『自我というコンテント』と立ち位置について
日中はまだまだぜんぜん涼しいという感じではないですが、わたしが仕事に出かける午前4時頃だと2週間ほど前と比べて明らかに気温が下がってきています。はやく秋になって欲しいですね。そういえば嗅覚のほうは完全に元に戻りました。おかげでコーヒーが美味しいです。
ちょっと古い話になりますが、例の大災害の予言があった7月5日の早朝に某ハンバーガーショップに商品をピックアップしに行ったんですが、いつもその時間帯にいるインド人の女の子が「きょう地震来るのか ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル」って言ってきて、めっちゃビビっている様子でした。予言では地震とは明言されてなかったと思うんですが、ちょうど直前に鹿児島の方で群発地震が続いていたこともあって地震が来るぞ! ということになっていたんでしょう。日本で暮らしていても日本人が関心を示していることにまったく興味を持っていない外国人(マッサージ屋で働いていたときには中国人やオーストラリア人、ベトナム人も同僚にいました)もいますが、日本人とおなじように予言を気にして心配している姿にはちょっと親近感を覚えました。
ちなみに数日後にまた会ったときに「地震こなくてよかったね」と声を掛けると「めちゃくちゃ怖かったー!」といって笑っていました。ほっこり。
コンテントとコンテクストの話のまとめ
さて、ここ最近の記事ではずっとコンテントとコンテクストの話を続けてきましたが、今回はそれらの記事の内容を踏まえつつ、話をさらに進めていきたいと思います。要点としては人間にとって(苦しみの原因であるという意味で)最大の問題は「自我」であるということです。でもその前に、コンテントとコンテクストの話を整理しようと思います。
コンテントとコンテクストという観点において、まずその観点の出どころは人間の基本的な知覚(自然な知覚)のしかたにあるということを改めて強調しておきます。人間の知覚が「なにか」を把握するとき、それは焦点を向けた「なにか」を「なにか以外のすべて」から「切り出して」います。たとえばコップがあるとします。それをコップという物体であると把握するには、コップらしき形状の物体と、環境に存在しているコップらしき形状のもの以外のすべてに「境界線」を引く必要があります。
ある人物を実際に目で見たり、あるいは心の中で思い浮かべるときも、おなじ知覚の仕組みが働いています。ある人物を視覚的に、あるいは認知的に他の別の人物と区別することによって、はじめてその人物を知覚の対象とすることができるわけです。
つまり、人間の知覚は全体性の中から部分を切り出して対象化することによって、それについてよく観察したり分析したりコメントしたりすることを可能にしています。これは人間が人間らしく活動するために必要な基本的な仕組みであり、この仕組みがモノに名前をつけることを可能にし、言語を生み出しています。
しかしながら、この人間の知覚システムは必然的に「なにか以外のもの」を認識から取りこぼすことを避けられません。この取りこぼされるものがコンテクスト(文脈/背景)であり、つまり人間はコンテクストの抜け落ちたコンテント(内容/中身)についてばかり考えてしまう生き物だということが言えます。
すでに触れたように、コンテントに目を向けることには利便性があります。しかし、この利便性はコンテクストを省略することによる利便性ですから、万能ではないどころか、制限が非常に多いものです。端的にいうなら、コンテクストが抜け落ちたコンテントには決定的に情報が不足しています。あとで本題のところでも述べますが、人間存在におけるコンテクストである " 意識 " に対するコンテントである " 心(自我)" はそれ自体が「限定的な情報の集合体」でしかないがゆえ、物事をただしく識別する能力(識別力)を欠いています。
