2026年に必要なことは『質問力』という武器
年末年始にAI(Gemini)を使って考えをまとめる時間をとることができた。これは以前にnoteに投稿したこちらの記事に従う行為だ。
結論としては時間をかけて、手間をかけて問い続けることが肝要だという内容になっている。
AIの活用については同世代の様々な分野で仕事をしている人と議論をしている。多くの場合、拙速に便利な道具として考えることを放棄してAIに任せるような使い方に対して否定的だ。
これは思考プロセスを重視するタイプの交流が多いための偏りだと感じているが果たして実際はどうなのだろうか?
これは重要な問いである。その答えを得るためのよい質問とはどのようなものだろうか。質問の質が低いと得られる答えはチープになる。質問がより具体的であることは重要ではあるが、ではその具体性を質問に入れ込むためには何を、どうすればいいのだろうか。
少し話題を変えよう。
よく当たる占いがあるとしよう。占いの的中率と専門分野のコンサルによるアドバイスとどちらがより有益な答えを導き出すのか。
しかしここで占いとコンサルと同列に並べて比較することが適当であるかどうかを考える必要がある。
もっとも占いで多いのが「恋愛」、コンサルは「IT」と「効率化」に偏る。


占いとコンサルとどちらが有用なのかという比較そのものが決してよい質問ではないことがわかる。仮にともに「恋愛」の占いとコンサルを比較しようとしても、それぞれが統計で使うサンプリング数にかなりの開きがあるだろうし、そもそも「恋愛」という極めてパーソナルな問題が解決可能であるかどうかも確証がない。
問いとしては有意義だが、問題は質問の方法、質ではないだろうか。
例えば、もっとも得意な分野の有効性を比較するのであれば占いは「恋愛」、コンサルは「効率化」を比較してどちらが有用であるかという質問であれば、有意義な答えが出ると言える。
質問の解像度が低いと、求めていた問いへの解答は得られない。
皆さんは初詣には行っただろうか? 僕は毎回おみくじを引き、吉凶を占う。

これは吉報だ。しかし僕の経験上、大吉が出た年は必ずしもいいことばかりではないし、悪いことと差し引いたらちょっとプラスくらいの感覚だ。それでも気分は上がる。
おみくじはよくできていて、大吉に書かれていることを読むと、決して万事うまくいくとは書いていない。要約すると「慢心せずに励め」ということになる。
占いでもコンサルでも、「慢心せずに励め」というのは真理である。なんでもイケイケでは息が切れる。よく成長なき企業は衰退と変わらないと言われるが、コンサルはあくまでも潤滑油のような役割でしかなく、コンサルにすべて任せばうまくいくなんてことはない。そういう話はあっても中には怪しげなものも存在する。気が付いたら犯罪の片棒を担がされていたなんてこともある。
人はそれは利益が大きかったときは占いやコンサルのおかげだと思い、マイナスが出たときにも同じように責任を転嫁しがちだ。数字も占いもコンサルも時に嘘をつく。右肩上がりの数値はいつか停滞するという事実を恐れるのか、備えるのか、つまりは主体の態度で結果は変わるわけだ。
さて、本題に戻ればつまりはAIも同じだということ。世の中にAIの活用術があふれている。それで効率化は測れるかもしれない。それでできた余剰リソースで何をするのかが競争で言えば差になる。
そしてそこまでAIに頼るというのであれば、AIを使っている層の中で差は生まれない。使わないで放置するのもよくないが、頼り切るのも害悪だという話になる。
しかしだからと言って結局は独自のセンスや発想がある人々が圧倒的に有利かと言えばそうではないだろうと考える。
必要なのは「よき問い」と「質問力」だ。
まだAIを活用していない人に「いい話し相手にはなるから試してみて」と勧めていた時期がある。しかし、これには落とし穴があることに気が付いた。それは「質問力」の個人差だ。
僕は普段からPCを活用し、いわゆるIT企業に勤めている。PCには正しい命令をしなければ求めた解は返ってこない。だから正しい指示をする。AIも同じだ。求めている答えに最短で応えられるように質問を工夫する。時には雑談を交えて、こちら側のスタンスをAIに見せつける。覚えさせる。
それによってAIの予測精度は格段にあがり、こちらが見落としていたポイントも指摘してくるようにまでなる。
具体的な悲しい話をするのであれば、恋愛の相談をAIにした結果、最悪の結末を迎えた例を、僕は知っている。
彼女は僕と同じように文章を書くことが好きで、それだったらAIを活用するといいと勧めた。彼女はうまく使いこなしているように見えたが、それを恋愛の相談に使ったとき、彼女は使い方を誤った。
彼女は自分のことを知ってもらいたかった。それは恋愛に限らず、人間関係において重要なことだ。彼女が期待した結果が対象者から得られないときに、複数のAIに「質問」をして、その回答の中からひとつを採用した。
そのこと自体は是非もないのだが、彼女はそのプロセスを彼につまびらかにした。これは恋愛に限らず、ご法度だ。
しかし彼女には自分がどれだけつらいのか、それについてどう解決すべきかのアドバイスを複数もらって、今はこう考えて行動していると説明をした。知ってほしかったのだ。
しかしこれはミスだ。相手は彼女がつらいという気持ちは理解できても、それを何者かに相談して、それに従って行動していますという話は聞きたくもないはずだ。
