見出し画像

Noism0 / Noism1 『円環』

SCOT SUMMER SEASONにもいらっしゃっていたのは知っていたが、日程の都合で観られなかったNoism. 今回設立20周年の記念で過去に所属されたダンサーの方も戻られ、今までの集大成的な公演になろうという話だったので、娘を親に預けて夫婦で参戦@彩の国さいたま芸術劇場。観たことをまとめておきたい。

与野本町駅から劇場へと向かう途中にある与野西中学校には、役者たちの手形が。

Noism0 + Noism1 「過ぎゆく時の中で」

トリプルビルの1本目はNoismレパートリーである「過ぎゆく時の中で」。コンテンポラリーダンスの内容をどう文字にすればよいのか。ここは振付家・金森穣氏自身による演出ノートを引くしかあるまい。

本作の初演はSaLaD音楽祭2021。ようやくコロナ禍から解放され始めた頃。 Noism では、所属していた外国籍の舞踊家たちが一斉に母国へと帰る決断をしました。 その現実を受け止める意志が、創作のインスピレーションになっています。

まるで蒸気機関車が自煙を噴き上げながら目の前を通り過ぎていくような、あるいは新潟競馬場の直線コースを駆け抜けていく競走馬のように、舞台(時)を駆け抜けていく舞踊家たちの姿。彼らを見つめる1人の男。 男は駆け抜けていく舞踊家たちをその場に引き留めようと試みます。しかし舞踊家たちは、楽しげに、高揚感を伴って、無常なる時を踊り続けます。いつしか男も、楽しげに、高揚感を伴って、無常なる時を踊り始めます。 まるで共に踊ることこそが、無常なる時を共有する唯一の術であるかのように。

優れた舞踊家は一瞬を永遠に変えることができます。それは過ぎゆく無情なる時を、東の間忘れさせる力があるということです。それは過ぎゆく無情なる時を、観客の心に永遠に刻むことができるということです。この度、芸術監督である井関の決断によって再演される本作が、創作時のインスピレーションを裏付けるように、あるいは上書きするように、新しく所属した若きメンバーたちによって実演されることを嬉しく思います。そして彼らの輝き(一瞬)が、皆様の心に末長く刻まれることを願っています。時よ止まれ!君(たち)は美しい・・・

劇場で配布された公演パンフより

まさにこの通りの演目。補足としてこちらのblogも紹介しておこう。この方は初演も観られているようで、とても勉強になります(あまりに素晴らしいblogのため後半でも引用)。

SaLaD音楽祭2021は私も見に行った公演でしたが、初見の作品だと勘違いしたほど、前回とは全く異なる印象でした。振付もかなり大きく変えているのではないでしょうか。作品に流れる時間が「男」の人生の歩みであること、そして駆け抜けるダンサーは彼の人生を駆けていった人々であることが、以前にも増して強調されていたように思います。

覚え間違いかもしれませんが、SaLaD音楽祭では「男」は舞台の上を歩くのではなく、立っていたと記憶していますし、そのほかのダンサーたちも舞台袖から袖へと駆け抜けていくのではなく、1964年東京オリンピックのポスターのように、同じ駆け足のフォルムを空間と音においてずらして見せるだけだったように思います。

東京芸術劇場のコンサートホールは音楽向けですし、SaLaD音楽祭では背後にオーケストラがいるので、舞台の前後を広く取ったダンサーの配置は不可能です。しかしその制約こそが、下手から上手という一直線の動き、すなわち一直線でイメージされる「過ぎゆく時」の表現を生んだのでした。

今回、さいたま芸術劇場で上演するにあたり、舞台の前後を使うように変更することもできたでしょうけれども、空間の使い方だけはSaLaD音楽祭から変えていません。むしろ、東京芸術劇場では使用できなかった舞台袖を生かし、ダンサーを一直線に駆け抜けさせた。SaLaD音楽祭の初演以上に素晴らしい作品になっていたと思います。

https://tarot-ballet.jugem.jp/?eid=700
https://x.com/Dance_SAF/status/1885550848903963053