いわゆる "無知" とはこのような自我の本来的な情報の欠如のことを指しています。つまり、自我を実体のあるものとみなしている限り、人間は基本的に間違い、またその間違いを正すことができず、苦しみ続けるしかありません。悟りや覚醒といった境地が苦しみからの解放であるとされるのは、この境地において心は自らが単なるコンテントでしかないことを見破り、無限のコンテクストへと自らを明け渡すことによって無知を克服する(=識別力を獲得する)からです。
ここまでのことは、以前の記事でお伝えしてきた通りです。今回は自我をさらに顕在意識と潜在意識とに区別するところから、コンテントとコンテクストの関係をより高い次元へと展開してみます。これも以前の記事で書いたことではありますが、今回はさらに詳しくみていきます。
まず、自我(心)は顕在意識と潜在意識とに区別することができます。そのように区別した場合、顕在意識は心のコンテントであり、潜在意識は心のコンテクストであると言えます。コンテントはコンテクストとの関係において "幻想" であり、見かけ上の形でしかありません。一方、コンテクストは "本質" であるといえ、実体はコンテクストの方です。
さて、顕在意識がコンテントであるとするなら、わたしたちの思考や感情といったものもすべてコンテントであり、そうしたものは実は潜在意識が自らを「知り、経験する」ために生み出しているということになります。これは、究極のコンテクストである意識(神あるいは全体性)が自らを「知り、経験する」ために個別的な意識である魂を生み出したことと相似形をなしています。
の記事において、
ここで本題に入る前に述べたコンテントとコンテクストの話に立ち戻りますが、わたしの言いたいことはこうです。つまり、大いなる意識が自らを経験するために個別的な意識としての魂を創り出したように、個別的な意識である魂は自らを経験するために(肉体と)心を創り出した、ということです。魂の経験を見ているのが大いなる意識としての神であるように、肉体精神機構の経験を見ているのが魂です。「上がかくあるように、下もかくあり(As above so below)」というエメラルド・タブレットの言葉にあるとおりです。
と書きましたが、この文章は言葉足らずで、「魂の経験を見ているのが大いなる意識としての神であるように、肉体精神機構の経験を見ているのが魂です」という部分は「魂の経験を見ているのが大いなる意識としての神であるように、肉体精神機構の経験を見ているのが魂であり、顕在意識の経験を見ているのが潜在意識です」と書くべきでした。書き終えてから気づいていたのですが、そこで訂正するよりも、こうして続きの記事のなかで取り上げたほうがよいと思ってそのままにしてありました。
さて、そのように訂正したうえで人間存在におけるコンテントとコンテクストの関係をより詳しくみてみましょう。
人間存在におけるコンテントとコンテクストの関係
顕在意識(コンテント)+ 潜在意識(コンテクスト)= 心(自我)
心(コンテント)+ アストラル体の意識(コンテクスト)= 転生体の意識
転生体の意識(コンテント) + コーザル体の意識(コンテクスト) = 魂(個別的な意識)
魂(コンテント) + 神(究極のコンテクスト)= 神(コンテントとコンテクストが分離していない)
顕在意識から神へと、コンテントとコンテクストの関係を追いかけていくと、上記のようになります。魂と神との間には、おそらく集合魂とでもいうべきより高次の魂が存在していると思いますが、ここではそれは省略します。
コンテクストに対するコンテントは常に幻想であるので、究極のコンテクストである神以外のすべては幻想です。でも、こうして書いてみると分かるように、それぞれのコンテントに対応しているコンテクストは、その次元においては幻想ではなく本質的です。
心がアストラル体というコンテクストへと明け渡す段階、つまり「転生体の意識」に目覚めるところが意識レベル 500 を示唆します。さらに、転生体の意識が「コーザル体の意識」へと流れ込み、魂を通して神(全体性)へと明け渡す段階が覚醒や悟りといえます。
ここまでで、コンテントとコンテクストについての話はおしまいです。今回の本題は、ホーキンズ博士の『 I <わたし> 真実と主観性』の第3章 霊的浄化 の箇所より、「自我」の基本的な構造について取り上げることです。ここまでの部分では、そのための足がかりとして、まず自我がコンテントであることを確認してきました。
