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【怪異譚】失せもの探し|帰ることを忘れたもの【帰還編・最終話】

第一章 呼ばれている

雨は、三日続いていた。

強く降るわけではない。

細く、長く。

空気の中へ溶けるような雨だった。

屋根。

電線。

ベランダの手すり。

道路脇の排水溝。

街のあらゆる場所に、水だけが残っている。

乾く前に、また降る。

そんな雨だった。

みつけは窓際に座っていた。

外を見ている。

特に何かを待っているわけではない。

ただ、雨の日はそうしていることが多かった。

良治は台所にいた。

冷蔵庫の扉が開く音。

皿を置く音。

電子レンジの低い唸り。

いつもの生活音だった。

それなのに。

今日は少しだけ遠く聞こえる。

まるで壁を一枚挟んだ向こうから聞いているような。

みつけは耳を澄ませる。

雨。

冷蔵庫。

換気扇。

車の走る音。

そして。

その隙間に。

誰かが呼ぶ声が混じった。

「……みつけ。」

ほんの小さな声だった。

窓の外。

いや。

もっと遠い。

もっと深いところから聞こえた気がした。

みつけは瞬きをする。

「何だ?」

良治の声。

台所からだった。

みつけは振り返る。

「ううん。」

「今なんか言ったろ。」

「言ってない。」

良治はしばらく見ていたが、それ以上聞かなかった。

代わりに皿を持ってくる。

焼いたパン。

目玉焼き。

適当な朝食。

「食え。」

「今?」

「今。」

「お腹空いてない。」

良治の顔が少し険しくなる。

「食え。」

みつけは小さく笑った。

「はいはい。」

皿を受け取る。

その時。

窓の外で雨粒が一斉に強くなった。

ぱらぱら。

ぱら。

ざあ。

音が変わる。

ほんの数秒。

そしてまた静かになる。

みつけはフォークを持ったまま、窓を見る。

濡れたガラスに、自分の姿が映っていた。

その後ろ。

誰かが立っている。

黒い影。

一瞬。

瞬きをした。

消える。

良治は気づいていない。

みつけも何も言わなかった。

午後。

一本の電話が入った。

依頼だった。

声は女性。

年齢は分からない。

とても落ち着いた声だった。

ただ。

話す内容だけがおかしかった。

「最近、知らない場所へ行く夢を見るんです。」

みつけは受話器を持ったまま黙って聞く。

「夢の中では、いつも誰かが歩いています。」

「誰ですか?」

「分かりません。」

「顔は?」

「見えません。」

少し間があった。

電話の向こうから、雨音が聞こえている。

こちらと同じ。

細い雨。

「でも。」

女性が言った。

「その人、ずっと帰ろうとしてるんです。」

みつけの指が止まる。

「帰る?」

「はい。」

「どこへ?」

長い沈黙。

そのあと。

女性は小さく言った。

「分からないみたいです。」

みつけは何も言えなかった。

その言葉を。

どこかで聞いた気がした。

違う。

何度も聞いてきた。

帰れない。

流れない。

残っている。

探している。

呼ばれている。

全部。

少しずつ形は違う。

でも。

根っこは同じ。

そんな気がした。

「会えますか?」

女性が聞く。

「うん。」

みつけは答えた。

「行く。」

依頼人の家は、古い集合住宅だった。

駅から少し離れている。

雨に濡れた坂道を上った先。

築年数の古い建物。

廊下の蛍光灯が白く光っている。

湿ったコンクリート。

錆びた手すり。

どこか懐かしい匂い。

雨の日の団地は、いつも時間の流れが遅い。

みつけはそう思った。

依頼人の女性は、四十代くらいだった。

名は小川佳奈。

一人暮らし。

部屋はよく片付いている。

テーブル。

本棚。

観葉植物。

テレビ。

普通の部屋。

ただ。

時計が多かった。

壁。

棚。

机。

キッチン。

