだけです。
ラマナ・マハルシなどの聖者たちが沈黙によって真理を伝達しようとしたのはつまるところ、真理は「語りえぬもの」であるからです。
ですから、本当のことをいうとコンテントとコンテクストという考えは人間の知覚の二元性に気づくために役立つ方便でしかありません。それが博士が
このふたつは恣意的ですが、視点を表す大変重要な言葉であり、超越するまでは有益なものです。
と述べていることの真意です。とはいえ、あらためて強調しておきますが、周辺視野にある桿体細胞にはコンテントを捉える能力がありませんので、周辺視野を使って見る訓練をするとこの恣意的な「コンテントとコンテクストの関係」という二元性を "超越" できる可能性が生まれてきます。だからこの訓練は大切なわけです。
さて、ついでにもう一つ、わたし(だけじゃありませんが)がよく用いている「一体化」という言葉にも触れておきましょう。エゴとの一体化とか、思考との一体化というのがそれですが、コンテントとコンテクストという文脈でいうと一体化とはつまり、コンテントだけしか見えなくなっている状態のことです。
これについてはこのように指摘しておくだけにして、あとはみなさんの方で色々と考えてみてください。思考が止まらない!といって困っている人が多くいますが、思考は止めようとしても止まりません。思考が止まるというとき、それは思考それ自体がエネルギーを失って勝手に止まっているだけです。思考がないと感じる状態とは、実際には思考がないのではなく、どんな思考とも一体化せず心の重心がコンテクスト側にある状態のことです。
問題となっているのは思考と一体化してしまってほかのこと(コンテクスト)が見えなくなっていることです。ですから、そんなときはコンテクストに目(心)を向けるだけで心は解放されます。具体的には周辺視野を使ってモノを見るだけでOKです。
周辺視野を使ってモノを見ながら、そのまま目を閉じてみてください。すると、そうでないときとは脳(心)の感じがいつもと違うことに気づくはずです。この違いが認識できれば、実際にモノを見ているかどうかに関係なく、コンテクストに心を向けることができるようになるでしょう。こういうやり方をバイオフィードバックと呼びます。
エドゥアルド・コーン『森は考える』を読み終えて
すこし前に読者様より贈っていただいたエドゥアルド・コーン著『森は考える』をようやく読み終えることができました。できました、というのは結構がんばったというニュアンスなのですが、それというのもこの本、わたしにとってはめちゃくちゃ難しかったからです。
そも、わたしは人類学についてはだいたい無知といってもよい人間です。一方でこの本はそんな人類学の本のなかでもかなり先端のほうへ行っているようで、これを読みこなすためには最低でも人類学についてのベーシックな理解があることが必要とされる、ことが読みはじめてから分かった次第です。
いままでのわたしなら、そうと分かった時点で作戦を変更し、とりあえずこの本は棚に戻しておいて、人類学に関する入門書的な本を何冊か探してきてそちらから先に読んでいき、しかる後に改めてこの本に取り組もうと考えていたことでしょう。なにかを学ぼうというとき、わたしは大体そういう風にしていますが、誰でもそうかもしれません。
ところが実をいうと今回は「人類学を学んでみようではないか」などと思ってこの本を欲しいものリストに載せていたわけではなかったんですよね。
そもそものきっかけなんですが、すこし前から ジョン・ラム・ラッシュの『偽の神との訣別』という本を仕事中の待機時間に Kindle で読んでいます。これはグノーシス主義についての真実を暴露した本とでも言えるでしょうか、なかなかとんでもない内容であり、めちゃくちゃ面白いです。しかし、これを読むとショックを受ける人が、とくに欧米では多いでしょうね。かいつまんで紹介すると、そもそもグノーシスはキリスト教の異端派などではないということ、聖書に書かれている神とはデミウルゴスとアルコーンという宇宙由来の非生物的な存在が "神のふり" しているものだということ、本当の神といえるのは銀河中心から飛び出して地球そのものへと変容した女神ソフィアであること、などが書かれています。
この女神ソフィアがもたらした智識こそが本当のグノーシス(グノーシスとは "智識" という意味です)だというのが本書の、そしてナグ・ハマディなどのグノーシス文書の伝える核心であるのですが、この女神ソフィアへの信仰がいわゆるガイア理論と絡めて論じられるなかで "ディープ・エコロジー" という言葉が出てきまして、わたしはこれに興味を持ったのでした。
