インド・中国文明の受容と東南アジア世界の形成⑪

中部ジャワ時代の終焉

・928年のワワ王の刻文を最後に、中部ジャワからは刻文が消える。
・寺院を始めとする考古学的な遺構・遺物も同様。
・928~948年のシンドク王の刻文は全て東部ジャワのもの。

・中部時代と東部時代の連続性は明らか。
・刻文の文字、言語や形式、王や高官の称号、村役人の役職などが連続。

・古代ジャワでは王宮=クラトンは常態的に移動していた。

・東部への移動の主因は諸説ある。
・少なくとも海外交易の要素は重要。
・舟運により海外交易に直結可能なブランタス流域は、海外交易に有利。
・中部ジャワ南部は北海岸への陸路か、ソロ川の長距離の舟運を要する。
・10世紀になり統一政権が東部ジャワに移った時点で王宮の移動は自然。

紅河デルタ

・前3~2世紀頃にはドンソン文化人たちは後に三角州の自然堤防群となるほぼ全域に進出していた。
・「コーロア」:ハノイ北方約20㎞、東英県の自然堤防上にあるドンソン時代の大土城遺跡。
・後4世紀に中国人の興味を引いた。
・そこで、蜀の安陽王という王の建設とされた。
・当時のドンソン文化の中心は昆明の滇王国。
・滇王国は四川を通じて中国中原に南方物資を供給。
・紅河は雲南と南支海を結ぶ最短の川。
・紅河三角州と滇王国のドンソン文化は同質。
・安陽王の国は滇王国に物資を供給する海の玄関の役割を果たしたと思われる。

・紅河三角州は冬稲を作り出すことで、世界で最も早く三角州の開拓に成功した。
・海に近い新三角州では潮水灌漑をした。
・満潮による河川の水位上昇を利用して、河岸や砂丘列の間の水田の灌漑を行うもの。
・中国人は「雒田」と呼んだ。
・漢代の県の分布から見ると、紅河三角州全体に10~12の首長たちがそれぞれに割拠していた。
・安陽王はこれらの地域首長たちの盟主でもあった。

交趾郡

・広州の南越王国も中国中原や江南に南支海の物資を供給。
・越側の伝承では蜀の安陽王は南越王国に降った。
・前111年、南越王国は漢の武帝の遠征によって滅亡。
・これにより旧南越とその南方に9郡が置かれた。
日南郡:化市
九真郡:清化・乂安
交趾郡:紅河三角州
・前109年に滇王国が漢の支配下に。
・漢が紅河ルート全域を支配することに。
・港市としての交趾郡の中心、龍編はルイラウ城郭遺跡と考えられる。

・後40年ハノイ西方の雒侯=土着首長の娘の徴側、徴弐が反乱。
・漢の地方官の暴政への怒りから、というもの。
・後42年、光武帝が伏波将軍の馬援を派遣して鎮圧。
・この時期から紅河三角州のドンソン文化は衰退へ向かう。
・後漢、南北朝の華南文化の影響が顕著に。
・馬援は雲南を結ぶ紅河ルートの開拓者。
・現在の広西から紅河三角州に至る陸路の建設者でもある。
・中国の南支海への玄関としての発展もこの時期から。
・後1世紀の人口は72万6237人。
・戸数は9万2400戸。
=単純計算で1戸当たり約8人家族。
・当時の広州の約10倍の人口。
・郡の置かれた各地では後漢以降と推測される中国式の磚墓が見つかっている。
・中国から移民してきた官吏や商人たちのものと思われる。

・3世紀、三国時代の開始時期、紅河三角州で士爕=シーニエップという中国人太守が一族で半独立国を作り上げる。
・士爕の城、ルイラウにはドゥオン川の南岸に城塁が残る。
・海防=ハイフォン港とハノイ市を結ぶ河川。
・ルイラウは河川港で、城内まで水路を引き入れた跡がある。
・士爕は当時の南海産物を独占し、呉に送った。
真珠、硝子玉、翡翠、玳瑁、象牙、犀角など
・士爕の行列は鉦や鼓を打ち鳴らし、左右に何十人もの印人が付き従って香を撒いた。
・226年に士爕は死去。
・呉が交趾郡を回収する。

都護府ハノイ

・南朝の陳の末頃、交趾郡は反乱が続いていた。
・590年に隋が鎮圧。
・交州の地方制度の大改革を行った。
・従来の陸路のターミナル、龍編を放棄。
・宋平=現:ハノイ=河内に都城を移す。
・河内は3つの河川が合流する場所。
紅河:雲南から長安に続く
ドゥオン川:東に中国の沿岸部と結合する
ダイ川:南に林邑を通じて南支海と関係する