小さな時計がいくつもある。

良治が一つを見る。

「時計好きなのか。」

佳奈は首を横に振った。

「最近増えたんです。」

「買った?」

「たぶん。」

「たぶん?」

佳奈は困ったように笑う。

「気付いたら増えてました。」

みつけは壁の時計を見る。

午後三時十二分。

棚の時計。

午後三時十二分。

机の時計。

午後三時十二分。

全部同じ。

当たり前のことなのに。

なぜか気持ち悪かった。

「夢はいつから?」

みつけが聞く。

「一か月くらい前です。」

佳奈は答える。

「最初はただ歩いてるだけでした。」

「でも最近は。」

そこで言葉が止まる。

「私の名前を呼ぶんです。」

良治が顔を上げる。

みつけは黙ったまま聞く。

「夢の中の人が?」

「いえ。」

佳奈は首を振る。

「後ろから。」

部屋の空気が少し重くなる。

「誰か分かりますか?」

「分かりません。」

「怖い?」

佳奈は考える。

しばらく。

「怖くはないです。」

その答えに、みつけの目が少し細くなる。

「懐かしいんです。」

佳奈は続ける。

「知らない声なのに。」

窓の外で雨が降っている。

ぽた。

ぽた。

ベランダの手すりから水が落ちる。

その音を聞きながら。

みつけは思う。

前にも聞いた。

名前を呼ぶ声。

帰る場所を探す人。

帰ろうとする影。

流れなかった記憶。

家に残った感情。

全部。

別々の話だと思っていた。

でも。

もしかしたら。

最初から。

同じ場所へ向かっていたのかもしれない。

「今日。」

みつけが言う。

「ここに泊まってもいい?」

佳奈は少し驚いた。

「もちろん。」

良治がみつけを見る。

「また一晩か。」

「うん。」

「何か分かったのか。」

みつけは少し考える。

まだ分からない。

でも。

形だけは見え始めている。

「同じなんだと思う。」

「何が。」

みつけは答えない。

窓の外を見る。

雨。

白い空。

濡れた街。

「今までの人たち。」

良治は何も言わなかった。

みつけは続ける。

「みんな。」

「何かを探してた。」

少し間。

「でも。」

窓ガラスに映った自分を見る。

その奥。

一瞬だけ。

黒い傘が見えた。

建物の向こう。

雨の中。

遠く。

こちらを見ているような影。

みつけは息を止める。

瞬きをする。

もういない。

「……忘れてた。」

小さく呟く。

良治が聞き返す。

「何を。」

みつけは答えなかった。

答えがまだ分からないから。

ただ。

胸の奥で。

誰かに名前を呼ばれた時と同じ感覚だけが残っていた。

懐かしい。

怖くない。

でも。

返事をしてはいけない。

そんな気がした。

その夜。

雨はさらに静かになった。

部屋の時計が。

一斉に。

午後十一時四十七分で止まった。

誰も触れていないのに。

全部。

同じ時刻で。

みつけだけが。

その瞬間。

遠くから。

誰かの声を聞いた。

「……帰れ。」

聞き覚えのある声だった。

第二章 忘れた目的

午後十一時四十七分。

時計は止まったままだった。

壁の時計。

棚の上の時計。

キッチンの小さなデジタル時計。

佳奈の腕時計まで。

全部。

同じ時刻を指している。

良治がスマートフォンを見る。

「こっちは動いてる。」

午後十一時五十分。

三分経っていた。

部屋の中だけ、時間から置いていかれたようだった。

佳奈はソファに座っている。

顔色が悪い。

「いつもこうなるんですか。」

良治が聞く。

「いいえ。」

佳奈は首を横に振る。

「初めてです。」

みつけは窓際に立っていた。

さっき聞こえた声。

帰れ。

知っている。

忘れるはずがない。

ずっと会いたかった。

だから。

一度。

向こうへ行こうとした。

「みつけ。」

良治の声。

返事をしない。

「おい。」

肩を掴まれた。

その瞬間。

