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「フーリン切断部位」は何を語っているのか——新型コロナ起源論争を科学的に読み解く

はじめに:問いは消えないまま、時間だけが過ぎた

2020年、世界は文字通り止まった。

飛行機が飛ばなくなり、街から人が消え、病院の廊下に防護服姿の医療従事者が列をなした。あの春から5年以上が経つ。ワクチンが普及し、感染者数の波は繰り返しながらも、社会はかつての日常を取り戻しつつある。

しかし一つの問いだけは、未解決のまま現在にたどり着いている。

「新型コロナウイルスは、どこから来たのか」

この問いをめぐって、SNS上では「人工ウイルスだ」という陰謀論から、「自然発生は完全に証明された」という楽観論まで、あらゆる主張が飛び交ってきた。そしてその議論の中心に、繰り返し登場し続けるキーワードがある。

フーリン切断部位(Furin Cleavage Site:FCS) だ。

この言葉を聞いたことがある人は多いだろう。しかし「それが何なのか」「なぜ重要なのか」「人工の証拠なのか、それとも自然の産物なのか」——それらを正確に理解している人は、それほど多くないかもしれない。

本稿では、パンデミック最大の未解決問題に対して、科学が現在どこまで答えを出しており、どこから先がまだ「霧の中」なのかを、できる限り誠実に整理したい。

まず整理しておきたいこと:SARS-CoV-2とは何か

「新型コロナ」という言葉は日常語として定着したが、正確に言えばこの言葉は二つのものを指している。

  • SARS-CoV-2:ウイルスそのものの名称

  • COVID-19:このウイルスが引き起こす感染症の名称

2003年に世界を震撼させたSARSウイルス(SARS-CoV)と遺伝的に近縁であることから、「SARS-CoV-2」と命名された。つまり"第二のSARS"という意味合いを持つ。

このウイルスはコウモリ由来のコロナウイルスと高い遺伝的類似性を示す。コウモリは多種多様なコロナウイルスを宿している"自然の貯蔵庫"であり、SARS-CoV-2の直接の祖先もそこに存在すると多くの研究者は考えている。ただし、どのルートで人間に感染したかは、まだ明確にはなっていない。

フーリン切断部位とは何か——「鍵と錠前」のたとえで理解する

さて、問題の核心であるフーリン切断部位の話に入ろう。

少し詳しく説明するが、難しくはない。

ウイルスが細胞に感染するためには、細胞の表面に「くっついて」、そこに「入り込む」というプロセスが必要だ。SARS-CoV-2の場合、この役割を担うのがウイルス表面に突き出た「スパイクタンパク質」である。

スパイクタンパク質はさらに二つのパーツに分かれている。

  • S1(サブユニット1):細胞表面の受容体(ACE2)に結合する「鍵」の役割

  • S2(サブユニット2):細胞膜と融合して内部へ侵入する「扉を開ける」役割

ここで重要なのは、この二つのパーツは最初は一体化しており、「切断」されることで初めて機能するという点だ。言うなれば、切断は「安全装置を解除する」操作に相当する。

そして、この切断を担う酵素が「フーリン」である。フーリンは人間の細胞のいたるところに存在するタンパク質分解酵素で、特定のアミノ酸配列(RRAR)を認識してそこを切る。SARS-CoV-2のスパイクには、まさにこの「RRAR」という配列が存在している——これがフーリン切断部位だ。

鍵とフーリンの関係をたとえるなら、**「フーリン切断部位は、ウイルスの侵入準備スイッチをONにする引き金」**といえる。

実験でこの部位を取り除いたウイルスは、感染効率が著しく低下した。フーリン切断部位が、SARS-CoV-2の高い感染力を支える重要な要因の一つであることは、現在の研究で広く認識されている(Morgan et al., 2025)。

なぜこれが「異常」に見えたのか

SARS-CoV-2が発見された当初、研究者たちがこのフーリン切断部位に注目した理由は明快だった。

近縁のウイルスには、これがなかったからだ。

SARS-CoV-2の遺伝的に最も近い既知のコロナウイルス(RaTG13など、コウモリから発見されたもの)には、同じ位置にフーリン切断部位が存在しない。他のSARSr-CoV(SARS関連コロナウイルス)のグループにも、この部位は確認されていなかった。

「突然、どこからともなく現れた特殊な配列」——これが当初の印象だった。

スクリップス研究所のウイルス学者デイヴィッド・ボルティモア(ノーベル生理学・医学賞受賞者)は2021年のインタビューで、「ゲノム内に12塩基の挿入があり、それはベータコロナウイルスのクラスには完全に外来的なものだ。これを最初に見たとき、私は妻に"これが起源の喫煙銃(決定的証拠)だ"と言った」と述べている(Caltech, 2021)。

