「正義」の定義は、プラトンから変わり続けている
「正義のために戦う」「これは不正義だ」——正義という言葉は人を動かす力を持つ。革命も戦争も裁判も、「正義」の名のもとに行われてきた。でも考えてみると、「正義とは何か」は2500年以上議論され続けており、いまだに一つの答えは出ていない。プラトン、功利主義者、ロールズ——それぞれの「正義」は驚くほど違う。

●「正義」の語源——バランスと債務から
英語のjustice(正義)は、ラテン語のjustitia(公正さ、適切さ)から来ている。さらに遡るとjus(権利、法、適切な関係)に行き着く。
一方、古代ギリシャ語では「正義」をdike(ディケー)と言った。ディケーは神話では正義の女神の名前でもあり、「裁き」「バランス」「応報」を意味した。目には目を、与えたものは返ってくる——正義の原初的な感覚は「バランスの回復」にあった。
興味深いのは、日本語の「義」という漢字だ。「義」は「羊(いけにえ)」と「我(自分)」から成るという説もあり、自分を犠牲にする美徳——という意味合いがある。「義理」「義侠」「義士」——日本の「義」は、個人の権利よりも関係性や共同体への責任を重視する文化的背景を持っている。西洋的な「権利の正義」と日本的な「関係の義」は、同じ「正義」を語りながら微妙にずれた概念を指している。
●プラトンの正義——「各自が役割を果たすこと」の危険性
プラトンは対話篇「国家」の中で「正義とは各人が自分の役割を果たすこと」と定義した。統治者が統治し、戦士が戦い、職人が職人の仕事をする。魂においては、理性が欲望をコントロールし、気概がそれを助ける。秩序と調和こそが正義だ、とプラトンは言った。
この定義には美しさがある。無秩序よりも秩序を、混乱よりも調和を——という直感に訴える。
しかし問題がある。プラトンの正義論は「奴隷が奴隷として働くこと」も「正義」として正当化できる。奴隷は「奴隷という役割を果たしている」のだから。プラトン自身が生きたアテネは奴隷制社会であり、彼の正義論はその社会秩序を脅かさなかった。
これが正義論の歴史的教訓の一つだ——「秩序を守ること」を正義とするとき、その秩序が誰かの不正義の上に成り立っていても見えなくなる。正義の定義が現状維持のイデオロギーとして機能する危険性だ。
●功利主義の正義——1人が死ねば5人助かる、は正義か
19世紀のジェレミー・ベンサムとジョン・スチュアート・ミルが唱えた功利主義は「最大多数の最大幸福をもたらすことが正義」と定義した。快楽と苦痛の総量を計算し、幸福の総量が最大になる選択が正しい。
この定義には合理的な魅力がある。主観的な感情ではなく、結果の計算で正義を決める。感情に流されず、冷静に「どの選択が最も多くの人を幸せにするか」を考える。
トロッコ問題がこの定義を試す。暴走するトロッコが5人に向かっている。レバーを引けばトロッコは別の線路に逸れるが、そこには1人がいる。引かなければ5人が死ぬ。引けば1人が死ぬ。功利主義的には答えは明確だ——レバーを引いて1人を犠牲にし、5人を救う。5 > 1 だから。
しかしここに恐ろしい論理の展開がある。1人の臓器を摘出して5人の患者を救うことは正義か。功利主義的には5 > 1 なので正義になる。無実の人を一人処刑することで市民の暴動を抑え千人が死なずに済むなら、それは正義か。
功利主義の正義は、多数派の幸福のために少数派を「手段」として扱うことを正当化しうる。この限界が、次の正義論を生み出した。
●ロールズの正義——「無知のヴェール」という思考実験
20世紀最大の政治哲学者と言われるジョン・ロールズが1971年に『正義論』を発表したとき、功利主義に対する最も強力な反論が生まれた。
ロールズの核心は「原初状態(original position)」という思考実験だ。あなたがこれから生まれる社会のルールを決めるとして、自分がその社会でどんな立場に生まれるかを知らない状態を想像してほしい——これが「無知のヴェール(veil of ignorance)」だ。
自分が金持ちか貧しいか、男性か女性か、多数民族か少数民族か、障害があるかないか——何も知らない。そのとき、あなたはどんな社会のルールを選ぶか。