部屋の音が戻った。

冷蔵庫。

雨。

換気扇。

遠くを走る車。

みつけは瞬きをする。

「……何。」

「何じゃねえ。」

良治が顔を覗き込む。

「今どこ見てた。」

「窓。」

「嘘つけ。」

みつけは少し笑った。

良治は笑わない。

「聞こえたのか。」

みつけは黙る。

それだけで十分だった。

良治が小さく舌打ちする。

「帰るぞ。」

「まだ。」

「依頼は明日でもできる。」

「違う。」

みつけは窓を見る。

雨粒がガラスを伝っている。

「今日じゃないと駄目。」

「なんで。」

「分からない。」

良治の眉間に皺が寄る。

「分からないのに残るのか。」

「うん。」

いつもの返事。

良治は何か言いかけて、やめた。

そして。

「勝手にどっか行くなよ。」

それだけ言った。

午前零時を過ぎた頃。

佳奈は眠った。

夢を見るためだった。

寝室の扉は開けたまま。

みつけと良治は居間にいる。

電気は消していた。

白い蛍光灯だけが廊下から差し込んでいる。

雨はまだ降っている。

弱い。

ほとんど霧みたいな雨。

零時二十三分。

佳奈が寝室で何か呟いた。

みつけが顔を上げる。

「……帰らなきゃ。」

寝言だった。

良治も聞いた。

二人とも動かない。

少しして。

また。

「帰らなきゃ。」

今度は少し大きい。

みつけは立ち上がった。

寝室へ入る。

佳奈は眠っている。

額に汗。

眉間に皺。

何かから逃げているようには見えない。

むしろ。

何かを探している。

みつけはベッドの横へ座った。

佳奈の手に触れる。

冷たい。

その瞬間。

水の音がした。

暗い。

足元に水がある。

深くない。

くるぶしくらい。

みつけが一歩歩く。

ぱしゃ。

音だけが遠くまで響く。

周囲には何もない。

壁も。

天井も。

空も。

ただ暗い。

そして。

遠くに人がいる。

一人。

二人。

いや。

もっと。

たくさん。

皆、歩いている。

同じ方向ではない。

右へ。

左へ。

戻る者。

立ち止まる者。

同じ場所をぐるぐる回る者。

誰も互いを見ていない。

ただ。

何かを探している。

みつけは一人へ近づいた。

老人だった。

「何探してるの。」

老人は答えない。

歩く。

また同じ場所へ戻ってくる。

「どこ行くの。」

老人が止まった。

ゆっくりみつけを見る。

「……帰る。」

「どこへ?」

老人は口を開く。

でも。

言葉が出ない。

困った顔をする。

そして。

また歩き始める。

同じ場所へ。

同じ方向へ。

何度も。

みつけは立ち尽くした。

別の人を見る。

若い女性。

座り込んでいる。

何かを抱えている。

赤ん坊はいない。

それでも。

何かを抱くように腕を動かしている。

「何してるの。」

女性は答える。

「待ってる。」

「誰を?」

女性の顔が止まる。

「……誰だっけ。」

それでも腕は動き続ける。

みつけの胸が少し苦しくなる。

歩く。

また人がいる。

泣いている。

怒っている。

笑っている。

誰かを呼んでいる。

みんな違う。

でも。

同じだった。

何かに留まっている。

感情。

記憶。

人。

場所。

時間。

それぞれ違うものに引っ掛かっている。

その時。

排水溝を思い出した。

流れなかったもの。

あの家を思い出した。

残り続けた思い。

藤崎の影。

何かを探して歩いていた。

あのバス停。

帰る場所を忘れた人。

名前を呼ぶ声。

全部。

みつけの中で重なる。

「……そうか。」

声が水面へ落ちる。

小さな波紋が広がった。

「帰れないんじゃない。」

老人が歩いている。

女性が待っている。

誰かが泣いている。

「帰ることを。」

言葉が止まる。

怖かった。

答えに触れることが。

でも。

分かってしまった。

「忘れちゃったんだ。」

水面が揺れる。

その瞬間。