尚、使用楽曲はジョン・アダムズによる「ザ・チェアマンダンス(The Chairman Dances)」。

当初は、グラスやライヒ、ライリーのような純然たるミニマリストとして知られていたが、成熟期の作品においては、ミニマル・ミュージックが色彩的な和声のパレットと豊かな管弦楽法に結び付いた、新ロマン主義的傾向も見られ、その音楽は厳密には「ポスト・ミニマル」と見なされる。そのため、作品には調性を感じさせるものが多く、『ショート・ライド・イン・ア・ファスト・マシーン』のように吹奏楽に編曲されて米国内で親しまれているものもある。

また、1985年のオペラ『中国のニクソン』中の晩餐会の場面を管弦楽に編曲した『ザ・チェアマンダンス(The Chairman Dances)』も、アダムスの管弦楽曲の中では取り上げられる頻度が多い曲の一つである。

ジョン・クーリッジ・アダムズ

Noism1「にんげんしかく」

2本目は、コンドルズ主宰の近藤良平氏振付による新作。NODA・MAP「THE BEE」では役者として出演もされている方のようだ。

1本目の張り詰めた緊張感漂う作品とはうってかわってコミカルな作品で、NHKの子供番組がはじまったか….とやや不安になったが、箱を使いながら人の一生を描いていくような作品で、最後は涙がこぼれた。

この作品はちょっぴりの寂しさを伴って終わります。ひときわカラフルな服を着たダンサーがほかのダンサーたちに一生懸命手を振ってはよそ見をするということを繰り返しているうちに、少しずつ手を振り返すダンサーの数が減っていきます。それはカラフルな衣装のダンサーがよそ見をしている間に、ほかのダンサーたちが静かに段ボールの中へと戻っていくからです。

https://tarot-ballet.jugem.jp/?eid=700
https://natalie.mu/stage/gallery/news/603610/2483451
https://natalie.mu/stage/gallery/news/603610/2483511

使用楽曲は内橋和久による「Singing Daxophone」 フルアルバムを使っていたように思う。内橋和久氏はこのダクソフォンという楽器の第一人者の方らしい。実に不思議な音色がする楽器だ。

この「Singing Daxophone」はダクソフォンで演奏したカバーアルバムで、下のリンクからDavid Bowie「Space Oddity」が聴けます。

「Singing Daxophone」 内橋和久

カバーアルバムをフルアルバム全て使うので、ベタといえばベタ。ただ、音色が泣けるのも事実で、最後はWhat a Wonderful Worldですからね。

Noism0 「Suspended Garden -宙吊りの庭」

そして、ラストは井関佐和子の歴代パートナーを揃えた新作。まずは、金森穣氏による言葉を引くとしよう。

この秋、11年ぶりに宮河が、そして5年ぶりに中川がNoismに帰ってきた。2人とも長年 Noism1に在籍し、井関のパートナーを務めた舞踊家である。ここに現NoismOの山田を加えると、井関の歴代パートナー揃い踏みとなる。 井関、山田、宮河、中川。この4人のためにどのような作品を創作するか。 悶々としながら楽曲を聴き漁っていたが、既視感のあるイメージしか浮かばない。そこで7年ぶりに、トン・タッ・アンにも参加してもらうことを決めた。アンほどに、井関、山田、宮河、中川という舞踊家を知る作曲家はいないから。アンほどに、Noismを、そして金森穣という演出振付家を知る作曲家はいないから。それぞれに過ごした月日が、経験が、血肉となって今の私たちを作り上げている。変わらないもの、新たに発見したもの、磨きがかかったもの、失われたもの・・それら全てを携えて、アンの音響世界、私の演出世界に、4人の舞踊家が集った。実はこの4人の舞踊家が私の作品に同時に出演していたことはない。その貴重な機会が、Noism設立20周年となる今年実現したことを嬉しく思う。この機会を生んでくれた芸術監督の井関に、演出振付家として感謝している。Noismの歴史に欠かせない4人の舞踊家たちのために創作した本作が、20周年を迎えたNoismの、一つの円(縁)を閉じるかに見える本作が、次なるNoismへの、新たな円(緑)の始まりとなることを願っている。宙吊りの庭。それは私たちが生きる、今此処のことである。

劇場で配布された公演パンフより

トン・タッ・アン(Tôn Thất An)氏のサイトには今回の使用楽曲はまだ掲載されていないようだが、Suspended Gardenは5つのパートによって構成されていることが書かれている。楽曲も5つのパートに分かれているのだろう。

