反作用
面白いものを書いたり生み出したりしたあとは、高確率で「賢者モード」になります。
すっごい冷静。
いつもの顔文字も使う気がおきないくらいです。
冷静なときには、私は自然と自己分析をしてしまいます。
私はよく「脳内の面白いアイデアを外に排出しないと、頭がパンクする」というようなことを発言しておりますが、まさに怒涛のようにアイデアがひらめく時があります。
例えば去年の7月に、全13話の「私の前世探求記」を書いたときもそう。悩んだり校正を見直す暇もなく、とにかく集中して前世探求の物語を仕上げました。
それから今年2月に書いた小説「境界」のときも、あれは宇宙放送局が流している電波を拾ったかと思うくらいに、イメージや文章が「降りて」きました。
(残念ながら電波が途中で途切れてしまい、未完のままになっております)
短期的に超集中して何かを描き出すというこれらの現象に共通するのは、「書くときに大して悩まない」「ほぼ自動書記のように書ける」ということなんです。
本当に、なにか別人の描いた作品をトレースしているかのようなイメージさえあります。
おそらく、何かを受信してるんでしょうな。
その負荷に脳が耐えらんなくて、「早く排泄しなきゃ」とか、「脳がパンクする!」とか感じてしまっているのかもしれません。
そして怒涛のようなアウトプットが終わると、波が引いた海岸のように心が静かになります。
静かになった心は、ほぼニュートラル。
何の電波も受信していない、本来の私の感覚が戻ってくるような感じです。
すると、とたんに芽吹いてくるのが「コンプレックス」です。
そのコンプレックスを語るために、私の甥っ子の話をしましょう。
私には甥っ子がいます。
彼が小さかった頃は、スケッチブックに絵を描いて遊んであげていました。
桃太郎のお話をベースに、1ページごとにストーリーのワンシーンを描くんです。
例えば「川から流れてくるのは何だと思う?」と甥っ子くんにきいて、甥っ子くんが「うんこ!」と言えば川からうんこが流れてくるシーンを描く、みたいな遊びです。
それ以降、登場するキャラクターたちはみんな頭にウンコを乗せていたり、鬼ヶ島に上陸したら臭いに敏感な鬼はウンコの匂いで具合が悪くなったとか、そういうお話を甥っ子くんと一緒に作ったりしていました。
このように、私は子供と一緒に遊ぶのが上手な一面もあります。
子供に合わせているというより、私の中の子供の部分が現役なのでしょう。それは人生を楽しむ視点を持つという部分ではとても役に立っていますが、同時に大きなコンプレックスでもありました。
特に私の同年代の友達とは、とにかく話が合いませんでした。
中学、高校と周りのみんなが成長していく中にあって、私だけ精神年齢が小学生で止まっているかのようでした。
私はそれを気にしなくても、友達はイライラしていました。思春期ですからね、子供っぽさをすごく敵視するお年頃です。
まあ、周りからいくら変な目で見られたとしても、45歳になっても「うんこ」の画像で楽しんでいるので、今となっては何の問題もありませんが、俗に言う「アダルトチルドレン」のようなものなのでしょう。
私には友達がほとんどいなくなりました。
というか、私と同等に話せるほどの知識と感覚をもった人が周りに居ないのです。これは見下すとかじゃなくて事実。
あと、自然と避けられたり、仲間外れにされたりもしましたけどね。
みんなそれぞれの人生があって、家庭を持ったり趣味を持ったりしながら、一生懸命生きているという点では同じです。
けど、私はみんなと同じ視点で生きることができていないという自覚があって、それがちょっとだけ心にひっかかるのです。
共感できない、っていうのは、自他ともに気分の悪いことでもありますし。
そのひっかかりを感じるのが嫌だから、私は自ら友達付き合いを遮断している部分もあります。
「みんなの輪」の中に入ると、自分の異質さがよく分かるんです。私は異質な自分が大好きですから、余計なことで傷つきたくないんですよね。
心のエネルギーは有限ですから、使うべき時と場所をわきまえないともったいないのです。
それゆえに、つまらないことで悩むことも今はしなくなりました。
例えば友達の輪の中に入って、受け入れてもらえるようにするにはどうしよう、と悩むことだってできるはずです。
ですが、今の私は、「そんな愚かな事で悩むのはもったいない」と感じています。
愚かだとか、つまらない等を判じる基準が自分の中に明確になったから、そう言えるんです。
その基準が曖昧なときは、身の回りのなにもかもが悩みのタネとなり、それらに振り回されてばかりでした。
それでは心のエネルギーを浪費するだけなのですが、悩みの渦中にあるときは心のエネルギーが有限だなんて思わないんです。
だからいつまでも延々と悩み続けて、エネルギーが枯渇して心が病んでしまうというのが、多々ありました。
心のエネルギーが有限であるという認識は大切だと思います。
それによって、「この悩みはエネルギーを使う価値があるのか?」と考えられるようになりますからね。
それに気づいたきっかけとなったのは「右手の怪我」です。
怪我の後遺症で握力が弱まり、一日のうちに使える筋力っていうのが限られてしまっているんです。
よって、その有限の握力を何に使うかというペース配分が大事になります。
日記とイラストを描くことが、私の趣味でしたが、今はもうどちらもほとんど描くことができません。
描くことはできるんですが、それをやると他のことができなくなります。
だから、生活を犠牲にして趣味を選ぶのか、趣味を犠牲にして生活を選ぶのかという二者択一をせまられているという状況なのです。
私は生活のために2つの趣味を封印しました。
けど、今はそれらを捨てても有り余るほどの喜びと充実感を得ることができています。
趣味以上に価値のあるものに握力を使っている、と思えるようになったからです。
これはとても幸せなことだと思います。
正直な話、私は「引き寄せ」とか、「幸せになるには」といった概念が、今はあんまりピンと来ません。
私の身の回りに起こることの全てが、「足りている」と思えるからです。
足りていると言っても、当然のように困難もあるし、思い通りにならないこともたくさんあります。
欲しいものが手に入らないもどかしさも感じます。
でも、それでいいじゃないの、と思えることが「足りている」ということなのかな、と。
うまくいかないからこそ、工夫と努力で道を切り開くことができて、その喜びや達成感を感じられるのだし。
回り道をしたからこそ見える景色だってあるわけだし。
失敗や痛い思いをしたからこそ、人の痛みに寄り添える人間にもなれるわけだし。
知ってますか?
肩こりになったことのない人って、マッサージが下手なんですよ。力の加減や、ポイントが分からないからなんですね。
同じように、心の痛みを知らない人が、傷ついてる人にアドバイスをしようとしてもかえって傷をえぐるような結果にもなるんです。
痛みを知ることは、辛いけど大事なことよ。
大切な人を守る力になるざます。