ディープ(深い)・エコロジーというとき、一般的にエコロジーとして理解されているものはシャロー(浅い)・エコロジーと呼ばれ、これと対比して論じられます。簡単にいうとシャロー・エコロジーは人間中心のエコロジーであり、環境は人間の外部にあるものと認識し、なんなら人間が環境を保護できるし保護するべきだと考えているエコロジーです。
これに対してディープエコロジーとは、人間も環境の一部であり、人間が環境をコントロールしようとするのは傲慢であるばかりか、そのこと自体が生命の豊かさと多様性を損なっていると考えるものです。地球中心のエコロジーとも呼べるでしょうか。
興味深いと思ったわたしは、これについて学んでみようと思ってAmazonでディープエコロジーに関する本を探してみたところ何冊かそれっぽい本が見つかりました。それで色々見ているうちに、ある本のページに出てくるおすすめの本をクリックして、またその本のページに出てくるおすすめの本をクリックして、というよくある罠にはまりこんでしまったんですが、それで最終的にたどり着いたのがエドゥアルド・コーンの『森は考える』であったのでした。結論的にいうと『森は考える』は確かにディープエコロジー的側面をもった人類学であると言えますが、ディープエコロジーを学ぶのならタイトルに「ディープエコロジー」と銘打たれた本を読むべきではありますね。
ともあれ、わざわざ話を脱線させて「偽の神との訣別」の話をしたのは、めちゃくちゃお勧めしたいからです。これを読んですぐになにかが分かるということはきっとないと思いますが、知っておいたほうがよいことがたくさん書かれています。特に、アルコーンについては巷では色々と伝えられていますが、そもそもの出処がグノーシス文書であることをこの本の論旨のなかで押さえておくことは大事かなと思います。すぐに買って読むべき、というよりはAmazonのリストに入れておいて「その時がきた」と感じたら読んでみるといいような、そんな本です。ただし誤字脱字というか「てにおは」の間違いや表記の揺れなど、翻訳はプアーです。プアーだけに間違っているとすぐ分かるので、読むのに支障はあまりないとは思いますがちょっと残念ですね。
『森は考える』を読む
さて、話は『森は考える』に戻ります。さきに書いた通り、わたしにはこの本を読みこなすだけの知識と理解が不足していたわけなのですが、今回わたしはその不足を AI (Google Gemini)の力を借りて補おうと試みました。
この本は本論に入る前の序論にかなりのボリュームが割かれていて、そこにはコーンがこの本の内容を人類学においてどのように位置づけしようとしているかや、そのためにどういった論理を展開していこうとしているかなどが語られているのですが、この序論を読むのが一番大変でした。とまれ、この序文をざっと見て分かったのは、チャールズ・サンダース・パースの記号論、ベイトソンの二重記述、テレンス・ディーコンの「創発」といった概念を理解していなければこの本は読めないということです。
そこでまず、Gemini にこれらの人物とその考えについて教えてもらいましたが、これは非常に捗りました。こういう使い方なら AI は素晴らしいですね。自分へのインプットのために AI を使うのは全然アリどころか、使わないと損かもしれません。一方でアウトプットを AI に任せるのは、その精度がどうこうではなく、やめといた方がいいと個人的には思います。理由は簡単にいうと、それをやっているとだんだん頭が悪くなると思うからです。
さてそうやって自分をレベルアップさせてから改めて序文を読むと、なんとか読むことができました。それでも相当大変でしたけどね。というのも、コーンの文章は(英文にはよくありますが)センテンスが入れ子になっている——こうしてダッシュで挿入されるような——ものが多いし、そうでなくても単純にセンテンスが非常に長いので読みにくいのです。翻訳は、たぶんですけどとてもよいのだと思いますが、元の文章がこうだと、かなり大変な作業であったと推察されますね。