この第3章 霊的浄化 の内容は非常に重要(この本の内容はすべて等しく重要ですが)です。というのも、霊的浄化とはつまるところ探求者がやるべきことのすべて、であるからです。霊的に浄化されるとは、意識が統合的に進化することであり、意識レベルが飛躍的に上昇することとイコールであるといえば、わたしがことさらに重要であると強調する理由が分かっていただけると思います。この章はぜひ何度も立ち返って読み直してください。今回の記事では、そのなかの自我についての基本的な言及について取り上げます。
自我について
" ハート "、" 心"、" 行為 " の偉大な道の核心は、それが明け渡しのプロセスであるということです。このプロセスは、意図とやる気のある態度によって活性化されます。あなたのあらゆる思考、感情、衝動、想念、信念を明るみに出し、それからそれらを神のものとへと解放し、明け渡します。すべては幻想であり、プログラムであり、記号です。そして、これらが澄みきった「自己」の意識を妨害しているのです。
ハートの道とはいわゆる帰依の道、信仰の道のことです。バクティ・ヨーガとも呼ばれます。心の道は智慧の道、ジュニャーナ・ヨーガのことです。行為の道は善行の道、カルマ・ヨーガです。一般的にはこのうちバクティ・ヨーガのことを「明け渡しの道」ということが多いのですが、実際にはどの道も最終的に神(全体性)へと明け渡すことがゴールとなるので、目指すところは同じです。ハートの道は明け渡すことそのものが修行なので、この道が明け渡しの道と呼ばれているわけですが、ジュニャーナの道(アドヴァイタ・ヴェーダーンタもそうです)においても最終的に自我が幻想であり、誰も行為者ではなく、誰にも自由意志はないということを発見するので、ジュニャーナもバクティも同じなのです。つまり、明け渡しとは行為の主体(行為の著者)の座を神へと返すことであり、自由意志を放棄する(最初から自由意志などありませんが)ことです。カルマ・ヨーガについては詳しくないので触れませんが、この道だけ他の道とは違う場所にたどり着くわけがありません。
また、あらゆる概念、想念、イメージ、記憶、あるいはファンタジーも知覚の産物です。こうした障壁はすべてラベル付けをし、価値判断と立ち位置を生み出します。受け入れるもの/受け入れがたいもの、正/誤、賛成/反対、善/悪など、すべてこれに当てはまります。こうした概念は、複雑に絡み合った微妙な意味合いや言葉を無数に生み出し、結果として、永遠にそこから抜け出せなくなってしまうのです。
ここで述べられているのは要するに心というものは幻想のコンテントの集合体であるということですが、「立ち位置」という言葉に注目してください。あとで見ていきますが、立ち位置とは文字通り立っている場所のことです。例えば「わたしは芸能人である」というのは立ち位置の表明ですが、わたしは芸能人だと言うとき、「わたしは芸能人以外の何者かではない」と言外に言っているわけですね。つまり、立ち位置もコンテントです。人間の心つまり自我はこうした立ち位置の集合体であると言え、同時に自我そのものが大きな立ち位置でもあります。
このとめどもなく流れる精神のコンテント(内容/中身)は、その源をつきとめることができます。絶え間なくあふれ出るこの泡の源を断ち切らないかぎり、無数のデータが流れ続け、その源と目的が何なのかが分からなくなってしまいます。そして求道者は、万華鏡のようなコンテントの渦から逃れようと必死にもがきながらも溺れてしまい、ついに失望してしまうのです。
精神のコンテントの源とは、自我の基本的な立ち位置のことで、このあとで触れていきます。ここでは、コンテントは例外なく決定的な情報を欠いたデータであることを思い出してください。分からない(情報を欠いている)ものをどれだけ増やしたところで分かることはありません。コンテントの追求の先には失望しかありません。探求者がどれだけたくさんの本を読み、どれだけ瞑想を積んだとしても、コンテントしか見ていない限り、見つかるのは新たなコンテントしかありません。
