関係がよくなったと思っていた毒親の母を、ゆるす難しさ
私の母は、思春期の私に
「あなた、このごろ太った?」
「あなたの声が気に入らない。どうしてそんなに低い声になっちゃったの?」
「昔のあなたはもっとスッキリしててステキな女の子だったのに」
といったような言葉を、平気で投げかけてくる人だった。
気に入らないことがあると、1時間も2時間も、よくまあ疲れないなと思うほど、台所で一人でガミガミ怒っていた。
小学生くらいまでは、キーキーと甲高い母の声と、鬼のような形相が怖くて黙っていたけれど、中学生になって反抗期に入り、背丈も母を追い越し、母の暴言が激しくなると、私も遠慮なく言い返すようになった。
すると、母はこう言った。
「あなたは、私を裏切った」と。
いま思えば、「女として成熟していく娘」を受け入れられなかった、母の未熟さから出てきた言葉なのだと思う。
それでも、当時の私を傷つけ、容姿への自信を失わせるには十分だった。
そのくせ、「わたし、なかなか可愛いところもあるのよ」などと、平気で言える人だった。
小物や服にこだわり、私にも好みのものを身に着けさせたがった。
本当は、ものすごくコンプレックスに苛まれているのに、自分のこだわりには最高の自信を持っていた。
料理は手作りにこだわり、こだわりの謎の料理が我が家の定番だった。
「グラタン」「カレー」「コロッケ」「春巻き」といった、きちんと名前と料理が一致する献立もあったが、特に料理名のない煮込みや、炒め物、揚げ物もよく、食卓に並んだ。
親元を早くに離れた母は、「嫁入り教育を受けていない」ことを非常にコンプレックスに感じていた。
そして、結婚前の自分の過去を、極端に隠そうとした。
中学になるまで私は、結婚前の母が何の仕事をしていて、いま何歳なのか、知らなかった。
長野で生まれて、子ども時代がないまま急に埼玉で大人になった人がたまたま、私の母という存在になった、という感覚だった。
そんな母と私は、私が20半ばで家を出るまで、ちょっとしたタイミングで言い争って過ごした。
母に、カウンセリングや受診をすすめても、頑として拒否されたまま、私は家を出た。
そしてその言い争いに一切、無関心を貫いていた父は、私が独立したのち、母を威嚇するような言い方や態度を取っていたらしいが、それについて父は私に何も話さず逝った。
おそらく、緩衝材になっていた私がいなくなったことで、母と父の関係が容赦のないものとなったのだろう。
それでも何だかんだ、病床に伏した父の看護に母は毎日おもむき、最期まで看取ったので、妻としての役目は果たしたのだと思う。
結婚し、家を出ても、母は毎日のように私に連絡を取ってきた。
そして、私が返答しないと、さもそれが非常識であるかのように、繰り返し返信を求めてきた。
また、事あるごとに
「うちの娘がご迷惑をお掛けしてないかしら?」という言葉がこちらの家族に向けられた。
夫が、
「自分が選んだパートナーなのだから、その言い方はおかしい」
「うちの妻は、あなたの所有物ではない」
と言い続け、母の思考と認知の矯正をうながしてくれたおかげで、母の「うちの娘」発言と、極端な連絡攻撃は治まってきた。
私が恐れていたのは、その所有感覚が孫にまで及ぶことだった。
けれども母は、孫が生まれたのをきっかけに、私のことを「夫の家の人間。自分とは別の家の人」として再認識したらしく、むしろこちらのやり方を尊重してくれるようになった。
そのあたりから、母と私はわりと、普通の親子のように付き合えるようになった。
私が考える普通の親子とは、
🌕言い争いなく会話ができて
🌕負担に感じるような数の連絡はなく
🌕「ありがとう」と「ごめんなさい」が素直に言い合える関係
そして、義父の介護や地域とのつきあい、孫の育児に日々奔走する私の生活を、「埼玉のばぁば」として、楽しくあたたかく見守ってくれるようになった。
そして私も、時おりは母の不穏に振り回されて苛立つことはあっても、
「あれほど憎んでいても、人は許すことができるものなんだな」
「結局は、ただ一人の母で、一生懸命母なりに私を慈しんでくれていたんだものな」
などと思えるほどには、自分の心持ちが変化していた。
それが、そう簡単なものでないとわかったのは、母の入院がきっかけだった。
