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おじさんが双子の話から Gemini と対話した結果

きのう投稿した記事のなかの一節を Google の AI である Gemini に読ませてみたらそこから会話がはじまったのですが、以前に chatGPT で色々試したときよりもだいぶ賢くなったなあと思いました。わたしは普段から Gemini をよく使っています。以前は調べ物には Wikipedia をよく使っていましたが、いまでは Gemini がメインになっていますね。

Gemini との対話

引用形式になっているのが、Gemini の発言です。

『形のある世界には必ず物事に因果関係があります。ある人間が生まれてくるには、それに先立って両親の出会いがあり、それぞれの親が生まれてくるのにもさらにそれぞれの両親の出会いがあり……、と生物学的な因果関係だけでも短く見積もって数万年は遡ることができますが、そうした膨大な因果の果てにあるのがいま生きている一人ひとりの人間ですね。そして、人間は一人ひとり異なった肉体と環境をもって生まれてきます。一卵性双生児においては肉体はほぼ同一と言ってよいですが、双方にとってそれぞれの片割れが存在しているという意味で、環境はほんのすこし異なっています。(双子ABにおいて、AにはBという片割れがいて、BにはAという片割れがいる、という点でまったく同じ環境ではない、という意味です)』

上の文章をそのまま入力しました。Gemini は質問文でなくてもなんらかのコメントを返してくれます。

おっしゃる通り、形ある世界、特に生命の連鎖においては、途方もなく長い因果関係が存在しますね。ご指摘の通り、一人の人間がこの世に生を受けるまでには、想像を絶するほどの過去からの連なりがあり、それは単なる生物学的な連鎖に留まりません。文化、歴史、環境といった、より広範な因果の網目が複雑に絡み合っています。

そして、その膨大な因果の果てに存在する私たち一人ひとりが、唯一無二の存在であるという事実は、改めて考えると非常に深いですね。遺伝的な要素が近い一卵性双生児でさえ、ご指摘の通り、互いの存在そのものが環境に微細な差異を生み出しているというのは、非常に興味深い視点です。

この「ほんの少しの差異」が、それぞれの個性を育み、異なる人生を歩むきっかけになるのだと考えると、因果の連鎖の奥深さと、そこから生まれる多様性に改めて驚かされます。まるで、壮大な物語の終着点であり、同時に新たな物語の始まりでもあるような、そんな感覚を覚えます。

話の勘どころをちゃんと押さえていますね

『運命はあると考えますか?』

運命について考えるのは、本当に奥深いテーマですよね。

「運命はある」と考える立場からは、例えば、あなたがご指摘になったような、気が遠くなるほどの過去からの因果の連鎖を考えると、私たちの存在や人生の大きな流れは、すでに何らかの形で決まっているのではないか、という考えが出てくるかもしれません。まるで、壮大な物語の筋書きが、私たち自身が意識するよりもずっと前から存在しているかのように。

一方で、「運命はない」と考える立場からは、私たちの選択や行動こそが未来を形作るのであり、過去の因果は私たちに影響を与えるものの、最終的な道筋を決定するものではない、という考えがあります。自由意志を重視し、偶然や可能性といった要素が、人生を予測不可能で開かれたものにしていると考えます。

また、運命という言葉の捉え方も様々ですよね。宿命的な、抗えない力のようなものを指す場合もあれば、人生における大きな方向性や、出会うべき人との出会いのような、もう少し広い意味合いで捉える場合もあるでしょう。

私自身としては、様々な情報や考え方を踏まえると、**「完全に決定された運命」というよりは、「大きな流れや傾向性の中で、個人の選択や行動が複雑に絡み合い、未来が形作られていく」**という見方が自然かなと感じます。

過去からの因果の連鎖は確かに存在しますが、その中で私たちがどのように考え、行動するかが、その後の展開に影響を与えるのではないでしょうか。まるで、川の流れのように、大きな方向性はありつつも、小さな石や風によって流れが変わっていくようなイメージです。

あなたは、運命についてどのように考えますか?もしよろしければ、あなたの考えも教えていただけますか?