・604年、煬帝が越北部全体の政庁として交州総管府を設置。
・翌605年には林邑大略奪が行われ、総管府設置はその準備の一環。
・622年の唐代にも高祖李淵が交州総管府を設置。
・631年には太宗李世民が交州都督府を設置。
・679年に高宗李治が安南都護府を設置。以後200年継続。
・8世紀頃、安南都護府は府下の人口は9万9652人。
管轄する州:13
県:39
羈縻州:32

・安南都護府~長安への「歩頭路」が重要だった。
・昆明の南に造られた港町、歩頭が由来。
・歩頭から水陸の交通を交代する。

・767年、安南都護府は崑崙闍婆に攻撃される。
・当時の都護、張拍儀は防衛の為に羅城を建設。
・9世紀初めに南で環王国が活発化。
・しばしば管轄下の南部地方が占領されるように。
・808年に当時の都護、張舟は軍の水軍化を図った。
・羅城も増強。
・河内は要塞都市に変貌。

・都護府の軍事化は在地負担の増加となる。
・819年、都護府に仕えていた現地人の部隊長が、府に戻り新都護を殺す事件が起こる。
・828年には都護が土着豪族に逐われて広州に逃げ帰る。
・843年に経略使=辺境の軍事長官が部下の反乱から広州に脱出。

・8世紀後半から南詔王、異牟尋が勢力を拡大。
・846年から南詔はしばしば歩頭路を通って安南都護府に進軍。
・林西原など紅河山地の泰人たちも南詔の南下を支持。
・862年に南詔の攻撃は本格化し、都護府は陥落。
・865年秋、安南都護・経略使の高駢が越を再侵攻。
・翌866年秋には大羅城を攻略。
・高駢は直ちに大羅城を再建。
・この時、外城に囲まれた範囲は、現在の河内の中心市域と一致する。

・10世紀以後、中国では長安や洛陽などの内陸都市は衰微。
・南宋の首都、杭州などの江南諸都市が発展する。
・同時期には大型外洋船=「ジャンク」が南支海、東支海に登場。
・南支海の交易ルートは、越中部海岸から直接広州、福建の諸都市に向かうように。
・紅河三角州は地方センターに過ぎなくなる。
・880年、安南に軍乱。
・節度使の曽袞は城府を追われ、都護府は放棄された。

大越の独立

・唐滅亡の直前の906年、小農村の土豪、曲氏が節度使に。
・地元民として初の節度使。
・907年の唐の滅亡により、劉氏が自立し南漢を建国。
・劉氏は唐朝末期に広東に在住したアラブ人の末裔とされる。
・923年、節度使の曲承美を捕えて安南を直轄地に。
・931年に曲氏の部下だった楊廷芸が南漢軍を破り節度使を自称。
・しかしすぐに自らの部下に殺され、三角州は無政府状態に。
・938年、楊廷芸の別の部下、呉権が白藤江で南漢軍を破る。
・自立し、「王」を名乗る。

・944年に呉権は死去。
・965年からは「十二使君」という土着勢力が三角州各地に割拠し抗争。
・その勢力は2種類に分かれた。
①稲作勢力。
三角州の本拠地に拠った。
紅河本流やドゥオン川に沿った段丘、自然堤防、古三角州など。
曲氏や呉氏などの反南漢勢力もここ出身。
②商業勢力
三角州の入口である各河口を抑えた。
三角州東部、新三角州、砂丘列上に拠った。

・966年、三角州西部の華閭に拠った丁部領が十二使君を個別に破り、大瞿越国を建てる。
・華閭はダイ川とホアンロン川を結ぶ河川港。
ダイ川:三角州の中心と南方を結ぶ重要な水路
ホアンロン川:清化方面へのルート
・南支海から三角州に入る船の最初の寄港地でもある。
・恐らく当時、紅河三角州と南支海、特に占城との交易の中心地。
・丁部領も海との関係が強い。
・伝承では沿岸のザオトゥイ川の漁師。
・また、砂丘港のボーハイ口に拠っていた陳明公の武将でもあった。

・973年に初めて丁部領の使節が北宋に朝貢。
・占城の初朝貢から13年遅れてのもの。
・北宋側も丁部領には交趾郡王、その息子には安南都護の位を与えたのみ。
・979年、丁部領がその後嗣と共に暗殺される。
・北宋の太宗、趙炅は交州の回収を目指し侵攻。
・丁部領の部下、黎桓が諸将に奉戴され大瞿越軍を統率。
・981年、北宋軍を陸海に打ち破り、華閭に新王朝を開く。
・982年、黎桓は占城に侵攻。
・王都を破壊し、財宝を略奪。
・983年、黎桓は改めて北宋に遣使。
・その朝貢品は大越国内では取れない乳香や犀角が殆ど。
・略奪品を転用したと見られる。
・989年には占城の影響下にあった清化扇状地、乂安扇状地に出兵。
・また広州湾の欽州も攻略。
・周辺地域の交易圏の独占を目指したもの。

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