見出し画像

熱血キーボード小僧、その後

 上田でピアノ教師としてスタートを切った28歳の春、かって自分がプログレ・キーボード少年だったことは、すでに“過ぎ去った思い出”となっていた。ところが、その過去の思い出が、意外な形で再び息を吹き返すことになる。

 所属することになった音楽教室は、ビクターの教育システムを採用しており、ピアノと並んで、初期教育の“リトミック”、そしてビクターの電子オルガン“ビクトロン”のための独自のメソッドを、三つの柱として掲げ、力を入れていた。
 入職して間もない頃、同期採用された若手講師が集められ、ビクター本社から派遣されてきた営業社員によって、2段鍵盤と足鍵盤を装備した“ビクトロン”なる製品の説明を受けた。会社にとっては、それがビクトロン講師を育成するための第一歩だったのだが、自分にとって、それは、まったく違う転換点となる。
 初めてその鍵盤楽器を見たその瞬間、ほとんど反射的に胸が躍った。楽器の形状やオルガンの音色など、ほとんどハモンドそっくりに出来ていた。しかも、そこにアナログ・シンセサイザーも搭載されていて、それは、僕にとって、子どもに教えるため教育楽器ではなく、70年代ロック・キーボーディストのための最強兵器だった。

 その後、ビクターのメソッドを使った指導講師によるレッスンを何度か受講させられたが、その教材、そして行儀よく椅子に腰掛けて足鍵盤を踏み鳴らすスタイルに興味が持てず、指導講師相手に、かつて自分がステージでプレイしていたアドリブ・フレーズを披露したり、キーボード主体の人気バンドだったEL&Pのアルバムを聴かせたりと、準備されたコースに全く乗っかろうとしなかった。しばらくして、指導講師にそのレッスンの中止を願い出ることになる。営業の上層部には、ピアノ教育一本に絞らせて欲しい旨を伝え、とくに反対も無く受諾されるが、まだそうなる少し前のことだった。

 レッスン時に、指導講師のほうから、コンクールに出場する自分の生徒のために、EL&Pのヒット曲『タルカス』をアレンジしてもらえないかと頼まれた。かつて、プログレの代表曲として最も魅かれた曲だ。その際、前年の全国大会のプログラムを見せてもらったのだが、優勝曲として記載されていた曲名が、なんと、『タルカス』と同じく、キース・エマーソン作曲の『ピアノ協奏曲』だった。
 アルバムの売り上げが振るわず、ロック界における存在感も霞んでいた大作が、今まで知り得ずにいた世界で形を変えて生きていた。そのことに、新鮮な驚きと感動を覚えた。商業ベースのヒットチャートとは無縁のこの世界であれば、自分のやりたいことを、そのまま生かせるかもしれない。そんな思いが、脳裏を巡り、凍り付いていた“時”が、ふたたび流れ出した。

 その生徒のレッスンを初めて見たときのことを今でもよく覚えている。目に輝きのある中学3年生の女の子だった。タルカスを弾く手の動きが、実に俊敏でアグレッシブ。フットペダルや足スイッチの操作などは、ほとんど神業で、見ているこちらもワクワクし、コンクールのための特別レッスンにも力が入った。この年、その子にとっては初めての地区優勝を果たすことになる。
 翌年は、この生徒のためにオリジナル曲を作ることになる。エマーソン風のスピーディーな曲で、アナログ・シンセを使たメインテーマ、リズムボックスをフットスイッチを使って変則的にオン・オフさせた不規則拍子、足鍵盤の超絶技巧ソロなどを取り入れた、異色を放つ否が応でも“目立つ”曲。県予選、そして地区大会では、絶大な効果を発揮し、一人目立ちし、当然のように優勝。
 全国大会では、他に派手な曲が出てきたため、その中に埋もれてしまった感があり、残念ながら入賞を逃してしまった。
 さらに翌々年は、音楽的な充実を図り、プロコフィエフのピアノソナタ第7番の1楽章をエマーソン風にアレンジして再チャレンジ。この曲は、高校生の頃から、エマーソン的な雰囲気を持つ曲として、いつかハモンドで弾いてみたいと思っていた曲だった。そして、ついに全国大会で最優秀賞を受賞することとなった。

 タルカスで地区優勝した年以降、コンクールの度に、複数の参加者からアレンジを依頼されるようになり、長野は、関東信越地区優勝の常連となり、全国優勝者も複数回出るようになった。
 こうして、自分自身はオルガンの講師資格は取得せず、直の生徒も全くいないにも関わらず、コンクールの度に“陰の優勝請負人”として暗躍しているうちに、「長野にアレンジをしてくれる人がいるらしい」という噂が広まって行った。そしてある年、コンクール全国大会会場で、東京の講師からアレンジを依頼される。
 その生徒は、かつて長野県の諏訪地区にいたことがあり、地区大会でたびたび好結果を出しており、顔も名前も知っていたので、シンパシーを抱くことも容易だった。
 ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタを選出し、これまたエマーソン風アレンジを土台にし、それだけにとどまらない要素も加味し、まさに“心血注いで取り組んだ。
 アレンジは、一気には進まなかった。書きあがった分を1~2枚分ずつ、DTMで制作したデモ演奏をカセットに録音したものを添えて郵送。受け取る度に、担当講師からの良い反応が得られた。
 コンクールが近づき、参加者本人の演奏も急ピッチで仕上がり、周辺の期待も高まって来た頃、特別レッスンを請われ、上田市から、信越線に乗り、何度か東京に出向いた。そうこうするうちに、「東京地区の参加曲がスゴイ」という前評判が広まり、そんな下馬評通り、当然のように優勝。

 この“コンクールを裏から支える取り組み”は、ピアノ教師としての経験や学習とは切り離されていて、むしろ、それと並行して進めてきた音楽制作業で、CMやテレビ番組のために、試行錯誤しアイディアを絞り続けたことが生かされていた。
 アレンジという作業自体、自分の得意分野であるという意識は持っていたが、それにしても、ピアノ教師としての表の評価には繋がらない“裏方的活動”に、あそこまで熱を上げられたのは、“結果を出したい”という上昇志向の表れでもあったが、それ以上に、それが、キーボード少年だった頃からの“見果てぬ夢”の実現だったことが大きかった。
 かつて憧れ、さらにその後目指したものの成し得ずにいた“エマーソン・サウンドの独自の進化形”を、実際の音として提示できることに喜びを感じていた。熱血キーボード少年時代があったからこそである。
 それは、社会的成功とは無縁の、陰の功労者としての覆面活動だったが、自分にとっては、確かな意味を持っていた。青春期に答えを導き出せずにいた課題。それに対してのひとつの解答を見出すことが出来た。社会的ステータスより、心の充実に幸せを感じていたのである。

いいなと思ったら応援しよう!