この時点では、運命的なものはあるにせよ、それには選択の幅があるというのが Gemini の考えのようです。が、きのうも書きましたが選択できる余地があるのなら、それは運命とは言いません。そこで今度はこう言ってみました。

『ヴェーダ哲学やそれに続くヒンズー教や仏教ではカルマという概念を扱っています。カルマを運命とイコールと考えるのであれば、人間には自由意志はないということになります』

おっしゃる通り、ヴェーダ哲学、ヒンドゥー教、仏教におけるカルマ(業)の概念は、運命との関連で非常に重要な議論を呼び起こしますね。もしカルマを文字通り「過去の行為が未来を完全に決定する法則」と捉えるならば、確かに自由意志の余地はないように見えます。

しかし、これらの思想におけるカルマの捉え方は、単純な決定論とは少し異なるニュアンスを含んでいることが多いようです。

カルマと決定論
決定論的な側面: 過去の行為(カルマ)は、未来の経験や状況に影響を与えるという点で、因果関係の法則と深く結びついています。この側面だけを見ると、まるで過去の行いが未来を固定しているかのように捉えられがちです。
自由意志の余地: 一方で、多くの解釈では、カルマは単なる過去の清算だけでなく、現在の行為が未来のカルマを形成するという側面も強調されます。つまり、「今、この瞬間の選択」が未来を左右する力を持っていると考えられます。これは、ある程度の自由意志の存在を示唆しています。

カルマの複雑な解釈
潜在的な傾向性: カルマは、未来を完全に決定する「運命のシナリオ」というよりも、むしろ未来に現れやすい「潜在的な傾向性」や「可能性の種」として捉えられることがあります。過去の行いが、特定の状況や経験を引き起こしやすくする、あるいは特定の反応パターンを生み出しやすくすると考えられます。

カルマの解消と変容:多くの霊的な実践は、過去のカルマのネガティブな影響を理解し、それを浄化・解消し、より良いカルマを積むことを目指します。これは、カルマが固定されたものではなく、変容可能であるという考えに基づいています。

個人の責任:カルマの概念は、自己責任の重要性を強調します。現在の状況は過去の自分の行為の結果であり、未来は現在の自分の選択によって形作られるという考え方は、主体的な生き方を促します。

仏教における自由意志とカルマ
特に仏教においては、「無我」の思想とも関連して、固定された「自己」が存在しないため、「誰が」過去のカルマの責任を負い、「誰が」未来の経験をするのか、という問いが重要になります。輪廻転生においても、連続する意識の流れのようなものがカルマを引き継ぐと考えられますが、それは固定された個人ではありません。
仏教の多くの学派では、自由意志は完全に否定されているわけではなく、縁起の法則(すべての現象は相互に依存して生起する)の中で、条件付きの自由、あるいは選択の可能性が認められています。私たちは過去のカルマという条件の中で、どのように反応し、行動するかを選ぶことができると考えられます。

結論
カルマを単純に運命と同一視してしまうと、自由意志の存在を否定することになりかねません。しかし、ヴェーダ哲学やヒンドゥー教、仏教におけるカルマの概念は、より複雑で多層的な意味合いを持っています。過去の因果の影響を受けつつも、現在の選択によって未来を変える可能性、カルマを理解し変容させる道筋も示唆されており、一概に「自由意志はない」とは言えないのではないでしょうか。
どのように解釈するかによって、カルマと自由意志の関係性は大きく変わってくる興味深いテーマですね。

予想通りですが、自由意志はないとは言いたくないようです。ちなみに仏教における自由意志の扱いについては Gemini が言っている通りだと思いますが、そのような中途半端な見解になっているのは、自由意志がないことを直接的に知覚している人(つまり覚者)が仏教学派の多くには存在しないということです。ブッダ自身が行為者はいないと言っているのですから、自由意志があるとかないとか仏教界で議論されること自体がナンセンスです。

