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識別力とは? 直感あるいは直観とは? (コンテントとコンテクストの話の続き)

セブン・イレブンのクッキーがめちゃめちゃ美味しい件

うちの最寄りのセブン・イレブンでセブンカフェベーカリー(お店でドーナツやパンやクッキーやピザを焼いてくれる)が導入されてるんですけど、チョコクッキーがまじで美味しいです。ちょっと前までMARUIの地下にあるカスカードというパン屋さんのスコーンがお気に入りでしたが、最近はもっぱらこればかり買ってます。全国展開ではなく地域限定のようなので、移動の際に見かけたら必ず絶対に食べてみてくださいね。ちなみにさっきも食べました😋

ちなみにドーナツは普通です。正直あえて買いに行くほどではないですが、近くにドーナツ屋がないならアリでしょう。あと、ピザはマルゲリータしか食べてませんが、チーズもそこそこいいものを使っているし生地の食感も悪くないので、スーパーで売っている冷凍のピザよりはワンランク上の美味しさと言えます。ただ、一枚1000円近くするので、この値段出すなら味がちょっと落ちてもスーパーの冷凍ピザで十分だよなあ、と個人的には思ってしまいました。メロンパンやフィナンシェはまだ食べていません。


識別力とは?

霊的なスピリチュアルな文脈において "識別力" というとき、それは真実と虚偽を識別する能力のことを指します。意識レベル 600 (覚醒)以上で測定される人物、すなわちいわゆる覚者とは、この識別力を持ち備えている人と理解してもよいでしょう。覚者が覚者なのは、単にスピリチュアルな教えに詳しいからとか、よく理解しているから、というわけではありません。

順を追って説明すると、物事の真偽(真実か虚偽か)を知覚によって識別できるようになる霊的成長の段階が "覚醒" です。そして、覚醒の段階に到達した肉体精神機構を指して "覚者" と称します。覚者という言葉は霊的探求の文脈において比較的よく用いられますが、そもそも覚醒とはなんなのかを正しく理解していない人がほとんどのように見受けられます。

なぜ真実と虚偽を識別できる段階が覚醒なのかというと、この段階において意識(心)はコンテントとコンテクストという分離を超越するからです。つまり、二元性の超越が覚醒の真の意味ですが、ではなぜ二元性を超越すると真実と虚偽を識別できるのでしょうか?

ここで前々回の記事で使った図を再掲します。

コンテントは話の内容や、ある人物や、ある問題といったもので、要するに心が焦点を合わせている対象のことです。コンテクストとはその焦点となっている対象以外のすべてのことですが、話の文脈、人物のバックボーンや置かれている環境、あるいは問題の背景といったように、コンテントに応じてコンテクストも恣意的に決まります。このコンテントとコンテクストという理解はあくまで二元性の中の話ではありますが、ほとんどの人の意識(心)はコンテントにしか向いておらず、それゆえコンテクストに心を向けること、すなわちコンテクストを意識することは二元性を脱するために必要な、かつ、効果的なエクササイズです。ここまではすでに述べた話です。

さて、そうすると二元性を超越するとはどういうことになるのでしょうか? それは、コンテントとコンテクストを "統合" するということです。統合とは「ひとつにする」ということですから、コンテントとコンテクストを別々のものと見ないで、一つのものとして捉えるということが、二元性の超越ということになります。そして、知覚において二元性が超越されるとき、それを覚醒と呼ぶわけです。つまり、覚醒した人物、すなわち覚者の意識(心)においてはコンテントとコンテクストという分離は基本的に存在しません。覚者は全体性を見ており、すべての現象は全体性がそれ自体のなかで起こしている変化であるというように認識しています。

ただし、意識レベル 600 の段階ではまだ意識(心)は時折コンテントとコンテクストの二元性に立ち戻ることがあります。それは "意識レベル 600 の人物" の果たすべき機能における必要性によるものですが、つまりこの段階の人物はまだ社会の枠の中で普通の人として暮らしていることが往々にしてあり、その立場で機能するためには二元性でものを考えたり、人と話したりする必要があるからです。意識レベル 700(悟り)において覚醒は完全なものとなり、その状態を悟りと呼びます。とはいえ、覚者はいつでも全体性の視座に復帰することができるので、彼は常に完全な識別力を持っています。

さて、コンテントとコンテクストを超越するというところに話を戻しましょう。先ほど述べたように、ほとんどの人(意識レベル 499 以下)は基本的にコンテントしか見ていませんが、この段階においては意識レベルに応じて相対的にコンテントが拡大していきます。例えば同じ物事(例えば政治の特定の問題など)について、意識レベル 200 の人物にとってコンテクストである事柄(つまりこの人には意識されていない事柄)が、意識レベル 300 の人物のコンテントには含まれるということです。しかしながら意識レベル 300 の人も自分が認識しているコンテントの外側のことは見えていません。同様のことが、意識レベルが 500 に到達するまでは続きます。ちなみにここでは例として政治の特定の問題としましたが、この話はその人の心の使い方全般のことだと考えてください。人によっては政治について専門的な立場の場合もありますから、そういうケースは別とします。