入院したことで、それまで一人暮らしをどうにか続けていた母は、急にたくさんのスタッフの管理下に置かれながら生活することになった。
ベッド上の不自由な生活、呼んでも来てくれない、言葉使いの荒いスタッフ、もろもろの環境の激変と、空き家になった家の始末の事。
家のことは私が時おり様子を見にいき、片付けたり報告したりすることで平穏を得たが、ベッドから動けない体と、スタッフとのやり取りはどうしようもない。
「ここは野戦病院みたいだ」
「スタッフの質が悪すぎる」
「毎日、怒られてばかり」
「早く、ここから移りたい」
部屋にスタッフがいても、平気でそんな話をするようになった。
本人としては、いろいろと限界で言葉や表現を抑えることができなかったのだろうが、働いているスタッフの気持ちもわかるだけに、ただただ愚痴を垂れ流しにし、「閉じ込められている私の気持ちを考えて」と乞う母の姿に、昔のいびつさがじわじわと私の中で顔を出してきた。
それでも、昔と違って、毎日面会に訪れ、お茶や新聞を持ってゆき、力が足りなくて開けられないペットボトルを開けたり、靴下や首に巻くストールを交換したりする私に、「ありがとう」「本当に助かっているよ」と声をかけてくれる母に、「まあ、いつでも愚痴っていいからね」などと言える余裕が、私にもあった。
そしてそれを、「これが年の功か」などと、思ったりもした。
何と言っても私はもう、40すぎのオバサンなのだ。10代の、母の態度に逐一反応していた私とは違う。
そう、思っていた。
ところが、わりと元気になってきた母が、ポータブルトイレを使うことになり
ベッドの脇に、椅子型の便座を置き、そこで用を足したら、くくりつけてあるトイレットペーパーで清拭するのだけど
その、トイレットペーパーを付ける紐がほしいと言うので持っていったら、たまたま夕食後の時間帯で
ものすごく怒りの形相となり
「なんでこんな時間に来るの?ご飯が終わったあとはいろいろ忙しいし、あなたがいたらお膳を下げるヘルパーさんが(お膳を)下げられなくて大変なのよ!」
と、まくしたてられた時に
押しこめて、見ないようにしてきたゴミ箱の蓋が、勢いよく開いてしまったかのように
とてつもなく憎悪と暴言にまみれた過去の映像記憶が、一気に私の中から溢れ出てきてしまって
「ああ、これがフラッシュバックというものか」
と、その時に深く納得し
同時に
「許す」という行為は、とても難しい
ということを、身をもって感じた気がした。
そして、これまで、
簡単に
「許してあげなよ」
「許せる人ほど人間の器が大きいよ」
「争うより許せる人になりたいね」
などと言ってこなかったか、我が身を振り返り、反省した。
許せるほうが、よいことはわかっているし、
何ならもう、「許した」と思っていたのだ。
母は、当時、私に何を言ったかは覚えていなかったけれど、私の話を聞いて
「それはひどいことをした」
「本当に申し訳ない」
と、何度も謝ってくれたし、私もそれで許したつもりでいたのだ。
それでも、
心からの謝罪を当の本人から受けていても、
許せない記憶は、哀しみや痛みと共にあざやかに、甦ってしまうことがある。
ということを私は、人生経験のひとつとして学んだ。
おそらく、もっと「分けられれば」
楽になる部分はあるのかもしれない。
過去の記憶と、今の理不尽が繋がらなければよいのだから。
そして、年月はかかっても「思い出さないように」「忘れるように」していけばいいのかもしれない。
思い出しそうになったら、美味しそうなご飯のことを考えるとか、楽しい予定のことを考えるようにして。
「ありがとう」「助かってるよ」と笑顔で言ってくれる、まだ生きている目の前の母を、大切にしていけたらいいな、と思う。
いずれ、
「どうして毒親だった母が、変わっていったのか?」についても書いてみたいと思っています。
私の母よりもっと過激な毒親はたくさんいると思いますし、変化が全く望めない親子関係もあると思いますが、親子関係で苦しんでいる方に、何かしらの参考や気持ちの支えになる記事を書ければ、それほど嬉しいことはありません。
🌕母の入院から得た学び👇
🌕今年の母の日の記事👇今はこんな感じで、まったく「毒親子」感はない関係なんだけどな
🌕2年前に、母と義母について書いた記事。今より「ゆるせて」いる雰囲気が出てる👇
まだまだこれからも、紆余曲折しながら、母との関係は続くのです。
