【妙香異聞抄】第八話:サンダルウッドを、もう一度
平日夕方の店内に、一人の男性客が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
光路はチラリと目線をやり、軽く会釈する。
わざわざ改まった礼はしない。「今日は何をお探しですか?」と、こちらから訊くこともない。
ここは百貨店ではないのだ。「店側も客側も気負わず、ゆったりとした時間を過ごしてほしい」。それが店主の方針である。
「…………」
男性は端から順に、棚を見て回っている。
光路は意識だけそちらに向けつつ、お香に関する本とにらめっこする。香りの知識はまだまだだ。分類、効能、相性の良し悪し……そういったものを知っておかないと、客を怒らせる事態に発展しかねない。
たとえ光路の胸元に「研修中」のバッジが付いていようとも、だ。
「すみません」
男性客に声を掛けられ、光路はハッと顔を上げる。
「仏壇にお供えするお線香を探してるんですが……この商品とこの商品は、何が違うんでしょう?」
彼の手には、2種類の「白檀」のお香が握られている。
要はサンダルウッド。光路がこの店・妙香堂に初めて辿り着いた時、店主が焚いてくれたのと同じものだ。
「あっ、えっとですね、」
一気に心拍数が上がる。席を立って男性客の隣についた光路は、たどたどしい説明を始めた。
「見ての通りお値段は、こちらの黒い箱の方がやや高価になっております。インドの……すみません、メモを見ますね……インドの南部地方で産出された、最高級の白檀を使用しているからです。もちろんその分、香りの良さはお墨付きです」
「ふむふむ」
「こちらの茶色い箱の方は、日本のブランドです。合成の香料を使っていないため、香りは穏やかかつ上品です。黒い箱のものより10g多く入っていて、お値段や手軽さではこちらをおすすめします」
――よかった。どうにか切り抜けられた。
値段の安い方を選んだ男性がカウンターにやって来る。光路はすっかり安心し切った状態で、原始的な手打ちのレジスターに料金を入力する。
「お会計、2,400円です」
「…………?」
男性客は、光路の顔とレジの表示を何度か見比べてから……やがてフフッと小さく笑った。
「ゼロを1つ多く打っていますよ、日下部さん」
◇◇◇
「そんなに落ち込まないで、元気出してください」
「…………」
「日下部さ~ん……ダメですね、完全にカタツムリになってます」
5月。世間はゴールデンウィーク真っ只中。光路が妙香堂でアルバイトを始めてから、ちょうど3週間になる。
仕事の基本のキは覚えたということで、一度腕試しをしてみよう。リンはそう言うと、一般客を演じつつ、光路に接客・商品説明・レジ打ちまでをやってみるよう指示したのだ。
「本当に途中までは素晴らしかったんですよ? さり気ない挨拶も、分からない時は遠慮なくメモを見る姿勢も。後は……何か、日下部さん自身が気を付けていた点はありますか?」
「うぅ……えっと……」
カタツムリ、いや光路は、伏せていた状態からようやく顔を上げる。
「商品説明の時、なるべく伝わりやすい言葉を選ぶようにしました。専門用語を使うと、逆に分かりづらくなると思いまして。
例えばこの商品。『インドはマイソール地方の最高級品』と書いてありますが、そんなことを言われても、マイソールってどこ? と感じてしまいますよね。だからこそメモを確認して、『インドの南部地方』と言い換えたんです」
「ああ、そういう意図があったんですか!」
リンは小さく手を打った。
「些細ながら親切な配慮ですね。僕も見習うとしましょう」
「そ、そんな! リンさんが私から学ぶことなんて……」
「いえ、大切なことですよ」
恐縮する光路に対し、リンは穏やかに言葉を紡ぐ。
「『教える』とはつまり、自分の来た道を見返す行為。僕は今あなたを通して、過去の自分自身を見ているんです。それでも僕とあなたは違う存在なので、きっと僕が考えもしなかった疑問を抱いたり、気付きもしなかった工夫をしたりするでしょう」
「…………」
「だからその都度教えてほしいのです。あなたが何に疑問を抱き、何を工夫したのか。その度に僕もまた、自分が歩んできた道を振り返り、あなたの言葉に答えますから」
「つまり……お互いに教え合い、学び合う関係でいたい……ということですか?」
「その通り! これからも僕にたくさん『教えて』くださいね、日下部さん?」
悪戯っぽくウィンクしてみせるリン。
「えへ、えへへ……」
心がすっと軽くなる。光路もつられて照れ笑いを浮かべた。
『調子に乗るなよ、小娘』
と、その時。熨斗目の低い声が空間を響かせた。
『「値段」という最も重要なものを間違うなど、言語道断。主の信用にも関わってくるのだぞ』
「でもまた練習段階です」
熨斗目の厳しい言葉を、リンが柔らかく窘める。
「初めから少しのミスも許されないなんて、苦しすぎます。それに僕だって、何度もミスをしながら覚えてきました。間違えてみるのも大きな学びではないですか?」