ただしボルティモア自身はすぐに補足している——「喫煙銃という表現を使ったが、ゲノム自体に本当の意味での決定的証拠があるとは思っていない」と。

この発言に凝縮されているように、フーリン切断部位は「疑問を提起する証拠」ではあるが、「人工合成を証明する証拠」ではない。この区別が極めて重要だ。

「人工の証拠」とは言えない理由

では、なぜ研究者の多くはフーリン切断部位を人工合成の証拠とみなしていないのか。

理由は一つではない。

第一に、フーリン切断部位は自然界に珍しいものではない。

MERS(中東呼吸器症候群)の原因ウイルスであるMERS-CoV、ヒトに一般的な風邪を引き起こすHKU1やOC43など、他のコロナウイルスにも類似の配列が存在している。「フーリン切断部位=人工」という図式は、そもそも成立しない。

第二に、コウモリ由来ウイルスからも類似の配列が発見されている。

2023年、中国の研究グループは「Bat CoV CD35」というコウモリ由来のウイルスを同定し、SARS-CoV-2とほぼ同一のフーリン切断部位を持つことを報告した(Zhu et al., 2023)。この発見は「フーリン切断部位がコウモリコロナウイルスの世界にも存在する」という自然由来説にとっての重要な根拠となった。

さらに、ヨーロッパのコウモリウイルスの多様性を解析した研究でも、フーリン切断部位に関連する配列の多様性が示されている(Lytras et al., 2021)。

第三に、進化の観点から見て「自然取得」は十分ありえる。

RNA ウイルスは高速で変異する。遺伝子組み換えや短い配列の挿入は、ウイルスの自然進化において珍しくない。特定のアミノ酸配列を自然に獲得するシナリオは、理論的には否定できない。

こうした根拠から、Chan & Zhan(2021)による詳細なレビューも、「フーリン切断部位の存在のみでは自然由来か人工かのどちらも断定できない」と結論づけている。

武漢ウイルス研究所をめぐる問題

「フーリン切断部位が不自然に見える」という疑念と、「パンデミックが武漢で始まった」という事実が結びついたとき、多くの人が目を向けたのが武漢ウイルス研究所(WIV)だった。

武漢ウイルス研究所は中国有数のウイルス研究施設であり、シー・ジェンリ(石正麗)博士を中心に長年コウモリ由来コロナウイルスの研究を行ってきた。スパイクタンパク質の切断部位を操作する実験、いわゆる「機能獲得研究(gain-of-function research)」に関連する研究が行われていたことも事実だ。

パンデミックが同じ都市の研究所で始まったというのは、状況証拠として軽視できない。米国のいくつかの情報機関(FBI、エネルギー省など)は「研究所事故説」を低・中程度の確信で支持するという評価を示した。

しかし同時に、以下のことも事実だ。

研究所事故を直接証明する証拠は、現時点で一切公表されていない。

研究所内でSARS-CoV-2またはその直接祖先が扱われていたという証拠もない。中国側のデータへのアクセスが制限されているため、調査が困難を極めているという問題もある。

要するに、「証明できる証拠がない」という状況は、「無実の証明」ではない。しかし「有罪の証明」でもない。科学的に正直な態度は、「現時点では不明」と言うことだ。

華南海鮮市場:最初の舞台

一方、動物由来説を支持する研究が着実に積み上げられている。

2022年、著名な進化生物学者マイケル・ウォロベイら(Worobey et al., 2022)は Science 誌に論文を発表し、2019年12月の初期症例の地理的分布を詳細に分析した。その結果、症例は華南海鮮市場の周辺、特に生きた野生動物が販売されていた区画に集中していることを示した。

さらにペカーら(Pekar et al., 2022)は同じ Science 誌に掲載された論文で、初期のウイルスゲノムにはA系統とB系統という二つの異なる系統が存在し、これは少なくとも2回の独立した動物→ヒト感染事例があったことを示唆すると分析した。

これらの研究は「市場での動物からの直接感染」という仮説を強く支持するものとして注目された。

ただし市場で採取された環境サンプルからウイルスが検出されても、動物サンプルからは検出されなかった(Liu et al., 2023)という点は未解決の謎として残っている。「感染した動物が何だったか」はいまだ特定されていない。アライグマイヌ(タヌキに似た動物)などが候補として挙げられているが、決定的ではない。

論争の背景にある"社会的圧力"

ここで、科学の外側にある問題にも触れておかなければならない。

パンデミック初期の2020年3月、Kristian G. Andersenらは Nature Medicine 誌に「The Proximal Origin of SARS-CoV-2」(SARS-CoV-2の近接起源)と題する論文を発表した(Andersen et al., 2020)。この論文は「SARS-CoV-2は研究所で作られたものではない」という結論を打ち出し、以後の公衆衛生コミュニケーションに大きな影響を与えた。

ところが後に公開された著者間のメールやSlackメッセージによって、著者たちが論文執筆時点で研究所漏洩の可能性を「非常に高い」と私的には考えていたことが明らかになった。研究費配分を握る組織への配慮や、「デマを封じる」という政治的圧力が、科学的な慎重さを上回ったのではないかという批判が噴出している。

この問題は「どちらの起源説が正しいか」とは独立した問題として重要だ。科学者が社会的・政治的圧力によって自らの見解を変えるとすれば、それは科学の信頼性そのものを損なう。