意識の全体的なコンテントを調べてみると、この膨大な量のどこまでも広がる走馬灯のようなコンテントを霊的に浄化するのは不可能であることが明らかになります。意識のスクリーンに写し出されるのは、記憶やイメージと絡み合った、終わりのない精神や感情の産物です。これらはみな知覚と立ち位置が生み出した二元性なのです。
思考のコンテントを解明しようとしても余計に混乱し、その試み自体が自動的にさらなるコンテントを創出してしまいます。しかし、幸いなことに自我/心/自己が支配する状態を変えるための別の方法があります。それは、コンテントの代わりにコンテクスト(文脈/状況)に視点を置くという方法です。
コンテントからコンテクストへと視点を切り替えることは線形的な領域から非線形領域へと視点を切り替えることであり、通常の視点を霊的な視野に置き換えることを意味しています。もっとも簡単でもっとも効果的な方法は、すでにお伝えしているように周辺視野を鍛えることです。IF はその延長上にあるエクササイズです。
はじめに解消しなければならない錯覚は、「心」というものが存在するという信念です。しかし実際は、思考や感情、イメージ、記憶がとりとめもなく意識に浮上していることしか体験していないのです。つまり、「自我」と同様、「心」という言葉もただの概念にすぎません。
自我も心もとくに区別する必要は、ここではありません。どちらにせよ、それは幻想であるということです。わたしたちが心だと思っているものは、単に意識のスクリーン上に浮かび上がっては消えていくものの集合体であり、それに実体はありません。つまり、「わたし」とか「あなた」といったものはただの観念、概念でしかないということです。
ここでいう「自我」とは、あなたが個人的に体験している現実やアイデンティティを表す思考の集合体のことです。そして、あなたはこの思考の集合体や信念を役立つものだと信じています。しかしそれは、あなたの存在と活動(思考や感情を含む)の " 原因 " として、個人的な自己という幻想を維持するためにあるのです。繰り返しますが、 " 自我 " は思考のプロセスの自己防衛的な集合体です。したがって、自我は霊的な誤りの元凶だと言えるのです。
自我が霊的な誤りの元凶である、というのはつまり、そもそも自我(という実体)などないのにそれをあると思っていることが根本的な誤りであるという意味です。
また「自我」という言葉の意味として重要なのは、自我の根底をなしているのがプライドと自己陶酔性(ナルシシズム)であるということです。そして、この自己中心的な自我に対して、わたしたちは無意識的に罪悪感を持っています。また自我は、心理学用語では一般的に生存的な価値の意味合いを含んでいます。治療では、患者は " 弱い " 自我と低い自尊心という問題を抱えているとされるかもしれません。逆に、「自己中心性」や「利己主義」は自我の肥大化を表します。
霊的な観点では、「自我」はネガティブな特質を意味し、その線形的な二元性が悟りの障害になると考えられています。しかし心理学では、自我は世界の中で効果的に機能するために必要な対処/生存のスキルだと解釈されています。
「弱い自我と低い自尊心」という表現はここでは生存を脅かす問題であるというニュアンスで用いられています。自我が弱い、あるいは自尊心が低いというと「エゴが小さい」というふうに受け取られがちですが、それはちょっと違います。実際、このような人の意識レベルが高いかというと、そんなことはありません。
意識レベル 200 以下の領域では生命エネルギーが自分自身の生存にも足りていないのですが、自尊心が低い人、例えばうつ病を罹患している人はその足らないエネルギーを医師や医薬品、カウンセラーあるいは家族などの近しい人から補給してもらわないとさらに悪い状況へと陥ります。一方、同じ領域でもエゴが強いと言われるような人、例えばプライドが高く暴力的で邪悪な人物は他者を支配したり他者から搾取することによってエネルギーを奪っています。いずれのケースでも、問題になっているのは自我の状態であって、自我の自己中心性が内に向けて問題となっているか、外に向けて問題となっているかの違いがあるだけです。