『それはそうだが……』
二人はまだ何か言い合っている。
居たたまれなさから、光路は再びキュッと縮こまった。
光路の友人・霧谷美晴が、すねこすりという名の「呪い」をかけられた事件。解決の際に「火の力」を用いた熨斗目は、その後明らかに狼狽していた。
光路には分かる。
あれは単なる苦手意識ではない。トラウマ……正式にはPTSDと呼ばれるものに分類されるであろう、尋常ではない怯え方だった。
――あんなに強い人が、どうして。
光路は熨斗目が怖い。理由も分からないまま向けられる敵意には身が竦む。しかし同時に熨斗目の実力もまた、光路はしっかりと感じ取っていた。
心も体も弱い人じゃないはず。そんな彼が、子どものように怯えるなんて。
そして彼の「弱点」を垣間見てしまった自分は……今後彼と、どう接していけばよいのだろう。
距離感が一層分からなくなった。
それはどうやら向こうも同じようで。美晴の事件以降、光路は熨斗目に明らかに避けられていた。
姿を現さない。侮蔑の言葉すら飛んでこない。
だからこそ今日、声だけとはいえ直接何か言われるのは久し振りで……それがほんの少しだけ、嬉しかった。いやもちろんその数倍傷付いてはいるのだが。
懸念材料は他にもある。
「…………」
先程から明らかに、もう一つの視線を感じるのだ。
わざわざ目をやらなくとも分かる。リンの第二の式神・橡のものだ。何なら階段の手前に赤い着物も見える。
初めて顔を合わせて以来、橡はこのように遠くから光路を観察してくる。会話が成立した試しは無い。一度だけ勇気を出して「橡さん」と声をかけてみたものの、早々に逃げられてしまった。
今もそう、目線をやった瞬間、彼女は消えてしまうだろう。まるで「だるまさんがころんだ」である。これはこれでどうしたものか、てんで良案が浮かばない。
――肩身が狭いなぁ。
4人いるはずの空間で今日も、光路はリンとのみ言葉を交わすことになるのだった。
「すみません日下部さん、お待たせしました」
ようやく熨斗目を説き伏せたらしいリンが、こちらに向き直る。
「せっかくです、今日はもう少しお勉強の時間にしましょう。いつもの本を準備してください」
言われた光路は、傍らから『お香・アロマオイル入門書』という参考書を取り出した。リンに勧められて購入したものだ。(オーディオブック版もあるため、視力のせいで本が読めないリンもこれで勉強したらしい。)
まだ内容全てをしっかり読み込んだわけではない。が、とあるページにのみ開き癖がついている。まさに先程の腕試しで用いられた、サンダルウッドのページだ。
「これまで日下部さんには、サンダルウッドの知識をとにかく最優先で覚えるように言ってきましたね」
「はい。理由は……『このお店で最も種類が多く、最もよく売れる商品だから』」
「そうです」
リンは満足げに頷く。
「ここからはもう少し視野を広げていきましょう。ええと……すみません、目次から『香りの7系統』のページを探してください」
指示通り、光路は該当ページを探し当てる。すると色相環のような図が出てきた。

「その図はタイトル通り、香りを大きく7種類に分類したものです。分類方法には諸説あったり、お香とアロマオイルで系統が違ったりするのですが……その図が一番分かりやすいので、まあ良しとしてください」
フローラル、エキゾチック、樹脂、スパイス、樹木、ハーブ、柑橘。それぞれの項目を示すアイコンが、ぐるりと円を描いている。
確かに今まで、自力で「香りが似ている」商品を見付けることはあった。しかしここまで具体的に分類できるとは知らなかったので、光路は純粋に驚きと感心を覚える。
「では順番に解説していきましょう。ああ大丈夫ですよ、僕はその図がちゃんと頭に入っていますから」
自信ありげに前置きしてから、リンは本当に諳んじての解説を始めた。
「まずは『フローラル系』。名前そのまま、優雅な花の香りです。代表的なのはローズ、ジャスミン、カモミールなどでしょうか。誰でも知っている花が多いため、初心者のお客様にも香りを想像していただきやすいです。しかし特にアロマオイルの場合、値段が高くなるのが難点ですね」
「例えば幾らくらいするんですか?」
「そうですねぇ……カモミールなら、10mlで最低13,000円はします。高品質なものなら20,000円超えも有り得ますね」
「にまっ、えっ!?」
光路は耳を疑った。
10mlといえばほんの僅か、スポイトで垂らせる程度の量のはずだ。それがどうしてそんなに高価なのか。
「アロマオイルの値段が張るのは、ひとえに『採れる量が少ないから』です。リンゴを絞っても、同じ重さだけのジュースは採れないでしょう? それが小さな花ともなれば……10mlの小瓶を満たすために、一体どれだけの重さを栽培・収穫せねばならないことか」
気の遠くなるような話に目を回しながら、光路は必死にメモをとる。