意識レベルが 500 を超えると、単にコンテントが拡大するだけではなく、そのコンテントの外側に常にコンテクストが存在していることが意識されるようになっていきます。500 は霊的なレベルのはじまりであり、「目に見えるものだけがこの世界のすべてではない」ことが直感的に理解できるようになる段階です。この理解はコンテクストに意識が向かうことと同義です。つまり、「世界の目に見えない部分=真のコンテクスト」ということです。

ここで単純ながら重要なことを述べます。先ほどの図をもう一度見てください。コンテントとは常に部分ですね。そしてコンテクストはそれ以外のすべてです。つまり、コンテント+コンテクスト=全体性です。これがなにを意味しているかというと、コンテントは常に情報を欠いているということです。

覚醒に至らないほぼすべての人は全体性をみることができません。意識レベル 499 以下の段階では(意識レベルに応じて拡大しているとはいえ)コンテントにしか意識が向いていないため、なんであれ物事が真実か虚偽かを識別するには情報が決定的に足らないのです。もちろん数学的問題の解の真偽といったことは別ですよ。例えば、「トランプ関税は正しいのか?」という問いに対して、ほぼすべての政治家は答えを出せませんが、自分の立ち位置に沿って正しいとか間違っているとか言っています。色々な意見が出ていることそれ自体が当事者の誰にも識別力がないということを示しているわけです。

ちなみに、意地悪ですがこの問いに答えはありません。なぜなら問いそのものが間違っているからです。トランプ関税について判断したいなら、どの国の、社会的階層におけるどの立場から見て正しいのか? その場合の正しいとは具体的になにを指しているのか? また短期的にはどうか? 長期的にはどう評価できるか? といったことを厳密に問わなければなりません。つまり、問題をどのようなコンテクストに置いて見るか? ということをまず考えなくてはいけないわけですが、当事者にはコンテントしか見えていないのでそのような話にはならない=識別できない、ということです。

要するに「識別力がない」とは、「識別するための情報を(常に)欠いている」ということです。ここまではよいでしょうか?

意識レベルが 500 を超えると意識がコンテクストを捉えるようになる、と先ほど述べましたが、これはつまり、コンテントをどれだけ拡大させても情報が100%になることはないという理解と言いかえてもよいでしょう。そして、この理解がコンテントに欠けている情報を知性(あるいは理性)というフィルターを通さずに心へと直接もたらしはじめます。これが識別力の芽生えです。


直感とは? 直観とは?

直感とは、直接感じることです。直接とはどういうことかというと、五感を通さずに、ということです。人がなにかを感じるのは基本的に感覚器官を通してです。ですから直感とは、感覚器官からの情報ではなく、ものごとをありのままに感じるということになります。

直観とは、まあ直感と同じことではありますが、こちらは直接観る(見る)ことです。ですから、肉体の目を通してではなく霊的な目で見るということになりますが、霊的な目といったってそのようなものがどこかに存在するというわけではありません。単に、ものごとのありのままを視覚的に見抜くということです。

要するに直感も直観もニュアンスがちょっと違うだけで、どっちでも別によいです。ただ、どちらかというなら直感のほうがより汎用的に使えると思いますので、わたしは直感という言葉を基本的に使っています。

さて、いましがた「意識がコンテクストに向かうと、コンテントに欠けている情報が知性をスルーして心に直接やってくる」というようなことを書きましたが、これが "直感" です。すなわち、直感こそが識別力の正体なのです。

わたしがみなさんに勧めている "IF(直感的フィールド)" は、意識の重心をコンテントからコンテクストへと移動させ、それによって直感を呼び起こし、全体性を把握するためのエクササイズとして考案したものです。つまり、言い換えるなら IF は識別力を養うためのトレーニングでもあります。このように書くと、話がつながってきたように感じる人もいらっしゃるかもしれませんね。

さて、話はあと少しです。このようなコンテクストにおいてなら、意識レベル 500 は直感のレベルだと言ってもよいでしょう。ただしまだ直感はたまにやってくるくらいで、日常的にそれを識別力として活用できるほどではないことも事実です。

意識レベルが 540 を超えると、意識の重心あるいは軸足は完全にコンテクストの側へと移行します。この状態は「意識が思考と一体化していない状態=気づきのある状態」と同じものを指しています。このレベルになると、どんなときにも直感は常に働いています。したがって、意識レベル 540 の人には識別力がある程度あると言えます。意識レベル 575(聖人のレベル)では、ほぼほぼ完全な識別力があらわれます。

そして先ほどお話したように、意識レベル 600 において識別力は完成します。意識レベル 600 とは二元性を超越するレベルであり、このレベルではコンテントとコンテクストの分離がなくなり、全体性(そこにはすべての情報がある)にアクセス可能になるのです。『パワーかフォースか』を読まれた人なら、キネシオロジーテストそのものの真実性が 600 で測定されているという事実をご存知でしょう。これはつまり、キネシオロジーテストにおいて働いているのは覚者の識別力とおなじ力であるということです。

