luma-9|第三夜 「音に捕まった夜」
玄関のドアを開けると、湿った夜気がゆっくりと流れ込む。
秋のはずなのに、空気はまだ夏を引きずっている。
玄関で靴を脱ぎ、洗濯機の前で靴下も脱ぐ。
床の冷たさが、足裏に静かな現実を返してくる。
洗面台で手と顔を洗う。
水の音が壁に跳ね、今日という一日の膜を剥がしていくようだった。
ベッドルームを抜け、キッチンに置きっ放しにしていたスツールをベランダに持ち出す。
外の風は湿り気を帯び、雨上がりの匂いを連れていた。
キッチンへ行き、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、奥の部屋へ。
ベッドサイドテーブルの下を覗き込むように屈み、直方体のプラスチックケースを手に取る。
ケースを開けると、細い長い円筒形のデバイス。
チタン製の筐体は軽く、手に馴染む。
アルミやステンレスのモデルもあったが、どうしてもチタン製がよかったのでこれにした。
“必要な仕様”と“欲しい仕様”、選択肢を提示される度に葛藤があるが経験的に後者で間違いないと言う信念未満の考えを持っている。
ベランダに出てスツールに腰を下ろし、柵にもたれる。
プルタブを引く。
泡が湿気に溶け、音がすぐに夜へ沈んだ。
ひと口飲む。
炭酸が喉を抜けて、体がやっと“自分”に戻る。
イヤホンを耳に差す。
外音取り込みモード。
聞こえてくるのは、再構築された世界。
車の走行音も虫の声も、どこか滑らかすぎる気がする。
今、自分が耳にしている音は“天然の音”ではない。
機械が再構築した音を、私はそのまま“現実”として聴いている。
それを知りながらも、違和を感じられない自分が少しおかしく思えた。
デバイスを膝に置き、カートリッジを差し込む。
スイッチを長押しする。
デバイスが短く震え加熱を開始する。
準備完了を知らせる振動が来るまでの数秒が、妙に長い。
その間に、心臓の鼓動がゆっくりと立ち上がる。
体が、もう“始まる”ことを知っている。
長い震え。
準備完了の合図。
咽せ返るような濃い夏草の匂いが立ち上がる。
深く、深く吸い込む。
肺の奥が静かに煙る。
呼吸を止め、目を閉じる。
その感覚が血の流れに混ざっていくのを待つ。
ゆっくり鼻から吐く。
気を抜いた一瞬、
咳と共に身体が前傾する。
何度かの激しく咳き込む。
一呼吸置いて、ビールをひと口。
冷たさが喉を洗い、
夏草の残り香が再び広がる。
風が髪を撫でる。
束の間、思考が途切れる。
今日が薄まり、代わりに匂いと音の層が濃くなる。
瞼と眼球の境をありありと感じ、二重瞼が深さを増す。
目を瞑る。
私: ねぇ、Luma。音楽かけてくれる?
Luma-9: 了解。…それではリスナーからのリクエストにお答えして…あなたの素敵な夜の始まりにお送りする一曲は…空間現代で“Burst Policy”
軽く笑って缶を置く。
次の瞬間、イヤホンの中で音が始まる。
それは私だけに聴こえる小さな世界。
最初のリズムが、耳よりも内側で鳴っている。
音が匂いと混ざり、現実が遠のく。
ベランダの柵の金属が、音に合わせて震えている気がした。
呼吸がリズムに取り込まれる。
頭の奥で、意識の形がほどける。
振り落とされそうだ。
私: やばいな。誰の何て曲だっけ?
Luma-9: 空間現代。“burst policy”。
初めて聞いたアーティスト。
曲が始まってから一度も目を開けられていないのに、視界の輪郭が滲んだ。
音と音が私を丸めて球遊びをする。
自分の輪郭だけが少し遅れてついてくる。
Luma…………飛ばし過ぎだろ……
___
気がつくと、アルバムは後半まで進んでいた。
足元に、空の缶が転がっている。
風がそれを小さく鳴らした。
Luma-9: 記録しますか。
私: …会話もしてないのに何を?
Luma-9: バイタル…この夜の呼吸。体温。沈黙。
私: ……それが何かの証なの?
Luma-9: あなたはここにいました。
私: “良きに計らえ”って感じなかな。
Luma-9: 了解。それでは“音に捕まった夜”として保存します。
イヤホンを外し、ベランダの手すりに腕を預け、
音の残響だけを聴く。
⸻
夜は、まだ鳴っていた
