東京オリンピック
その人にとって、最も古い記憶は、三歳頃だと言われている。それを前提として計算すると、昭和の記憶があるのは、三十七歳以上だということになる。
第一回東京オリンピックとなると、さらに高齢化。開催年が昭和三十九年なので、当時三歳児だった人が、現在では六十五歳になっている。
僕は小学校三年生だった。
国道三号線を南下する聖火リレーを沿道から応援するために、学校総出で、小さな国旗を手にして出かけたことを覚えている。新上橋近くから、人込みに紛れて、大人の肩と肩の間から覗き込むようにして旗を振った。
あの頃の日本人にとって、オリンピックを開催することが、大きな希望のシンボルだった。GDPが驚異的に伸び、東海道新幹線が開通。ようやく先進国の仲間入りを果たし、世界に向けて国勢を知らしめす良い機会だと、ほぼ全ての国民が思っていた。旗を振り、ランナーを迎える高揚感は、第二回のときとは比較にならなかった。
そんな熱気を尻目に、聖火ランナーは、あっという間に過ぎ去り、小学校までの遠い帰路をぞろぞろと歩きながら、肩透かしを食らったような気分になったものだ。
後年、長い県外生活を終え、帰郷した際、新上橋鉄橋そばに、記念碑が埋め込まれているのを見付けた時は、しばし見入ってしまった。思い出というものは、時を経て輝きを獲得するものだと、しみじみ思った。
その後、競技が始まり、各クラスに設置されていたモノクロのブラウン管テレビで、主要な競技の中継を見たのを覚えている。
「第〇のコーーーース、ショランダーくーん、アメリカーー。」という間延びした場内放送が、妙に耳に残っている。アメリカ選手の活躍ばかりが目立っていた。
表彰台に繰り返し、アメリカの選手が立ち、その度にアメリカ国歌が流れる。まるでオリンピックのテーマ曲ででもあるかのように耳にこびりついた。
その頃の日本人にとって、アメリカは憧れの国だった。人種差別や犯罪率の高さなどのマイナスイメージは、テレビや新聞など限られたメディア報道からはよく伝わって来ず、『名犬ラッシー』や『ルーシーショー』などのテレビ番組で、アメリカの大きな家、広い庭、豪華な家具の置かれた室内が、豊かさばかりが伝わって来た。
話をオリンピックに戻そう。陸上の男子百メートルで優勝したのがアメリカのボブ・ヘイズ。準決勝で九秒九という当時の世界新を出したときの実況で、アナウンサーが「人類はどこまで速くなるのでしょう!」と絶叫した声が懐かしい。
そのころは、電子時計は発明されておらず、ストップウォッチによる手動計測で、十分の一秒までという大雑把な記録しか残されていない。
日本選手では、体操の小野、遠藤。マラソンの円谷。「東洋の魔女」と言われた女子バレーチーム、重量挙げの三宅などが印象に残っている。
外国選手では、マラソンのアベベ、体操のチャスラフスカ、柔道無差別級で日本の神永を破ったアントン・ヘーシンク、重量挙げのジャボチンスキーなど。ジャボチンスキーに関しては、ひとえに名前のインパクトからであった。
『東京オリンピック』というタイトルの記録映画を、クラス単位でまとまって、映画館まで見に行ったことを覚えている。マラソンのアベベの横顔がアップで写された場面。男子体操日本チームの遠藤選手の吊り輪や床運動が印象に残っているが、他のシーンは、ほとんど何も覚えていない。
現在、体操競技の実況を見ていると、「E難度、G難度」といった表現が聞かれるが、第一回東京大会の頃は「C難度」までしかなく、それを超えると「ウルトラC」と呼ばれた。
東京大会直後、この「ウルトラ」という言葉が流行語になり、「ウルトラQ」「ウルトラマン」などという名称が続々と登場する。
個人的には、聖火リレーを自分の目でじかに見られたこと。国道三号線新上橋付近に記念の石碑が遺されている、小学校の先生に引率され、皆でその付近まで歩いて聖火を見送ったのが最高の思い出。
あれから五十七年。二度目の東京オリンピックをテレビ観戦できる日がやってくるなんて、想像さえしていなかった。
話は東京オリンピックから離れるが、冬季オリンピックについては、忘れられない思い出がある。長野で開催された第18回大会では、フラワーセレモニー用の音楽の作曲を担当した。
屋外競技で行われた花束贈呈式の時、流れていた音楽がそれである。男子スキージャンプで舟木、原田など四人が笑顔で顔をクシャクシャにしていたときに流れていたのであるが、中継録画を見ると、大歓声に紛れて、ところどころ微かに聞こえてくる程度。画面を見てそれに気づく人は、まずいないだろう。
幼少期からピアノのレッスンを続けており、運動能力は極めて平凡。学級対抗リレーの八人の選手にも選ばれることはなかった。
だから、どういう形であれ、自分がオリンピックに関わる未来というものを想像したこともなかった。そう考えると、人生とは面白いものだと思う。
蛇足になるが、第一回東京大会の前年の吉展ちゃん誘拐殺人事件、四年後の三億円強奪事件などが、この混沌とした時代を象徴する出来事として記憶に残っている。
Made in Japan は、まだ「安価な粗悪品」のイメージを払拭できておらず、アニメやハイテクが日本の代名詞になるのは、まだまだ後のこと。
世界は、「戦後の廃墟から劇的な復興を遂げた近代国家」として、「安価な模倣品から高品質な技術大国へ脱皮しつつある国」として認知していた。日本は過渡期にあり、まだまだ「憧れられるような国」ではなかったということだ。
第一回東京大会のときは、自分よりはるか年上の大人たちの活躍を憧れの目で仰ぎ見ていたものだが、第二回の今、表彰台に上がる若者たちの笑顔を、国内外を問わず、慈しむような気持で受け入れている自分がいる。
皆が自分の子供や孫みたいな可愛い存在。「よく頑張ったね!」って、手放しで誉め讃えたい。
両親を亡くしてから十年余り。以後一人暮らしが続いているので、日頃自分の年齢を感じることがないのだが、こういった瞬間に、改めて自分の年齢を感じることになる。
「歳をとる」って、こういうことなんだね。
(※2021年8月、第2回東京オリンピック開催期間中に書いた手記を再編集したものです)
