命がけの帰国 ──コロナ禍、ニューヨーク脱出記
2020年春、ロックダウンが迫るニューヨーク。
仕事も、日常も、未来も、すべてが消えていった。
私は、生きるためにたった一人で「脱出」を決めた──。
命がけで日本へ帰ったあの日の記録。
2020年3月。
ニューヨークでは、コンサートやツアーなど、すべてのイベントが次々にキャンセルになった。
夏前までの予定はすべて白紙になった。
それでも、バイオリンを教えていた学校の予定はしばらく変わらなかったから、
「まだ希望はあるかも」と、どこかで思っていた。
でも、それも束の間だった。
数日後には学校も閉鎖に追い込まれ、3月中旬には、すべての仕事が消えた。
朝起きると、街はまるで戦争が始まったかのような緊張感に包まれていた。
あの緊張感は、なんとも言葉では表現できない。
アメリカは軍隊を持っている国。
憲法も日本とは違い、緊急事態には戒厳令を発動できる。
すべてが法律で縛り上げられる世界。
日本のような「お願いベース」の生ぬるい話ではない。
コロナのとき、アメリカでは緊急事態宣言が出され、法的に強い制限がかかった。
戒厳令こそ発動されなかったけれど、体感としてはそれに近い異常な空気だった。
軍隊が直接動員されたわけではないが、警察が厳しく街を管理していた。
お店も、レストランも、カフェも、すべて閉鎖。
"non-essential"なものは法律で完全にシャットダウンされた。
スーパーだけが唯一開いていたけれど、
小さなスーパーでも買い物をするだけで3時間待ちだった。
一人暮らしだからそんなにたくさん買うわけじゃない。
でも、不安だから、とにかく食料があった方がいいような気がして、並ばずにはいられなかった。
さらに、大きなスーパーだと、買い物に7時間かかると聞いた。
人との間に2メートル空けないといけないルールもあり、とにかく異様な光景だった。

ちょうどその少し前から、アパートで水道のトラブルが発生していた。
もちろん、この状況で誰かが修理に来られるはずもないし、引っ越しもできない。
ロックダウンされたまま、水道問題を抱えて生きていくなんて、到底無理だった。
(今思えば、ご先祖様がこのタイミングで水の問題を発動させて、
日本に帰るよう導いてくれたのかもしれない。
ロックダウンがあっても水の問題がなかったら、私はニューヨークに残った可能性が高い。)
そのことを想像するだけで、
「もう無理だ」と、心が折れそうになった。
それでも、その時点では、まだ「日本に帰国する」という概念すら持っていなかった。
ニューヨークで、なんとかこの状況を乗り切るしかないと、どこかで思っていた。
こんな状況下でも、どこかまだぼーっとしている自分がいた。
「みんな、ちょっと大袈裟なんじゃないか」と思っている部分も、正直あった。
でも、インスタで友人が完全帰国する様子を見たとき、衝撃を受けた。
ニューヨークでは、家具などの大きなゴミをサイドストリートに出して収集してもらう習慣がある。
その友人は、家の家具をすべて道に出して捨て、国境が閉まるギリギリに「急いで帰国します」と投稿していた。
さらに、ヨーロッパでは次々と国境が閉鎖され、
もはや入国すらできなくなっている現実を知った。
そして、同じ学校で教えているバイオリン講師の同僚(大の大人)が、
「怖いからお母さんの家に避難した」と言っているのを聞いたとき、
ハッと我に返った。
これって、そんなに怖いことなの?
今までどこかぼんやりしていた自分に、現実感が一気に押し寄せてきた。
大人が、真剣に「怖い」と言って行動している。
初めて、これはただ事じゃない、
本当に命の危険があるのかもしれない、と肌で感じた。
そんな中、日本にいる親ともう一人に相談してみた。
でも返ってきたのは、「そんなに早まらない方がいいんじゃないか」という言葉。
正直、それを聞いてさらにストレスが爆発しそうだった。
私は、決断できないでいること自体が、何よりも苦しかった。
「なんでみんなわかってくれないのー!」って、叫びたい気持ちだった。
すでに荷物の片付けを始めていたのに、
「じゃあ一体どうすればいいの?!」と、混乱するばかり。
それでも、迷いながらも、とにかく手を動かした。
止まったら、二度と動けなくなりそうだったから。
段ボールを買いに行くのも一苦労だった。
大きな箱を自転車に無理やり積んで、ふらふらになりながらなんとか帰宅。
荷物を詰めながら、心も体も、限界をとうに超えていた。
ストレスで胃が溶ける感覚が、はっきりとわかった。
それでも、タイマーを30分にセットして、
ずっと眠りたい体を無理やり起こした。
自分に話しかけたり、実際にお尻を叩いたりして、
「起きろ、起きろ!」と声をかけないと、もう起き上がれなかった。
一人では、もう無理。
完全に限界だった。
でも、助けてくれる人はいなかった。
それでも、荷造りだけは終わらせないといけなかった。

フライトはなんとか予約できた。
でも、当日まで飛べる保証はなかった。
貸し倉庫が営業停止になったら?
タクシーが来なかったら?
空港に行って、飛行機が飛ばなかったら?
貸し倉庫に電話しても、「明日も営業している保証はない」という冷たい返事しかもらえなかった。
しかも態度もすごく悪くて、余計に不安が募った。
まるで、無数のパズルのピースをぎりぎりのバランスで並べているような状態だった。
どれか一つでも崩れたら、完全にアウト。
すべてが賭けだった。
それでも、タクシーは来てくれた。
荷物も無事に預けられた。
空港にも入れた。
そして、飛行機も、ちゃんと離陸してくれた。
日本に着いたとき、やっと心から思った。
「ああ、本当に帰ってこれた」と。
でも、あまりのストレスと疲労で、すぐに寝込んだ。
コロナ感染を疑われて病院で検査も受けたけど、陰性だった。
(ニューヨークから来たと伝えると、すぐに病院に検査に来てくださいと促された。当時は検査キットが不足していて、誰でも簡単に受けられる状況ではなかった。)
あれだけの極限状態なら、倒れるのも当然だったと思う。

そして、やっとたどり着いた日本は、びっくりするほど穏やかだった。
スーパーにも普通に行ける。
ホームセンター(アメリカなら完全に"non-essential"扱い)にも普通に行ける。
人々も普通に外を歩いている。
家族もまだ普通に通勤していた。
その光景を見て、本当にたまげた。
「世界は、こんなにも違うんだ」と、心の底から思った。
私は、日本の生ぬるいお風呂のような平和な空気と、小春日和を楽しんでいた。
だけど、それからもニューヨークではロックダウンが続いていた。
最初のころは、コロナにかかっても国からの援助はなく、
自己負担だと800万円近くかかるという話も出回っていた。
特に、ICUに入ったり人工呼吸器を使うと、医療費が爆発的に跳ね上がり、
1000万円近くかかったケースもニュースで取り上げられていた。
(そもそもアメリカの医療制度が完全に終わっている。)
だから、病院に行きたくても行けない人がたくさんいたらしい。
少し経ってから、連邦政府が特別措置(CARES Act)を作り、
コロナと正式に診断されれば医療費がカバーされる仕組みができた。
でも、それまでは本当に命がけだった。
とにかく、ニューヨークのやばさは、想像を超えていくばかりだった。
本当にあの時、勇気を出して出てきてよかったと、心の底から実感していた。
そして私は、日本の平和なお風呂のような日常に癒されながら、
同時に、どこか満たされない違和感にも気づき始めた。
美しいものに触れたくて、
私は京都へ向かうことを決めた──。
(つづく)
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