無数の感情が流れ込んできた。

嬉しかった。

悲しかった。

愛した。

憎んだ。

怖かった。

寂しかった。

楽しかった。

生きた。

全部。

全部ここにある。

「これ……。」

みつけは胸を押さえる。

怪異たちは何も持っていなかったわけじゃない。

逆だった。

持ちすぎていた。

記憶。

感情。

経験。

抱えたまま。

手放せなくなった。

何のために持っていたのか。

それだけを忘れた。

「持って帰るんだ。」

みつけが呟く。

その言葉を口にした瞬間。

世界が静かになった。

歩いていた者たちが止まる。

泣いていた者が顔を上げる。

待っていた女性の腕が止まる。

全員が。

みつけを見る。

その視線に敵意はなかった。

ただ。

何かを思い出しかけた人の顔だった。

みつけの目から涙が落ちる。

理由は分からない。

悲しいわけでもない。

怖いわけでもない。

ただ。

分かった。

人は生きる。

見る。

聞く。

触れる。

好きになる。

嫌いになる。

失う。

見つける。

そして。

持って帰る。

それなのに。

途中で。

持っているものの方が大切になってしまった。

手放せなくなった。

帰ることを忘れた。

「だから……。」

みつけは周囲を見る。

「ずっとここにいるんだ。」

その時。

水面の向こうに何かが立っていた。

黒い傘。

遠い。

顔は見えない。

あの影だった。

追跡者。

みつけの身体が強張る。

何度も見た。

境界の近くで。

いつも。

こちらを見ていた。

逃げなければ。

そう思った。

でも。

影は動かなかった。

追ってこない。

ただ立っている。

みつけは初めて。

逃げずに見返した。

長い沈黙。

雨など降っていないのに。

黒い傘だけが開いている。

「……あれ。」

みつけが小さく呟く。

何かがおかしい。

追跡者なら。

なぜ追ってこない。

今のみつけは。

こんなにも境界の近くにいる。

なのに。

あれは。

ずっと。

境界の向こう側に立ったまま。

「もしかして。」

言葉にする前に。

黒い傘が少し動いた。

横へ。

一歩だけ。

道を塞いでいたものが。

道を開けるように。

その向こう。

暗闇の奥に。

誰かが立っていた。

みつけの呼吸が止まる。

顔はまだ見えない。

遠い。

でも。

分かる。

身体が覚えている。

声より先に。

記憶より先に。

分かってしまう。

会いたかった。

ずっと。

ずっと。

会いたかった人。

一歩。

みつけの足が勝手に前へ出る。

水が跳ねる。

もう一歩。

その時。

遠くから声がした。

「みつけ!」

良治だった。

現実の声。

遠い。

とても遠い。

みつけは振り返らない。

目の前の人影だけを見る。

そして。

その人が。

ゆっくり顔を上げた。

みつけは笑った。

泣きながら。

「……やっと会えた。」

水面の向こうで。

彼は笑わなかった。

ただ。

悲しそうな目で。

みつけを見ていた。

第三章 まだ帰らない

水の音だけがしていた。

ぱしゃ。

小さな波紋が広がる。

消える。

また静かになる。

みつけは動けなかった。

目の前にいる。

ずっと会いたかった人が。

手を伸ばせば届きそうな場所に。

でも。

遠かった。

あの日と同じだった。

近いのに。

どうしても届かない。

「……会いたかった。」

もう一度言った。

今度は声が震えた。

彼は何も言わない。

ただ、みつけを見ている。

その顔を忘れたことはない。

忘れようとしたこともない。

だから。

嬉しかった。

ただ。

嬉しかった。

みつけは一歩進む。

水が鳴る。

彼の表情が変わった。

「来るな。」

みつけの足が止まる。

少しだけ困った顔をする。

「またそれ言うの?」

返事はない。

「やっと会えたのに。」

「来るな。」

同じ言葉。