起源論争は、ウイルス学の問題であると同時に、科学ガバナンスの問題でもある。

現在の「コンセンサス」と「未解決」の地図

2026年現在、主要な科学機関・研究者の多数派は「自然由来説を支持する証拠の方が優勢」という立場をとっている。

現時点で科学的に言えること:

  • 最初の大規模アウトブレイクは武漢・華南海鮮市場周辺で発生した

  • SARS-CoV-2はコウモリ由来コロナウイルスと遺伝的に近縁である

  • フーリン切断部位は感染力強化に大きく寄与しているが、これ自体は人工合成の証拠ではない

  • 自然界のコウモリウイルスにも類似の配列が発見されており、自然獲得のシナリオは十分ありえる

現時点でまだわかっていないこと:

  • 最初に感染した人物(Patient Zero)は誰で、どこで感染したか

  • 動物から人間への伝播に中間宿主が存在したか、またそれは何か

  • フーリン切断部位がどの段階でどのように獲得されたか

  • 武漢ウイルス研究所との関与の有無(データが公開されていないため検証困難)

「自然由来説が優勢」とは、「完全に証明された」という意味ではない。現在の証拠の重みが自然由来の方向を向いているということだ。しかし科学は常に新たなデータによって更新される。未公開のデータや新たな野外サンプリングの結果次第では、評価が変わる可能性はゼロではない。

科学との向き合い方——「分からない」を恐れないために

最後に、この問題が提起する、より本質的な問いについて触れたい。

新型コロナの起源問題ほど、「不確実性に対する人間の反応」が鮮明に現れたテーマも珍しい。

私たちは「答え」を強く求める。それは認知的に自然なことだ。「人工か、自然か」という二択に物事を収めてしまいたいという欲求は、複雑な現実を前にした人間の脳の節約術でもある。

しかし科学の本質は、証拠に基づいて仮説を更新し続けることにある。「分からない」という状態は、知的な誠実さの表れであり、無知の告白ではない。

「自然発生は完全に証明された」とも、「人工ウイルスだと確定した」とも言えない現状は、科学の失敗ではなく、科学が誠実に機能している証だとも言える。

私たちに必要なのは、自分が信じたい結論を先に決めて、それを裏付ける情報だけを集めることではない。現在得られている証拠を冷静に見渡し、「優勢な説」と「未解決の疑問」を両方保持する——そういった知的な態度だ。

フーリン切断部位という小さな分子構造をめぐる論争は、そのことを私たちに改めて問いかけている。

参考文献

  1. Andersen, K.G., Rambaut, A., Lipkin, W.I., Holmes, E.C., & Garry, R.F. (2020). The proximal origin of SARS-CoV-2. Nature Medicine, 26, 450–452. https://doi.org/10.1038/s41591-020-0820-9

  2. Chan, Y.A., & Zhan, S.H. (2021). The Emergence of the Spike Furin Cleavage Site in SARS-CoV-2. Molecular Biology and Evolution, 39(1), msab327. https://doi.org/10.1093/molbev/msab327

  3. Worobey, M., Levy, J.I., Malpica Serrano, L., et al. (2022). The Huanan Seafood Wholesale Market in Wuhan was the early epicenter of the COVID-19 pandemic. Science, 377, 951–959. https://doi.org/10.1126/science.abp8715

  4. Pekar, J.E., Magee, A., Parker, E., et al. (2022). The molecular epidemiology of multiple zoonotic origins of SARS-CoV-2. Science, 377, 960–966. https://doi.org/10.1126/science.abp8337

  5. Zhu, W., Huang, Y., Gong, J., et al. (2023). A novel bat coronavirus with a polybasic furin-like cleavage site. Virologica Sinica, 38(4), 604–607. https://doi.org/10.1016/j.virs.2023.05.001

  6. Morgan, A.L., Vu, M.N., Zhou, Y., et al. (2025). The furin cleavage site is required for pathogenesis, but not transmission of SARS-CoV-2. bioRxiv. https://doi.org/10.1101/2025.03.10.642264

  7. Liu, W.J., Liu, P., Lei, W., et al. (2023). Surveillance of SARS-CoV-2 at the Huanan Seafood Market. Nature, 603, 402–407. https://doi.org/10.1038/s41586-023-06043-2

  8. Temmam, S., Vongphayloth, K., Baquero, E., et al. (2022). Bat coronaviruses related to SARS-CoV-2 and infectious for human cells. Nature, 604, 330–336. https://doi.org/10.1038/s41586-022-04532-4

  9. Lytras, S., Hughes, J., Martin, D., et al. (2022). Genomic determinants of Furin cleavage in diverse European SARS-related bat coronaviruses. bioRxiv. https://doi.org/10.1101/2021.12.15.472779

  10. Baltimore, D. (2021, June). The Debate over Origins of SARS-CoV-2. California Institute of Technology News. https://www.caltech.edu/about/news/the-debate-over-origins-of-sars-cov-2


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