他者のエゴ(自我)については小さい/大きいとか、強い/弱いといった見方で判断するよりも、統合的か非統合的か、あるいは調和的かそうでないかを見たほうがよいでしょう。
自我の構造
自我は思考や感情やイメージといったコンテントの集合体であり、かつ自我それ自体がコンテントです。自我を自我足らしめている基本的な構造があり、それをホーキンズ博士は " 立ち位置 " と呼んでいます。
立ち位置とは、思考機能全体を動かし、そのコンテントを起動する構造です。
《立ち位置の基本原理》
1.想念は、有意義で重要なものである。
2.対立するものの間には分離線がある。
3.著者であることには価値がある——思考は大切である。" わたしのもの "だから。
4.考えることはコントロールのために必要で、生存はコントロール次第である。
あらゆる立ち位置が、ここに示されている基本原理の上に成り立っています。これらをまとめていえば「自我である "わたし" は行為(思考)の主体であり、それゆえ自分の考えること(想念)は重要であり、この想念によって "わたし" の生存はコントロールされている。また、 "わたし" とわたしでないものの間には決定的な境界がある」という感じになるでしょうか。この原理を強化してくれる考え(想念)はなんであれ立ち位置として新たに追加されていくのですが、これによって自我はどんどん肥大していくわけです。
自我が基本原理とする立ち位置
1.現象は善か悪か、正しいか正しくないか、正当か不当か、公正か不公正かに分かれる。
2." 悪 " は罰され、" 善 " は報酬を受けるに値する。
3.物事は偶然に起こるか、さもなければ誰かのせいで起こる。
4.心はうそか本当かを識別し、理解することができる。
5.世界が当人の経験をつくり、決定する。
6.人生は不公平である。なぜならば、罪のない人々が苦しむ一方で、悪人が罰せられないからだ。
7.人は変わることができる。
8.正しくあることは、重要で必要なことである。
9.勝つことは、重要で必要なことである。
10.間違いは正さなければならない。
11.正義は勝利を得なければならない。
12.知覚は真理を表している。
先ほどのものは「立ち位置の基本原理」で、今度のものは「自我が基本原理とする立ち位置」です。ややこしいですが、立ち位置の基本原理とは「立ち位置となるものはすべてこの基本原理にかなっている」というもので、そうした立ち位置の中でも自我が自我として振る舞ううえで基本的な原理となっている立ち位置が「自我が基本原理とする立ち位置」です。
これらはどれも、あながち間違っているとは言えないように感じられるかもしれません。しかし、これらはすべて虚偽です。ではなぜ正しいように感じられるかというと、それはあなたの自我がこのステートメントを基本的な立ち位置としているからです。といっても、それはあなたの自我だけの問題なのではありません。誰のどんな自我も、すべてこの立ち位置に立っているのです。
では一つ一つ見ていきましょう。
1.現象は善か悪か、正しいか正しくないか、正当か不当か、公正か不公正かに分かれる。⇛ すべては一つであり、どこにも分離はないので、これは善でこちらは悪といった二元的な評価はすべて幻想である。
2." 悪 " は罰され、" 善 " は報酬を受けるに値する。
⇛ 1.と同じで、善悪は恣意的な評価でしかない。
3.物事は偶然に起こるか、さもなければ誰かのせいで起こる。
⇛ 出来事(なにかが起こること)は知覚によって起きているように見えるだけで、それは全体性がそれ自体のなかで起こしている変化の一部を切り取って見たコンテントに過ぎない。
4.心はうそか本当かを識別し、理解することができる。
⇛ 出来ません。
5.世界が当人の経験をつくり、決定する。
⇛ 経験は当人の心がつくるもので、意識レベルとカルマによって決まる。
6.人生は不公平である。なぜならば、罪のない人々が苦しむ一方で、悪人が罰せられないからだ。