たとえそれが占いであっても、恋愛コンサルであっても、友達であっても、AIであってもである。
おそらく彼女はこのように質問したのだと思う。今までの経緯と自分がどう感じたのか、どうしたいのかを質問し、アドバイスを受けた。その中には彼とのことは諦めたほうがいいというアドバイスもあれば、素直に自分の気持ちを打ち明ければいいというものもあっただろう。
結果、彼女は素直に相手に全部打ち明けてしまった。
これは悲劇である。もし質問のしかたが違っていたら、結果はかわっていたのかもしれない。それがAIでも占いでもコンサルでもである。どうすれば自分の気持ちを分かってもらえるかという質問では、この問題は解決しないだろうと僕は考える。
彼女は好意を持っている相手に自分を理解してほしいと望んだ。それはいい。しかし彼女が解決すべき問題は、どうやったら理解してもらえるかではなく、これまでのどんな態度が相手にとって不満だったかという分析とそれを解決する方法、相手との接し方だ。
相手にとって「これは喜ぶはずだ」「喜んでほしい」とが執着になり、相手の気分や行動原理、タイミングや表現方法、ありとあらゆるこれまで「これでいいだろう」と思って行動してきたことの見直しが必要だった。
「自分のこういう行動が、相手に与える影響を、相手のリアクションから想定される彼の思考パターン、趣味趣向を分析し、齟齬がどこにあるのかを教えて」といった質問ができていたのなら、結果は少し違っていたと思う。
ただし、これは僕の考察であって、それなりの長い付き合いから導き出した最適解でしかない。つまり、起きた事象から得られる「もっともらしい推論」でしかない。
それはAIも占いもコンサルも同じである。
AIの活用については同世代の様々な分野で仕事をしている人と議論をしている。多くの場合、拙速に便利な道具として考えることを放棄してAIに任せるような使い方に対して否定的だ。
これは思考プロセスを重視するタイプの交流が多いための偏りだと感じているが果たして実際はどうなのだろうか?
この問いについて、僕がAIにしろコンサルにしろ、質問をするのであれば以下のようになる。
クリエイティブな仕事をしている仲間と議論すると、AIは検索や要約には便利だが、思考プロセスまで任せるのは抵抗があり、一般論を提示させるのみにとどめるべきだという意見が目立つ。
会議の議事録をまとめることでも、自分でまとめれば聞かれても即答できるが、AIに任せてしまうと議事録を読み直さないと回答できないなど、仕事に置いての自分の価値と効率のバランスが課題であると言える。
そこでこのような考え方はAIを活用している人の中で少数派なのか多数派なのかを知りたい。また、世代ごとの違いも示せ。
さらにどんな活用がされているかも世代ごとに示せ。
といった質問をするだろう。ただし、この内容はもっと対話を繰り返し、質問の内容を深めていく形のほうが、より精度があがるというのが僕の経験則だ。それは人でも同じで、質問は前提を定義し、そのうえで一問一答の流れにした後に、AIに全体を要約させるのがいい。
欲を言えば、要約の後にテクノロジーの活用の今後の展望や過去の歴史から今の人類がどのようにAIテクノロジーと接するべきなのかと言う議論もやるといいだろう。
よき問いはさらなるよき問いを生む。その方法としての質問力を強固することは、効率性ではなく質を高め、それを繰り返すことで効率はさらに上がると考えられる。
これは常に議論をする友人を持つのに近い。ただしAIには直観が備わっていないということを認識し、できるだけAIが議論から情報を統合し人間の直観に近い予測をできるようにすれば、心強い味方にできる。
逆に議論を深めずに問いだけを重ねても、玉虫色の解答しか返ってこない可能性に留意すべきなのだ。
さて、ある意味ここからが本題なのだが、では人と人とは「よき問い」と「質問力」をどのように磨くのだろうか。
SNSはそれに向いているとはいいがたい現状だ。対立と分断を助長していると言える。また模範となるべきマスメディアはどうだろうか。彼らの「質問力」は模範となりえるだろうか。
さらに言えば国会とは最も「質問力」が問われる場であるはずだが、聞こえてくるのは、「よき問い」でもなければ「質問力」を感じるような質疑が行われているかは大いに疑問がある。
2026年が『分断と対立をどのように解決するか」という課題の年だとするのであればそこで問われるのは「質問力」であると僕は思う。
最後に、よく占いは『当たるも八卦、当たらぬも八卦』という。それは占いは外れることもあるので、そこに責任を持たせすぎるのはよくないという意味で語られることが多い。
しかしこうも考えられる。占いを成就させるか否かはそれを受けた人の態度にかかっていると。どんなに大吉が出たところで「果報は寝て待て」を決め込んではいいことなどないだろうし「イケイケで責める」に徹するのも筋がよくない。
どんなことにも疑問を持ち、問い続け、その時の最適解を求める。そしてまた問い、質問の質を上げていく。これがなければ当たるものも当たらないのではないだろうか。
質問力の向上こそ、もっともらしい結論に不可欠ではないだろうか。
そして場を整えなければ――すなわち議論の前提を整えなければ、馬の耳に念仏、或いは釈迦に説法になってしまうことにも注意が必要だ。そこまでいかなくても、他人の議論がかみ合っているかどうか、聞き分けることができるようになるだろう。