ロールズの答えはこうだ。誰もが無知のヴェールの下で理性的に選べば、最も恵まれない立場の人が最もよい状況になるように設計された社会を選ぶはずだ。これを「マキシミン原則」と言う——最悪の状況を最大化すること(最悪の状況をできる限りよくすること)。
なぜなら、自分が最底辺に生まれる可能性があるのなら、底辺が極端に悪い社会は選べないからだ。無知のヴェールは「自分が弱者かもしれない」という可能性を強制的に考えさせる装置だ。
●サンデルが世界中で問いかけたこと
マイケル・サンデルのハーバード大学の講義「Justice(正義)」は、大学の授業では異例となる世界中で視聴され、YouTubeだけで3800万回以上再生された。2010年に出版された『これからの正義の話をしよう』は日本でも100万部以上のベストセラーになった。
なぜサンデルの正義論がこれほど響いたのか。サンデルは抽象的な哲学を、誰もが直感的に感じる問いに変換したからだ。「兵士のPTSDと音楽家のPTSD、どちらの症状が深刻か」「アフガニスタン駐留米軍の民間人護衛は正しいか」「成績より多様性を重視した大学入試は正義か」——これらは答えが一つでない問いだ。
サンデルはまた、ロールズやカントの自由主義的正義論に対し、共同体主義(コミュニタリアニズム)の立場から批判した。「無知のヴェールの背後にある主体は、文化・歴史・共同体から切り離された空っぽの自己だ。そんな人間は存在しない」と。正義は、共同体の価値・伝統・歴史と切り離せない——これがサンデルの主張だ。
●「応報的正義」と「修復的正義」——犯罪への対応はどうあるべきか
現実の法制度で「正義」が問われるのは、犯罪への対応だ。ここでも定義が割れる。
応報的正義(retributive justice)は「罪には罰が伴うべきだ」という考え方だ。犯罪者はその行為に見合った苦痛(刑罰)を受けるべき——これは直感的な「正義感」と一致しやすい。目には目を、の現代版だ。
修復的正義(restorative justice)は全く違う方向を向いている。「正義とは、傷ついた関係を修復すること」という考え方だ。被害者・加害者・地域社会が対話し、何が起きたか・何が必要かを話し合う。刑罰よりも回復と和解を重視する。
ニュージーランドの先住民族マオリの伝統的な紛争解決の実践に影響を受けたこの考え方は、現代の刑事司法に取り入れられつつある。「加害者を罰することが被害者の回復になるのか」という問いは、応報的正義への根本的な疑問だ。
●「詩的正義(poetic justice)」——物語が求める正義
文学の世界に「ポエティック・ジャスティス(詩的正義)」という概念がある。悪者は最後に報いを受け、善人は報われる——物語の結末に求めるバランスの感覚だ。
現実には「詩的正義」はめったに実現しない。悪人が罰せられず、善人が不遇のまま死ぬことは珍しくない。しかし人間は物語の中に正義の実現を求め、それで感情的な満足を得る。裁判劇・勧善懲悪の時代劇・ヒーロー映画——これらは「詩的正義」への欲求を満たすエンターテインメントだ。
「現実の正義」と「物語の正義」のギャップは、人間が正義に何を求めているかを映している。法的な正義(手続きの公正さ)、道徳的な正義(悪者が報いを受けること)、感情的な正義(被害者が癒されること)——これらは必ずしも一致しない。
●あなたが「正義」と感じるとき
「これは不正義だ」と感じる瞬間はある。その感覚はどの正義論に近いか。
「ルールが破られた」という憤りは応報的正義の感覚だ。「もっと多くの人が幸せになる方法があるのに」という歯痒さは功利主義的な感覚だ。「弱者がもっと守られるべきだ」という感覚はロールズ的な感覚だ。「共同体の大切にしてきた価値が壊された」という怒りはサンデル的な感覚だ。
厄介なのは、これらが同時に、しかし異なる方向を向いて作動することだ。「正義のために戦っている人同士が争う」のは、異なる正義の定義を持っているからだ。
2500年たっても「正義」の定義は確定していない。それはこの問いに答えがないのではなく、人間が何を大切にするかについての問いが、いつの時代も変わり続けているからかもしれない。
あなたが「正義」と呼ぶものは、誰のための、どんな正義か。