序文を読み終えて本論に入る前に、『森は考える』について Gemini とじっくり対話しました。まずは本の要約をしてもらい、それからそれについて色々質問を重ねていったのですが、これによってこの本になにが書かれているのか、だんだんイメージが湧いてきました。ここまできたら、いよいよ実際に本論を読む段です。読み進めながらも、ところどころで分からなくなってきたらまた Gemini に色々聞いて、それでだいぶ時間は掛かりましたが最後まで読むことができたという次第です。
『森は考える』について考える
この本の副題は「人間的なるものを超えた人類学」というものになっています。人類学とは言ってみれば人間的なるものについての学問なのでしょうから、人間的なるものを超えてしまったら、それはもう人類学ではないのでは? と率直に思わずにはいられませんが、そもそも人類学がどんなものかも知らなかったわたしが思うことなんてどうせその程度です。そしてもちろん、そんなわけはありません(でした)。
コーンが試みたのは、人間中心のモノの見方(つまり従来の人類学もそれに含まれる)を解体し、人間がそれ自体に含まれるところの環境と切り離さずに他の生命たちや自然との関わりのなかで「人間とはなにか?」を再び問い直そう、というものでした。
これはつまり、人間というコンテントを環境というより大きなコンテクストのなかに配置しなおすことで人類学を更新しようという試みといえ、その意味でこの本はディープエコロジーでもあるわけです。
コーンは動物たちも「思考している(考える)」と考えます。ただし、人間が基本的に言語という "象徴記号" を用いて思考するのに対して、象徴を理解しない動物たちは "イコン(類似記号)" や "インデックス(指示記号)" を用いて考えます。すなわち、象徴記号である言語を用いるのだけが「考える」ということではなく、記号によってなにかを感じ取り、感じ取った結果として行動し、その行動それ自体が別の新たな記号となって他のものへと伝わっていくという "記号過程" とチャールズ・サンダース・パースが呼ぶものこそが思考の本質であり、その点で思考しているとみなせる動物たちもまた人間と同じように「自己」である、あるいは「自己」を持っているとコーンは言っています。
また、例えば川の流れに生じる渦といったものを「形式」と呼ぶのですが、形式も一種の記号であり、記号過程のなかにあると考えることができます。つまり言い換えると形式も思考しているということなのですが、渦は「自己」ではないので、渦は思考の主体ではなく何者かの思考のなかにあると考える必要があります。そうなると誰が思考しているの? という話になりますが、それが森、すなわち『森は考える』というわけです。まあだいぶ端折りましたが、この本はそういう話を展開しているものです。
読んでいて思ったのは、これは仏教の縁起の考えに近いなということです。縁起においてはすべてのものは互いに関係していて、この関係の連鎖から外れて(分離して)存在しているものは何一つとしてないと考えます。ここから行為者の不在ということも導かれますが、行為者が不在であるということは要するに「誰にも自由意志はない」ということです。つまり、個人は幻想で、当然ながらその個人がしている思考も(本人がしているわけではないという意味で)幻想です。じゃあ、誰が思考しているのかというと、それは全体性であり、無限のコンテクストであり、またそれを神と呼ぶこともあります。
森は考える、においてコーンは記号論を人間以外のものへと拡張することによって、人間や動物や形式をもったその他のものたちのすべてを含む「森」というものが思考していると言ったわけですが、当然ながらこの考えは森の外へと拡張できる可能性のあるものであり、そうするとその先では「地球は考える」、さらには「宇宙は考える」と言うことができるはずです。もちろん、そうなってくると記号論だけで説明することは不可能でしょうし、それこそ人類学とは別のなにかにはなってしまうでしょう。というか、それってつまり縁起を科学的に記述するということですよね。
ちなみに面白かったのは、形式についてのところで「森の主(聖霊的な存在)と人間」の関係と「人間と犬」の関係が同じ形式である、というくだりがあるのですが、そのなかで出てくる「人間が森の主の言葉を聞く(理解する)ために幻覚性物質(アヤワスカ)を飲む必要があるように、人間の言葉を理解させるために犬にアヤワスカを飲ませる」という話でした。具体的には人間に吠えたり噛みついたりする悪癖のある犬に「分からせる」ために犬を縛って無理やりアヤワスカを口に流し込むのです。これは面白くないですか? わたしはちょっと興奮しましたよ!
