「わかりました」と頷いた、あの日の食事指導
📖 カルテの余白 #7|← 前回:#6 やっぱり糖尿病なんですね
この記事に登場する方は、複数の患者さんのエピソードをもとに再構成しています。
カルテの画面を開くと、6ヶ月前のHbA1cと、今日の採血結果が並んでいた。
8.2%… 変わっていない。
少し前までは8.4%…
じわじわと下げていきたいと思って、食事の話をして、運動の相談をして、半年後に再会した日。
そのひとは、診察室の椅子に座って、少し申し訳なさそうに言った。
「ちゃんと、やってたんですけどね……」
目の奥に、小さなもどかしさがあった。頑張ったのに、数字が動かなかった──その悔しさが、声の端に滲んでいた。
「わかりました」と頷いた、あの日
半年前の診察のことを、私ははっきり覚えている。
初めての食事指導で、栄養士さんから丁寧な説明を受けた。食後高血糖を防ぐために、ごはんの量を少しだけ減らして、野菜から食べる順番を意識して、甘いジュースは水かお茶に。
「わかりました」
そのひとは、真剣な表情で頷いた。
紙の資料も受け取って、家に持って帰った。
──私たち医療者は、この「わかりました」を、つい文字通りに受け取ってしまう。
でも、臨床を続けていると気づく。
診察室で「わかりました」と頷くことと、家に帰って実際にそれを続けることの間には、想像以上に深い溝があるのだ、と。
「実は……」と言えるまで
その日、HbA1cが動かなかったという事実を前に、そのひとはしばらく黙っていた。
私も、急かさずに待った。
診察室でよく起こることだけれど、「食事、どうでしたか?」という問いに、すぐには答えが出てこない。「できていないこと」を口にするのは、本人にとっても気まずい。
数十秒の沈黙のあと、そのひとは、ぽつりと言った。
「実は、妻が甘いものを買ってくるんです。」
それが、半年間、誰にも言えなかった話の入口だった。
「自分だけが我慢しようとしても、冷蔵庫を開けたら、ケーキが入ってるんです。仕事から帰って疲れてると、食べちゃいます。」
「妻に悪気はないんです。むしろ『甘いもの食べて元気出して』って、そういう気持ちで買ってきてくれてて……」
「『糖尿病なんだから、買ってこないで』って、うまく言えなくて。」
半年前、栄養士さんの説明を「わかりました」と頷いたとき。
そのひとは、自分の頑張りだけで変えられる世界のことを考えていた。
でも、実際の食卓は、一人で作るものではなかった。
冷蔵庫の中身も、夕食の献立も、外食の頻度も…
生活のほとんどは、本人の意志だけでは決まらない。
データで見る:「続かない」は例外ではなく標準
食事療法が続かないこと。これは、その人の意志が弱いからではない。
国内外のさまざまな研究で、糖尿病患者さんが栄養指導を受けたあと、6〜12ヶ月後には半数前後が当初のプラン通りに続けられていないと報告されている。
これは、糖尿病に限った話でもない。禁煙・減塩・運動──どんな生活習慣介入でも、長期の継続率は30〜50%程度にとどまるというのが、どの領域でも共通の課題だ。
つまり、「続かない」ことは例外ではなく、標準的な現象なのだ。
さらに、続けられるかどうかに大きく影響するのが、"家族"の存在だ。
海外のメタ解析では、同居家族が食事療法に理解・協力している群は、そうでない群に比べて、HbA1cが有意に低い傾向が繰り返し報告されている。差は 0.3〜0.7% ほど。これは経口血糖降下薬1剤分にも匹敵する効果だ。
日本の研究でも、配偶者が栄養指導に同席したグループのほうが、一人で受けたグループよりも、半年後の食行動の継続率が高かったという報告がある。
食事療法は、本人ひとりの戦いではない。
そして、日本の食文化そのものも、静かに効いてくる。
厚生労働省の国民健康・栄養調査では、外食の頻度は男性が女性より高く、特に働き盛りの年代では週数回以上が珍しくない。仕事の付き合い、接待、残業帰りのラーメン──断ることで評価が下がると感じる場面も少なくない。
一人暮らしの世帯では、野菜摂取量が家族同居の世帯よりも低い傾向がある。コンビニや中食への依存が高まり、糖質中心の食事になりやすい。
食事は、"生活の文脈"の中にある。
その文脈を見ずに、「野菜から食べてください」と言うだけでは、届かないのは当然なのだ。
「意志力」ではなく「文脈」が、行動を決めている