みつけは俯いた。

水面に自分の顔が映っている。

揺れている。

「……帰りたい。」

その言葉は。

思っていたより簡単に出た。

ずっと胸の奥にあったのかもしれない。

帰りたい。

ここへ。

この人のいるところへ。

もう探さなくていい場所へ。

もう失わなくていい場所へ。

もう待たなくていい場所へ。

みつけは顔を上げる。

「一緒にいたい。」

彼はしばらく黙っていた。

それから。

静かに言った。

「まだ帰るな。」

「どうして。」

「まだ持ってない。」

みつけは眉を寄せる。

「何を?」

彼は答えなかった。

ただ。

みつけを見る。

その目が。

昔と同じだった。

優しくて。

腹が立つくらい。

何も説明してくれない目。

「分かんないよ。」

みつけが言う。

少し拗ねた声になった。

「ちゃんと言って。」

彼は小さく息を吐いた。

そして。

「生きろ。」

みつけの顔から表情が消えた。

知っている。

その言葉。

あの時も。

聞いた。

箱を開けた夜。

境界が崩れた。

音が遠くなった。

良治がこちら側から腕を掴んだ。

そして。

向こう側から。

この人が押し返した。

帰れ。

生きろ。

あの時は。

残酷な言葉だと思った。

会いたくて来たのに。

ようやく辿り着いたのに。

追い返された。

でも。

今は少しだけ違って聞こえる。

みつけは周囲を見る。

歩き続ける者たち。

待ち続ける者。

泣き続ける者。

怒り続ける者。

みんな。

何かを持っている。

でも。

帰れない。

いや。

帰ることを忘れている。

そして。

自分は。

逆だった。

まだ生きているのに。

持ち帰るものを集め終わっていないのに。

帰ろうとした。

「……そっか。」

みつけが呟く。

彼を見る。

「私、早かったんだ。」

彼は答えない。

それで十分だった。

みつけは少し笑った。

涙が頬を伝う。

「じゃあ。」

息を吸う。

「いつかは帰っていい?」

初めて。

彼の表情が少し緩んだ。

ほんの少し。

「その時は。」

言葉が止まる。

「迷うな。」

みつけは泣きながら笑った。

「難しいこと言うね。」

その時。

「みつけ!」

また声がした。

良治。

さっきより近い。

「みつけ! 戻れ!」

みつけは目を閉じる。

聞こえる。

向こうにいる人。

こちらにいる人。

どちらも。

自分を呼んでいる。

でも。

言っていることは同じだった。

まだ来るな。

戻れ。

生きろ。

みつけは彼を見る。

「良治、怒ってる。」

「知ってる。」

「怖いよ。」

「知ってる。」

少しだけ笑う。

久しぶりに聞いた。

彼の声。

それだけで。

また帰りたくなる。

胸が痛い。

「……やっぱり帰りたいな。」

彼の顔から笑みが消える。

「戻れ。」

今度は強かった。

みつけは目を伏せる。

「はいはい。」

いつものように答える。

一歩。

後ろへ下がる。

水が鳴る。

彼が遠くなる。

もう一歩。

「また会える?」

返事はない。

「ねえ。」

みつけは笑う。

「今度は追い返さないでね。」

彼は答えなかった。

でも。

最後に。

小さく頷いた。

それでよかった。

黒い傘が見えた。

帰る途中。

あの影はまだ立っていた。

みつけは足を止める。

以前なら怖かった。

追われていると思っていた。

捕まえられる。

連れていかれる。

そう思っていた。

でも。

今は。

少し違って見える。

影は追ってこない。

こちらへ来ない。

ただ。

境界のそばにいる。

みつけは黒い傘を見る。

「もしかして。」

声が水面へ落ちる。

「ずっと。」

言葉を探す。

「見張ってた?」

返事はない。

黒い傘が少し傾く。

それだけ。

「私が行かないように?」

やはり答えない。

でも。

追ってこない。

みつけは小さく笑った。