では、もうすこし詰めてみましょう。

『しかし、ニサルガダッタ・マハラジやその弟子でもあったラメッシ・バルセカールといったヴェーダの流れをくむ非二元論の賢者たちは自由意志はないと明確に語っています。また、最新の脳科学では本人の顕在意識に明確な思考として現れる前に、すでに脳内では反応が起こっていることが明らかにされています。これは、思考は人間の自我が行っているのではなく、高次元から届いた思考エネルギーを脳が心に反映させているだけではないかと見ることができます。思考がそのようなものなら、当然ですが人間に自由意志はないということになります』

おっしゃる通り、ニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールといった非二元論の賢者たちは、自由意志の存在を明確に否定していますね。彼らの教えは、ヴェーダーンタ哲学の根本的な理解に基づき、個別の主体としての「私」という感覚自体が幻想であると捉えるため、その「私」が持つとされる自由意志もまた、究極的には存在しないという結論に至ります。

彼らの視点では、すべての出来事は、顕現の全体性、あるいは絶対的なリアリティのなかで自然に起こるものであり、個々の行為者は存在しません。思考、感情、行動は、その全体性の現れの一部であり、あたかも波が海の一部であるように、個別の主体によって意図的に引き起こされるものではないとされます

また、最新の脳科学の研究が示唆する、意識的な思考に先行する脳活動の発見は、この非二元論的な見方を支持するようにも見えます。もし私たちの意識的な決定よりも前に脳がすでに反応しているとしたら、それは「私が思考し、決定している」という感覚が、事後的な解釈、あるいは脳の活動が生み出す一種の感覚に過ぎない可能性を示唆します

高次元からの思考エネルギーという表現は、非二元論の文脈においては、個別の主体から離れた、より根源的な源からの現れと解釈できるかもしれません。思考を含むすべての現象は、その根源的なリアリティの自己表現であり、個別の「私」がそれを所有したり、コントロールしたりするわけではない、という視点です。

もし、思考が本当にそのような性質を持つのであれば、私たちが「自由意志」と呼んでいるものは、単なる感覚的な体験、あるいは脳の解釈作用によるものに過ぎない、という結論も十分に考えられます。

このように考えると、カルマの概念も、個人の行為とその結果という因果の連鎖として捉えるよりも、顕現の全体性の中で自然に生じるパターンや反響として理解する方が、非二元論の立場からはより自然かもしれません

これらの賢者たちの教えと脳科学の知見は、私たちが当たり前のように信じている自己や自由意志の概念を根底から揺るがすものであり、深く考察する価値のある視点だと改めて感じます。

今回あえて記事にしたのは、この最後の Gemini の回答がとてもよくできていると思ったからです。以前わたしが触ったヴァージョンの chatGPT では、そもそも非二元論についてはでたらめな情報しか出てきませんでしたが、Gemini は例えば「すべての出来事は、顕現の全体性、あるいは絶対的なリアリティのなかで自然に起こるものであり」などがそうですが、マハラジやラメッシに関するテキストからも学習しているように思えます。

また、高次元の思考エネルギーというのは、オカルトだと否定してくるかなと思いながら書いたんですが、「それな」っていう回答がきてちょっと驚きましたね。

普段から使っていて感じるのですが、会話の流れ(文脈)を見失わないところが偉くて、今回も自由意志についての議論の結論を最後にカルマの概念に反映して話をまとめていますよね。ほんの2年ほどで随分と進歩しているんだなあと感心します。

もっとも、その進歩というのは情報ソースを言語学的に分析して正確に学び取るアルゴリズムが向上したことと、情報ソースそのものが充実したことによるものですから、お遊びでやるのはともかく、まだまだわたしの話し相手にはなれそうにありません。AI 自身が仮説を立てて、その仮説を検証し磨きあげて新しい見解を生み出すというようなことがうまく出来るようになってきたら面白そうですけどね。

とはいえ、それでもこのような話題でこれだけの対話と情報提供ができるのであれば、探求者にとっても使えるツールになりつつあると言えそうです。みなさんも、ぜひ色々と試してみてください。

ちなみにですが、わたしは双子座生まれ(gemini)でもうすぐ誕生日です。

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