霊的探求をずっと続けていると、あるときふと「ところで自分はなんのために探求していたんだっけ?」と自問自答する局面にであうかもしれません。探求の初期においては「覚醒とか悟りとかくそヤベえな、ワイもそんなんになりたい」といったエゴ丸出しの動機からはじまるものですが、やがて「覚醒する "誰か" などいない(行為者の不在)」などといった話を聞き及ぶに至って「え、なんか思ってたんと違うやん」となり、「で、結局どうなるんやこれ」という行き詰まりに陥り、そして上の「ところで自分は」の疑問に至るわけです。知らんけど。

結局のところ、そういった段階においてさらにどんな統合的な動機を持ちつづけられるか?(例えば単純に周りの人々をすこしでも幸せにしたい、など)が、その先の成長があり得るかどうかを決めているんじゃないかな、とわたしは思うのですが、とはいえどうなるもこうなるもよく分からないのでは、なかなか難しいようにも感じます。

そこで、それならば、というわけではないのですが「識別力を獲得する」ということを動機にしてもよいと思うわけです。識別力はなんでもかんでも分かる、知ることができるという能力ではありません。端的にいうと「それ(なにか)が統合的かどうか」を判定できるというのが識別力です。したがって、基本的には例えば目の前で話している相手の言っていることが統合的か、統合的だとしてどれくらい統合的かが分かります。これはその人の意識レベルがどれくらいであるかが分かるということとほぼイコールですが、そうなるためには当然ながら意識レベルについての深い理解が必要です。

わたしは読者さんの質問に答えていますが、それができるのは識別力があるからにほかなりません。わたしには知識も経験もありますが、そういったものがどれほどあったところで大した意味はないのです。というのも、質問自体の統合性を識別できるだけでなく、自分が書こうとしている回答の統合性をも識別できなければ、こんなことはそもそもできっこないからで、知識や経験というものはそれができて初めて役に立つのです。

識別力があれば、他者の動機(人間がする意味のある言動は常になんらかの動機を伴っています)が分かるようになります。すると同時に、自分がどう接するべきか、あるいは接するべきでないかの判断もつくようになります。もちろん、それはそのときのあなたの意識レベルに応じた判断にはなりますが、そもそも識別力が多少なりとも発揮されるレベルでは、その判断に基づく行動は必ず統合的なものになるはずです。したがって、それは周囲にポジティブな影響をもたらします。結果として、周囲の人々を幸せにできるでしょう。そのようになることを目指して探求を続けることは、自己中心的ではまったくありません。

ただし、これはちょっと横道にそれた話ですが、「利他的な人間」を目指すのはよくありません。利他的な行動は、利己的な行動よりはもちろんよいと言えますが、いずれも自他という分離に基づいた動機から出る行動です。他者を利することをよいことだと考えているうちは、いずれ利すべき「よい他者」と利すべきでない「悪い他者」をその目に見てしまうでしょう。

大切なのは「統合的な行動」です。自分(コンテント)と他者(コンテクスト)、あるいはある他者(コンテント)とそれ以外の他者(コンテクスト)といった分離的な視点ではなく、自分も他者も全体性の一部であるという統合的な視点にたち、そこから行動することです。識別力が養われていくと自然とそのようになっていくでしょうけれども、あえて言うとそれは「親切であること」と言えます。親切にすること、ではありません。親切であること、です。

今回はこれで以上になります。読んでくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。


おまけその①

ルパート・シェルドレイク博士の「形態形成場仮説」はホーキンズ博士もアトラクターフィールドの概念の解説のなかで触れていますが、探求者のみなさんにとっても知っておくべき重要なものの一つだと思います。

さらに詳しく知りたい人はこの本を読まれるとよいでしょう。


おまけその②今期のおすすめ

『ディメンションW』の岩原裕二先生が原作です。わたしは原作漫画でずっと読んでいますが、めちゃめちゃ面白いです。おすすめ。プライム・ビデオで観られますよ。

ちなみに前期の「アポカリプスホテル」は最高でした。OP の aiko の『skirt』がめっちゃ変な曲なのにだんだん癖になると話題になっていましたが、50代おじさんのわたしからしたら aiko はデビュー曲からずっとこんなんだけどな、と思うわけです。ともあれアポカリプスホテルは観たほうがよいです。


おまけその③声が好きすぎる

やくしまるえつこの声からしか摂取できない栄養ってあると思うんですよね。昔、悪いクスリに溺れていたころに相対性理論が登場して、あのときは(色々な意味で)ぶっ飛びましたね。相対性理論の頃は、素朴といってよいギターとベースとドラムのシンプルな楽曲だからこそやくしまるえつこの声が引き立つのだとちょっと思っていましたが、まったくそんなことはなかったです。むしろメトロオーケストラのようなリッチな音のほうがぜんぜんいいですね。やくしまるえつこのいる世界線に生きていることは僥倖だと思っています。

ちなみに Laura day romance の井上花月さんの声もめっちゃ好きです。

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