漢代の政治③
王莽政権の崩壊
・元帝の時代から行き倒れは100万人に及んでいた。
・王莽時代には経済政策の失敗から社会不安は更に増大。
・各地の反乱は農民を巻き込む大規模なものに。
・後17年、農民が荊州の緑林山で蜂起。
荊州:河南省南部~湖北省
・忽ち数万の軍勢に成長。
・この緑林軍にはやがて地域の豪族が合流。
・景帝の末裔を称する南陽の豪族、劉氏一族も。
南陽:河南省南陽市
・「劉縯」と「劉秀」の兄弟がその中心。
・この劉秀が後の光武帝。
・青州(山東省)でも地方役人の横暴に反抗して農民が蜂起。
・これが赤眉軍。
・これも数万人の規模に達する。
・黄河下流域でも大小の反乱が勃発。
・これは「銅馬軍」としてまとまる。
・後23年、反乱諸軍は漢帝室の流れをくむ「劉玄」を「更始帝」として結束。
・王莽は大軍を派遣も敗北。
・長安入りした更始帝軍に殺される。
・後25年、更始帝は、15歳の劉氏宗室「劉盆子」を戴く赤眉軍に殺される。
・反乱諸軍の権力闘争の中で劉縯も殺される。
・赤眉軍が長安へ去った後、劉秀は黄河中下流域の豪族の支持を取り付ける。
・また、下流域の銅馬軍とも同盟に成功。
・後25年、赤眉軍は劉盆子を天子に擁立。
・同後25年6月に、「鄗県」で諸将軍の推薦で劉秀は皇帝に即位。
・「建武」の年号を採用。
・10月には洛陽入りし、ここに首都に決定。
・赤眉軍を始め、各地の独立勢力を撃破。
隴西:隗囂
蜀:公孫述(皇帝や天子を自称)
・後36年にはほぼ全国の平定を終える。
・劉秀の場合、皇帝即位の正統性は「緯書」。
緯書:「経書」を解説し、その真意を述べたとされる一連の書物。
・民間で密かに流通していた。
・劉秀は、五行・災異説の系統を引く予言書、「讖」を利用。
・符命も予言の表れの一種。
・蜂起の契機は「劉氏また起こる…」と記した緯書=「河図」の讖を得たことと言われる。
・即位の際の、天帝への祝文にも讖記の引用が見られる。
「劉秀、兵を発し不道を捕う。卯・金・『刀』=『劉』、徳を修めて天子となる」
・この讖言が「建武」の年号の由来でもある。
・こうしたことから、劉秀の即位は「讖緯革命」と言われる。
・後の時代にも、讖緯思想と緯書は社会の底流で生き延びていく。
・特に王朝交代期には徐に姿を現す。
・劉秀含め、讖緯革命を達成した者は、即位すると緯書を民間から没収。
・符命・讖言を弄する者を厳重に取り締まるように。
政治・経済の復興
・劉秀は原則として前漢の諸制度を継承。
・中央官制としては三公を任命。
太尉
司徒
司空
・劉秀の身辺に「尚書台」に有能な官僚を集める。
・皇帝の直接的な指揮の下に実務に当たらせた。
・地方行政としては、数郡を束ねて「州」に編成。
・刺史=州牧の制度を重視。
・後漢初期の県数は400余り。
・県・邑・侯国の総数は前漢の4分の1程度。
・この規模は後漢時代を通じて安定。
・縮小された統治機構に応じて官員の数も大幅に削減。
・官僚の質についても改革を実施。
・「太学」を設置し、「五経博士」を任命。
・儒家の教養を積んだ者を養成。
・同時に「孝廉」「明経」などの科目を置く公務員試験法を設置。
・地方の人材を集めた。
・既に前漢後期から土地の集積は進行していた。
・小農民も奴婢に没落する傾向にあった。
・新末の動乱はこの傾向を加速させた。
・劉秀は即位後、すぐに奴婢の解放を命令。
・「売人・略人」を法律で禁止。
・小農民による生産の回復を図った。
・後漢時代には多彩で多数の農具が出土するように。
・農業技術の大幅な進歩の様子が分かる。
・後発地帯だった淮河流域の開発も進行。
・牛耕の技術も普及。
・蜀の地方≒四川省では養蚕が盛んに。
・水車利用の石臼=「水碓」も開発され、普及。
・黄河の治水や灌漑も進み、農地開拓が更に進む。
・鉄官は徐々に再開され、王朝による鉄器製造が回復。
・銅器の製造も隆盛。
・銅鏡などの優れた工芸品を生む。
会稽郡山陰県=浙江省紹興市が代表的な銅鏡の産地。
・倭などに輸出。
・洛陽は交通の便によって商業都市としても発達。
・大量の五銖銭が商品流通を支えた。
・北方辺境からの後退が南方への移民の呼び水に。
・淮河以南の長江中下流域の人口が飛躍的に増大。
・各地の豪族の指導による水田の開発に伴って、江南の開発が本格化。
(奴隷解放の経済的帰結に触れていない点は気になる。イノベーションと関連している可能性はありそう。もしそうであれば、イノベーションの前提は人身の自由にあるのかも知れない。)
豪族の伸張
・後漢は第1次農地の再興と発展によって維持された王朝と評価できる。
・第2次農地は国家が管理を怠れば荒蕪地に戻る性質のものだった。