「怖がって損した。」

黒い傘は動かなかった。

真実は分からない。

まだ。

分からなくていい。

みつけは背を向ける。

今度は。

自分から。

こちら側へ歩いた。

「みつけ!」

目を開けた。

白い天井。

蛍光灯。

雨の音。

目の前に良治の顔がある。

ものすごく怒っていた。

「……近い。」

「馬鹿!」

怒鳴られた。

みつけは瞬きをする。

佳奈はベッドの上で眠っている。

時計を見る。

午前零時二十三分。

止まっていた時計が。

動いている。

秒針。

カチ。

カチ。

カチ。

普通の音。

それが妙に安心した。

「何分?」

みつけが聞く。

「何が。」

「私。」

良治がスマートフォンを見る。

「一分も経ってねえ。」

みつけは目を丸くした。

あんなに長かったのに。

「そっか。」

良治が腕を掴む。

「どこ行ってた。」

みつけは少し考える。

「帰りかけた。」

良治の顔が固まった。

「……お前。」

みつけは笑う。

「でも戻ってきた。」

「当たり前だ!」

怒鳴る。

佳奈が寝返りを打つ。

二人とも黙る。

しばらく。

雨だけが聞こえた。

みつけが小さく言う。

「会えたよ。」

良治は何も言わない。

誰に。

とは聞かなかった。

分かっているから。

「帰りたかった。」

良治の眉間に皺が寄る。

「……知らん。」

立ち上がる。

「腹減った。」

みつけは笑った。

「私も。」

「帰ったら食え。」

「肉まん?」

「この時期に売ってねえよ。」

「探せばあるよ。」

「自分で探せ。」

いつもの会話だった。

それが。

少しだけ嬉しかった。

佳奈は翌朝、夢の話をした。

いつもの場所だった。

知らない人が歩いている。

でも。

今回は少し違った。

「一人、立ち止まったんです。」

佳奈は言った。

「ずっと歩いていた人が。」

「それから?」

「分かりません。」

少し笑う。

「でも、もう迷っているようには見えませんでした。」

みつけは頷いた。

それ以上は聞かなかった。

佳奈の夢が何だったのか。

あの場所が何なのか。

まだ分からない。

ただ。

一つだけ分かった。

怪異は。

そこにいるために生まれたわけじゃない。

人は。

留まり続けるために生きるわけでもない。

経験する。

感じる。

覚える。

そして。

いつか。

持って帰る。

でも。

強すぎる感情は足を止める。

愛情。

執着。

怒り。

悲しみ。

恐怖。

後悔。

抱えたものが重すぎて。

何のために持っていたのか。

忘れてしまう。

だから。

留まる。

繰り返す。

探す。

待つ。

それが。

怪異と呼ばれているだけなのかもしれない。

数日後。

雨が上がった。

久しぶりに青空が見えた。

窓を開ける。

湿った風が入ってくる。

みつけは机で肉まんを食べていた。

「売ってた。」

嬉しそうに言う。

良治は呆れている。

「よく見つけたな。」

「失せもの探しだから。」

「失せてねえ。」

電話が鳴った。

みつけが肉まんを置く。

受話器を取る。

「はい。」

少し間。

相手の話を聞く。

みつけの顔がいつもの表情へ戻る。

柔らかく。

少し眠そうな。

いつもの顔。

「うん。」

頷く。

「何をなくしたの?」

窓の外では。

雨上がりの水が排水溝へ流れている。

今度は。

止まらない。

どこかへ向かって。

静かに。

流れていく。

この世界には。

まだ。

帰る場所を忘れたものがたくさんいる。

自分でも気づかないまま。

助けを求めているものも。

きっと。

たくさんいる。

だから。

失せもの探しは続く。

いつか。

みつけ自身が帰る日まで。

その日が来るまでは。

もう少しだけ。

こちら側で。

――帰還編・了

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