Suspended Garden is composed of five movements:
1. Prelude
2. The space in between
3. Where she treads / Suspended Garden
4. Lament
5. Moving thoughts

https://www.aakenweb.com/suspended-garden-premiere/

ちなみに、Tôn Thất An氏による7年前の楽曲は見つけることができた。

踊りは抽象度は高いものの、全く分からないでもない。ナタリーにおける4人の対談記事もガイドとして引いておこう。

井関 穣さんが言っていた言葉で「あり得たかもしれない」という言葉はけっこう重要なキーワードかなと思っています。あり得たかもしれない存在、あり得たかもしれない状況……。1つひとつのシーンが決してわかりやすくつながっているわけではないけれど、私たち4人それぞれの関係性から生まれているドラマは確実にある。ただ、それがお客さんにとってのキーワードになるかどうかはわかりませんが……。

山田 学童保育とも、穣さん言ってましたよね。

井関 そうそう、大人の学童保育(笑)。だから、誰かが去ったり入ってきたりで、それぞれの物語が見えてくるはずです。

山田 なんとなく僕は、この“Suspended Garden”は、宙ぶらりんの思い出、というか、時間がない場所なんじゃないかなという感じがします。すごく未来だし、すごく過去だし、あるいは“あったかもしれないいろいろな可能性”のどれか。それがポッと映し出されたときに、僕らはその中で動いているけど、外から見たら時計が止まっているように見える……そんな場所なんじゃないかなと。

宮河 また中央にマネキンが置かれるんですけど、あのマネキンは穣さんなんじゃないかと思っていて、マネキンの周りにはかつていたダンサーたちが役割を変えたりしながら踊っていて、でも最後は去っていく……そんな雰囲気の作品なのかなって。

井関 「過去は自分の完全なる所有物だ」と、あるギリシャの哲学者が言っていて、私はそれがすごくいい言葉だなと思っているんですけど、つまり過去は、人によって時間軸が変わるし、時が止まっている可能性もあれば、“過去の時間”として集約されている場合もある。そんな過去をどう捉えるか、ということを今、私たちは問われているんじゃないかなと思う。

https://natalie.mu/stage/pp/enkan/page/2
https://www.threads.net/@hanakowashio/post/DFnGeqaSwlB/media

黄色い衣装のマネキンは金森穣なのか、あったかもしれない可能性を呼び起こすものなのか。もう1つ違った視点もここに足そう。

再会した人々の心に流れる時間を丁寧に描いた作品です。黄色いスカートの衣装がかけられた衣装掛けが舞台に立っています。3人の男性ダンサーはそのマネキンを相手に踊り、井関佐和子はマネキンに重なり合うようにしてマネキンと同じ動きをします。そのうち井関はその黄色い衣装を着て、3人を相手に踊り、最後には黄色い衣装を脱いで、4人で踊っていきます。

黄色い衣装は過去の井関佐和子を示すものなのだと思います。山田、宮河、中川は、過去Noismで井関佐和子のパートナーとして踊ったダンサーたちでした。人は誰かと久しぶりに再会したとき、今のその人と会話するというよりも、過去のその人の記憶をたぐり寄せ、まずは過去にあったその人と接しようとするのではないでしょうか。そして話し合ううちに、記憶にあったその人と今のその人の隔たりが埋められ、過去と現在が重なり合い、真に今のその人と交わることができる。そのことが黄色い衣装によって象徴的に示されています。

https://tarot-ballet.jugem.jp/?eid=700

こちらの方は、黄色い衣装は過去の井関佐和子だと見ている。

ちなみに自分は、黄色い衣装は憧れる対象であり、自分という存在を獲得していく過程で、その憧れから逃れることが必要であるというようなNoismを離れたダンサーの年月及びNoism金森・井関氏の20年を描いた作品であるように感じた。ある時、その衣装を着ることができたとしても、結局はそれを脱ぎ捨てて走り去らなければならない、そのことを肯定した上で新たな円(緑)の始まりを願っているのではないか。

https://www.threads.net/@hanakowashio/post/DFnGeqaSwlB

何にせよ、こうした多様な見方ができ、解釈が開かれているのは面白い。妻もすっかりダンスにハマったようで、夏にまたコンテンポラリーダンスを観に行くことが決まった。今からそれも楽しみです。

いいなと思ったら応援しよう!