「でも……そんなに高いと、なかなか買ってくれる人もいないんじゃ……?」
「そこはご安心を。フローラル系の商品は香りが強いため、1回の使用に必要な量もまた少ないんです。お値段分の長持ちはする、というわけですね」
早速質問を繰り返す光路に、リンも何だかご機嫌な様子で講義を続けた。
「次は『エキゾチック系』です。アジア圏の宗教や文化に根付いた、我々には懐かしい香りといえるでしょう。サンダルウッドと同じく、ムスクは麝香、ジンチョウゲは沈香、沈香の中でも特に香り高いものは伽羅、などと和名で呼ばれることも多いので、セットで覚えておくとよいかもしれませんね」
「続いて『樹脂系』。説明するより体験していただいた方が早いので、日下部さん、このアロマオイルを嗅いでみてください。……あはははっ! なかなか強烈でしょう? この系統は粘度が高く、香りも強いものが多いのです。ちなみに今嗅いでいただいたのは、ベンゾインという香りです」
「『スパイス系』は分かりやすいですね。ブラックペッパー、シナモン、ジンジャーなど、体の芯から力が湧いてくるような香りが特長です。その分刺激が強いので、使用の際は注意が必要ですが」
「『樹木系』。温かく、それでいて森林の中にいるような爽やかさも感じられるのが特長です。日下部さんがこれまで触れてきたものだと、ヒノキやユーカリがここに当てはまります」
「次は『ハーブ系』ですが、こちらもスパイス系と同じく、鼻を刺す強い香りがあるので注意しましょう。薄荷、紫蘇、ラベンダーなど、いわゆる『虫除けの香り』が当てはまりますね。……ラベンダーはフローラル系かと思った、って? ふふふ、実はどちらにも分類できるんです。香りというのは複雑ですから、あちらとこちらに跨っているものは珍しくないんですよ?」
「最後に『柑橘系』です。やはり名前の通り、オレンジ、ライム、レモンとレモングラスなどが当てはまります。こちらは比較的安価な商品が多いですね。具体的には……フローラル系のお値段から一桁下がるくらい、でしょうか。そういえば、オレンジオイルは気に入ってくださっていますか? ……そうですか。それはよかった」
丁寧に、ゆっくりと、時には冗談も交えて。
リンは全ての項目の説明を終えた。
「最後にもう一つ、お教えしたいことがあります。少々お待ちください」
そう言い残し、彼は一旦2階へ上がっていった。
後には光路だけが残される。
「…………」
ほーっ、と息を吐く。
覚えることがいっぱいだ。一気に全て説明されて、頭がパンクしそう。それでもこれは苦しさではなく「心地良い疲労感」だった。
――楽しい。
知れば知るほど面白い。どんどん視野が広がっていくのを感じる。
これは大学の講義の際にも覚える感情だ。とにかく詰め込んで覚えるばかりだった高校までの授業とは違う、一つの分野を狭く深く掘り下げていく学び。新たな視点や歴史に触れるたび、光路の心は躍った。
知らなかった。勉強がこんなに楽しいものだなんて。
――私、この街に来てよかった。
そんな感慨に浸っているところへ、リンが戻ってきた。
「お待たせしました。こちらはサンダルウッドとベンゾイン、それぞれのオイルを一滴ずつ垂らしたものです」
彼が手にした小さな紙片を見て、光路は思わず「えっ」と身を引く。先程嗅いだベンゾインの、鼻腔にねっとり広がる甘い匂いを思い出したからだ。
「ふふふっ。あなたは本当に、僕が望む通りの反応をしてくれますね」
リンはクスクスとおかしそうに笑う。
「大丈夫です。紙をパタパタと扇ぐようにして嗅いでみてください」
「…………」
自分は弄ばれているのではなかろうか。
リンの顔色を窺いつつも、光路はそっと紙片に顔を近付け……、
「あれっ?」
良い香りがした。
2種類の香りは喧嘩するどころか、絶妙なハーモニーを奏でていた。
サンダルウッドの落ち着く雰囲気に、ベンゾインの重さが奥行きを与え、さながら雨の日の和室の香りだ。香ばしさと甘さも相まって、和菓子を食べているかのよう。
心が凛と澄み渡る。
目を閉じて開いて、何度も紙を扇いで、光路は香りを味わった。
「『香りの7系統』において、オリエンタルと樹脂の項目は隣り合っていたのを覚えていますか? これこそ、あの図が円環を描いていた理由です。隣り合う香りの系統は、混ぜ合わせても相性が良いのです」
「すごい……本当に素敵な香りです、これ!」
光路は思わず興奮しながら言った。
「私っ……今とても楽しいんです。もっと色んなブレンドを試してみたいし、もっと色んなことを学びたいです。これからもたくさん教えてください!」
リンも嬉しそうに笑って応える。
「店主として冥利に尽きる言葉です。ゆっくり慌てずに学んでいきましょうね」
◆◆◆
――ああ、楽しい。楽しい。
この街でリンさんと出会えて、よかった。
――本当に、地元にいた時とは大違い。
ふと、心に差す暗い影。
同時に耳の奥で。
べと、べと、べと。
足音が聞こえたような気がした。
