◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その99】<名古屋弁への愛と憎しみ【愛情編】>
終戦直後に創刊した名古屋の夕刊大衆紙「名古屋タイムズ」(2008年休刊)をひもとくと、「名古屋弁」に対する名古屋人の愛憎が渦巻いている。同紙の紙面から名古屋の文化そのものといえる名古屋弁について2回にわたり考えてみた。
●これが「純正ナゴヤ言葉」
名タイは昭和21年5月に創刊したが、この年の8月21日の2面(当時は2ページ)で紙面を大きくさいて名古屋弁を取り上げている。「これが『純正ナゴヤ言葉』」の見出しで、にぎにぎしく書かれた記事の冒頭にこうある。
<名古屋弁はどうなったか?戦争で純正ナゴヤ言葉を保持していた人たちのほとんどが田舎に四散してしまったのは事実であり、それらの人たちが田舎訛りに席巻されているのも真実であろう。わけても、そうした人々の二世がその土地の言葉になじみつつあることを考えると、名古屋言葉の将来はまことに心細い>
<「とろくさい心配しやアすな」といってはいられない気持がする。標準語なるものも正体は東京語ではないか。中央集権の下に便宜的に使われているのみだと言ったら悪いだろうか。かつて豊太閤が覇権を握っていたころは、尾張言葉が外交用語であったことを考えるとお国訛りの尊さもわかるはず>
このあと記事は、下町の名古屋の庶民の使用例をコント仕立てにしてつづる。かなりの長文なので夫婦の朝の会話を一部だけを紹介すると―。
<「あんた、何べんいったら水加減がわかるなも。ふンとに、やっとかめにご飯だと思やア、まるでおかゆだぎゃア」「すまんなも。あしたから気をつける。勘弁してちょう」>
名古屋弁に誇りを持ち、そのお国言葉が絶滅の危機にひんしていると警鐘を鳴らしたわけだが、時は下り昭和27年6月15日の2面には、これを裏付ける記事が掲載されている。
<名古屋市の人口は113万6000人を突破しているが、このうち10年あるいは20年以上住み着いている人はどれほどあるのか。市統計課が綿密に調査した結果、10年以上住んでいるものとみられる人は現在人口の半分に当たる56万5000余人、20年も住んでいて「ごっさま」(奥さま)や「なも」という名古屋弁を完全に身につけた人はわずか1割7、8分の19万4000余人という数字が出ている>
●行政が名古屋弁を保存
話は前後するが、昭和26年には純粋な名古屋弁を保存しようと名古屋市が動きだしている。民間のお遊びならまだしも行政が力を入れたというのがおもしろい。同年11月14日の名タイ記事―。
<“純粋な名古屋弁”を保存しようと名古屋市社会教育課ではさきに女性の名古屋弁の録音をしたが今度は男性の名古屋弁の録音を進めている>
録音したのは名古屋市中川区在住の俳人伊藤観魚=当時75歳=と中区在住の江戸文学者尾崎久弥が行った「名古屋の文化について」と題した対談。伊藤は明治10年生まれで、中区魚棚の料亭の息子で、東京で10年間、河東碧梧桐について俳句を学んだ以外はずっと名古屋に住んでいた。一方、尾崎は明治23年に中区白川町の摺師の家に生まれて以来名古屋に住み続けた生粋の名古屋人。尾崎は名古屋タイムズのインタビューに次のように話した。
<ひとくちに純粋の名古屋弁といっても明治以前と以後では大きな違いがあり、その後も変遷しているから私たちの使っているのが純粋といいきるわけにはいかない。茶屋町(編注・現在の中区丸の内2)の商家に生まれた人で上品な名古屋弁を使う人が多かったが、あらかた死んでしまった。伊勢門水(明治、大正期の名古屋の画家で狂言師)が「ナモナモ」「オキャアセ」を手ぬぐいにすって頒布したことがあるがあれは正当なものではない>
尾崎によれば、「ナモ」は明治以後に使われだしたもので、それ以前は「ソウデア」「アアデア」といったと江戸時代の名古屋人の小説に載っているという。
<名古屋地方の言葉はみな京阪地方で用いられた古い言葉が残っているし、また看護が多いのも特徴で言葉の研究の上では貴重なものだろう>
こうして、名古屋弁は文化財としてリスペクトされたわけだが、高度経済成長期を迎えると名古屋人に疎まれだす。そのきっかけは、どうやらテレビであった。それはまた次回に…。
終
次回は最終回
<名古屋弁への愛と憎しみ【憎悪編】>
お楽しみに
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