⇛ 罪のない人々や悪人といった評価は誰がどのようにして行っているのか(恣意的である)。また、人生が不公平だという考えの裏側には「人生は公平でなければならない」という考えが存在しているが、そう思うのは自由であるにしても、それが正しいということはできない。
7.人は変わることができる。
⇛ コンテントである自我のことを人とみなしている限りにおいては、変わったように見えても依然としてそれはコンテントすなわち幻想がすこし違って見える別の幻想に変わるだけである。※心がコンテクストを見るようになって意識レベルが変容するという意味においては人は変わることができると言えるが、このステートメントはそのような意味では言われていない。
8.正しくあることは、重要で必要なことである。
⇛ 「正しくある」も「重要」も「必要」もすべて恣意的で二元的な概念である。
9.勝つことは、重要で必要なことである。
⇛ 8.と同じ
10.間違いは正さなければならない。
⇛ 単純な事柄についてはその通りとも言えるが、そうでないケースにおいてはある人にとって「間違い」であることは別の人にとっては「正解」であったりする。同様に、間違いを正すというときの「正す」は、物事を誰かにとって都合のよいように変えるという意味であったりする。
11.正義は勝利を得なければならない。
⇛ やはり同様に、誰かにとっての正義は他の誰かにとっては悪かもしれない。さらに、この立ち位置は「敗者=悪」という立ち位置を肯定しかねない。
12.知覚は真理を表している。
⇛ これは要するに「自分の見ているものが真実だ」というステートメントである。そしてそれはその意味においては正しい。というのも、誰であれその人が知覚しているものは、その人にとっては真実であるからだ。しかし一方で、ほとんどの人は知覚それ自体が真理を歪めている。※真理と真実を混同しているがゆえの誤った立ち位置でもある。
今回はここまでとします。この記事を読まれたら、続いて『 I <わたし> 真実と主観性』の第3章の今回引用しなかった部分もぜひ読んでください。この立ち位置の話が第3章「霊的浄化」のなかに置かれているということは、要するに「すべての立ち位置を放棄しなさい」ということです。放棄とは明け渡しのことですが、この章は全体としては明け渡しについて書かれた章です。
あわせてお読みください
この記事では自我の構造についてさらに詳しく解説しています。転生体についても、この記事が初出です。
立ち位置については、この記事でも触れています。すでに読まれた方も、今回の記事を読まれたうえで再読してみてください。すると立ち位置についてよりよく理解できると思います。
おまけ
銀杏BOYZ 『夢で逢えたら』
実はわたしが一番好きなアーティストが銀杏BOYZ(とその前身であるGOING STEADY)でして、食べ物に例えるならカレーです。ほかに同じくらい好きなのは小沢健二ですが、オザケンは天ざるです。大好きですがそんな頻繁には食べなくて、やはりカレーのほうがよく食べるわけです。
ここでおまけとしてよく紹介しているのはたいてい女性シンガーか女性ボーカルのバンドですが、それらはひとまとめで「お菓子」です。お菓子とカレーとどっちが好きやと聞かれたらそれはもちろんカレーなんですが、お菓子はなにがしか毎日食べますからね。
銀杏BOYZ からどれか一曲となると、正直いって決められません。一番好きな曲はたぶん「銀河鉄道の夜(ゴイステ版)」ですが「エンジェル・ベイビー」や「BABY BABY」もカラオケでめっちゃ歌うし、「援助交際」や「SCHOOL KILL」のような昔のちょっとヤバ目な歌詞の曲も銀杏らしくて最高ですよね。
というわけで、夏の終わりのいまだからこの曲になりました。もちろん大好きな曲の一つです。この曲は銀杏BOYZのよさが全部詰まっていて、ちょっと出来過ぎに思います。たぶん、誰が聞いてもいい曲だなと思ってもらえると思うんですが、どうでしょう。
というわけで、最後まで読んでいただいてありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。
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