近年、医療の世界では「健康の社会的決定要因(Social Determinants of Health:SDH)」という概念が浸透してきた。
健康は、個人の選択だけでは決まらない。家族、職場、地域、経済状況、文化──そういった環境の総和が、日々の行動を形作っている。
食事も、まったく同じだ。
「糖尿病なんだから、食べなければいい」
「意志を強く持てば、誘惑に負けない」
──そういう言葉は、診察室の外の生活を知らない言葉だ。
人は、冷蔵庫に入っているものを食べる。
家族が買ってくるものを食べる。
職場で出されるものを食べる。
時間がないときに、コンビニで買える場所のものを食べる。
行動は、意志ではなく、文脈が決めている。
診察室で、聞き方を変えた
この気づきを重ねたあと、私は診察室での食事の聞き方を、少しずつ変えた。
以前は、「何を食べていますか?」と聞いていた。
いまは、「誰と、いつ、どんなふうに食べていますか?」と聞くようにしている。
朝食はひとりで食べるのか、家族と食べるのか。
夕食は誰が作るのか。
平日と休日で、食卓の景色はどう違うのか。
仕事の付き合いは、どれくらいの頻度であるのか。
冷蔵庫の中には、普段どんなものが入っているのか。
こういう質問をするようになると、診察室で見える景色が変わってくる。
「食べすぎ」の正体が、"家族の愛情表現"だったり、"仕事の人間関係"だったり、"疲労と孤独"だったりする。
それが見えてくると、提案できる選択肢が変わる。
「奥さまにも、一緒に栄養士さんの話を聞いてもらえませんか」
「付き合いの外食の日は、翌日の朝食で調整してみませんか」
「週末に少しだけ、作り置きを試してみませんか」
一律の「食事療法」ではなく、その人の生活の文脈に合わせた、細い路地のような提案に、少しずつ近づいていく。
責める場所ではなく、見つめる場所へ
あのとき、半年ぶりに再会して「ちゃんとやってたんですけどね……」と言ったそのひとに、私は、数字を指差して説教することはしなかった。
代わりに、こう言った。
「半年、よく頑張って続けて通ってくれましたね。」
それから、ゆっくりと、生活の話を聞かせてもらった。
家族のこと。仕事のこと。冷蔵庫のこと。いつ甘いものに手が伸びるか。
ひと通り話し終わったとき、そのひとは、ふっと少し笑って言った。
「こんな話、先生にしていいんですかね。」
私は「もちろんです!!」と返した。
「どう食べているか」は、検査値の奥にある、いちばん大事な情報なんです。
診察室は、責める場所ではない。
生活を、一緒に見つめる場所だ。
「わかりました」と頷いたあの日に、本当に渡すべきだったのは、もしかすると栄養の資料ではなかったのかもしれない。
「今日の話を、家で誰かと共有できそうですか?」
「この資料、ご家族にも見せてもらえますか?」
そんなひと言だったのかもしれない。
食事は、ひとりで作るものではない。
健康も、ひとりで作るものではない。
そのことを、半年ぶりの再会が、また教えてくれた。
参考情報
・日本糖尿病学会『糖尿病診療ガイドライン』(栄養指導の長期継続)
・Glasgow RE, et al. Behavior change intervention research in healthcare settings(生活習慣介入の長期継続率)
・Rintala TM, et al. Family member support and diabetes self-management(家族サポートとHbA1cのメタ解析)
・厚生労働省『国民健康・栄養調査』(外食頻度・単身世帯の栄養状態)
・WHO: Social Determinants of Health(健康の社会的決定要因)
・Marmot M. The Health Gap(社会環境と健康の関連)
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※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の治療方針を示すものではありません。登場する患者像は、プライバシーに配慮して複数の臨床経験をもとに構成しています。
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