『森は考える』は読むのにとても骨が折れます。でもそれだけ骨を折って読んでよかったなと思えるくらい面白い本でもありました。贈ってくださった方には改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
ただまあ、お勧めできるかというと「?」ですね正直いって。わたしがどれくらい賢いかはともかくとして客観的にみても簡単に読める本ではないとは思います。人類学や記号論、あるいはディープエコロジーといったものに少なからず興味を持てる人なら読んで損はもちろんありませんが、霊的な探求になにか役立つかというとそういう類の本ではありません。
おまけその① おすすめの Audible
タイトルには組織という文言があるのでいわゆるビジネス書かと思ったら違いましたし、ぶっちゃけ組織論というわけではなく、単に事例として挙げられているものに組織による失敗が多いというだけです。しかし、そんなことはどうでもよく、この本はめちゃくちゃ面白いです。Audibleとして紹介していますが、紙の本や Kindle で買ってでも読んだほうがよいです。そしてこの本は霊的探求というか、意識レベルを向上させたい人にとっても恩恵のあるものです。
この本でももちろん言っていますが、失敗そのものよりも、失敗を認めないこと、受け入れないことが問題なんですよね。
失敗を認めることができない理由は色々とありますが、探求においていえばそれはやはりプライドの問題です。例えば10年瞑想を続けたけど、覚醒も悟りも起こらなかった時、「瞑想は自分には向いていなかった」とか「瞑想なんかやったって無駄だったな」などと言う人がいたとします。でも本当にそうでしょうか? そうではなく「自分は瞑想を10年もやったのに覚醒に失敗した」と言うべきではないでしょうか?
ラマナ・マハルシに会いに行ったが覚醒や悟りが起きるような恩寵は得られなかったと語る人がいたとします。彼は「ラマナ・マハルシから恩寵をいただくことに失敗した」と言うべきではなかったでしょうか?
奇跡講座のワークブックを一年間続けられなかった人、あるいは続けたけど自分の望むような変容が起こらなかった人は、いずれも失敗したのではないでしょうか?
なにが言いたいかというと、自分は失敗した、すくなくともやり方が間違っていたと認めて誤りを修正しない限り、成功はありえないということです。たったそれだけ。でもプライドの高い人あるいはプライドのアトラクターの影響を強く受けている人は、これができません。失敗を認めることなしに他の道、他のマスターへとあちこちフラフラしたところで、それはずーっと失敗し続けているだけです。本人はそんなつもりではないでしょうけれども。
霊的な探求における厳然たる事実は、探求者のほとんどは覚醒や悟りに至らないまま人生を終えるというものです。結果論でいえばそれは、この人生で果たすべきカルマをすべて果たせなかったからということになるのですが、別の言い方をすれば単に失敗したということです。しかしながら、探求者がほかの誰かから「あなたは失敗している」と言ってもらえる機会はほとんどなく、それどころか意識レベルを偽った自称マスターに「あなたはいい線いっているよ」などとおだてられていい気持ちになってしまいがちです。
それは気の毒なことではありますが、とはいえ必要なのは他者から指摘されるまえに自らの失敗を失敗として認識し、それを受け入れることです。失敗したまま死ぬか、さもなくば今ここで失敗を認めるか、二つに一つです。
この本のなかでは「認知的不協和」の話が探求者にとっては特に重要でしょう。本当に面白いですよ。ぜひ読んでみてください。
おまけその② 最近聴いているもの
これにはDaft Punk の二人もニッコリ!? 癖になって毎日3回は聴いています。
それでは今回はこれで以上です。お読みくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう😉✨️✨️
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