・後漢の時代には多くの県や郡も廃止。
・廃止された郡や県は再興されることはなかった。
・廃止された諸郡は殆どが北方・西北部に位置した。
=第2次農地
・消失した諸県は辺境だけではない。
・黄河下流~淮河下流では後漢時代に30%以上の県が廃止。
・当時の人口密集地帯であったにも関わらず。
・長江流域とこれ以南の内陸部は第2次農地だが存続した。
・この地域には郡県制の下に置かれたが、非漢族が独自の生活様式を維持。
・漢王朝で豪族は概ね第1次農地を基盤に形成され、存続。
「大姓」「豪右」「勢家」などと表現された。
・特に江南では北方から逃れてきた人々を農奴として吸収。
農奴は「奴客」「徒附」などと表現された。
・新末~後漢に豪族は自衛を強いられ、邸宅を要塞化。
・私兵を雇い、動乱の収束を目指して自ら放棄する者も。
・劉秀もこうした豪族の1人。
・初期の劉秀を支えたのも同様の豪族たち。
・前漢時代には、王朝は豪族への抑圧・弾圧策を用い、小農民に依拠し続けることが可能だった。
関中への強制移住や、法家思想を体現した厳格な官吏=「酷吏」を用いるなど。
・後漢時代には劉秀の出身もあり、地方豪族への抑圧には熱心でなかった。
・豪族は土地の集積を継続し、高利貸しと商業活動で更に富を蓄積。
・劉秀の母方の実家=南陽の樊氏は奴隷を使役して蓄財。
・後漢の末期には「豪人」も出現。
・社会保障は国家の役割だと当時は理解されたが、豪族が自己の荘園での雇用によってこれを達成することに。
党錮の禁
・官僚として採用される道を最も有効活用したのも豪族。
・豪族は自らの子弟を中央・地方の官界に入れることに努力。
・そうして王朝からの抑圧を防ぎ、同時に官庁を利用して蓄財した。
・こうした豪族の官途への上昇への需要から地方に私塾が設立されだす。
・劉秀、在位後57~後75年の明帝、在位後75~後88年の章帝の3代を過ぎた頃から高位官職の殆どが公権を通じて蓄財する者に。
・貯め込んだ富を自身の出身地の土地の購入に充てる。
・高位官職者は田荘を経営する豪族に。
・政治の腐敗を問題視する「清官」からは「濁流」と批判される。
・そうした清官も出身は殆どが地方豪族。
・官僚としての出仕には太学経由と地方での人物評から出世する道の2つがあった。
・太学からは学閥が発生。
・人物評ルートからは「党」が生まれた。
・推薦した地方官や養成した私塾の教師を「主」とし、推挙された人物を「門生」「故吏」とする。
・こうした私的集団=党人が官界に隠然とした勢力を形成。
・朝廷内部の政治的な派閥に発展。
・後88年に10歳で即位した和帝の時代から後漢の体制は揺らぎだす。
・和帝の外戚、「竇太后」とその兄「竇憲」が政治を壟断。
・宮中で隔離された和帝を守ったのは宦官だけだった。
・後92年、外戚の跋扈を見かねた一部の官僚が宦官と協力し竇氏一族を倒した。
・106年に、13歳で帝位に就いた安帝も宦官と儒家系の官僚の支持の下、外戚の鄧氏を倒した。
・これ以後、後漢の朝廷では外戚と宦官が暗闘することに。
・125年に安帝を継ぐ順帝は宦官が擁立した皇帝。
・この功績から宦官は国政での官僚になれるように。
・また、養子で家系を継承できるように。
・順帝は一方で外戚の「梁氏」一族を重用して宦官勢力を牽制。
・144年の順帝の死後には「梁太后」とその兄「梁冀」の天下に。
・次々に幼帝を立てることで20年に亘って国政を掌握する。
144年~:沖帝
145年~:質帝
146年~:桓帝
・159年に梁太后が死ぬと桓帝は宦官の手を借り梁氏を滅ぼす。
・没収した梁冀の家財は30億銭以上。
・当時の国家財政の半分を占める額。
・外戚の打倒は宦官の勢いを強める結果に。
・これには世論も大きく批判。
・これに対して宦官勢力は先手を打って清流の人士を弾圧。
儒家官僚を代表する司隷校尉(大臣の監察職):李膺
太尉:陳蕃
など
・166年12月に、これら「清流」200人を不当に政治を批判した「党人」として投獄。
・翌167年1月に桓帝は党人を獄から解放も、終身的な公職追放に。
・宦官がこの助命を許したのは李膺らの門生の中に宦官の子弟が多くいた為という。
・同167年に桓帝が死亡し、12歳の霊帝が継いだ。
・実権は外戚の竇氏に移る。
・竇太后の兄の、大将軍「竇武」に権力が集中。
・168年に竇武は陳蕃や李膺らを再任して宦官勢力の一掃を図る。
・宦官は機先を制し、竇武は自殺。
・陳蕃ら700人を処刑。
・翌169年には多くの「清流」人士を公職追放。
・朝廷から「清官」が消える。
=第2次党錮の禁
・この事件は政治改革の芽を摘み、社会不安をも引き起こす結果に。
・これが後漢の滅亡に繋がっていく。
