緑の目覚まし時計
数日前に置時計が止まった。
電池が切れたのだと思い、昨日買ってきて入れ替えた。
しかし、針は動かない。
収納ボックスの中で、電池を左右に動かしてみたり、支えのスプリングをいじってみたりしたが、それでも針は動かない。
底に、シールが貼ってあり、購入先の店名と年月日が書いてある。
昭和五十八年四月六日。小海町駅前通りヤナギサワ時計店にて購入。
十二年近く動いてくれた計算になる。
五十九年春には、上田に転居しているので、小海での使用は、一年間だけだ。
そのわずか一年の間に、長針と短針は反り、秒針は零れ落ちた。
寒さのせいだ。
小海町本村。高度千メートルの高冷地。冬季に降り積もった雪は、春が近づくまで溶けることがなかった。軒先からは、身の丈を越えるつららが垂れ下がり、凍り付いた畑地の上を歩いて通れた。
僕は、その村で、一年半を過ごし、その間、キノコ栽培のアルバイトに従事していた。
音大卒業後、停滞感の中から心機一転、思い切ってあらゆる意味での未体験ゾーンに飛び込んでみたのだ。
求人雑誌で農業のアルバイトを探し、行き先を決めた。鞄一つに、生活必需品だけを詰め込んで、僕は旅立った。
立川から中央線で、山梨と長野の県境にある小淵沢を目指し、小海線に乗り換えた。そこで一時間近く待たされた。
田舎に来たんだな…、と思った。
小淵沢からは上り勾配が続いた。
山の奥へ奥へと電車は蛇行し、ゆっくりと時間をかけて進んだ。
窓の外に広がる景観が、次第に山深く変化して行く。それと共に、それまでの生活から身も心も遠ざかって行くことを実感していた。
― 自分は、一体どんなところに向かっているのだろう… ―
きのこ園の経営者と初めて顔を合わせたとき、履歴書を見るなりこう言われた。
「変わった経歴ですね」
それまで、自分の軌跡を“変わっている”だなんて思ったことはなかった。僕にとっては、そこに来たことこそが“変わったこと”だった。
きのこ栽培に従事するのは、地元のオジサン、オバサンたちと、他所からやってきた数人の若いアルバイト。総勢二十人ほど。冬になると、人数は倍増した。
馴染みのない方言は、テンポが遅く、本人たちは「日本一荒っぽい」などと口にしていたが、僕には、シリアスさを欠いた昔話のように、のんびりとした感じに聞こえた。
しばらくは寮に住んだが、澄んだ空気と恵まれた自然が気に入り、移住を決心。空いていた教員住宅を借りることができた。陽当たりが悪く、湿気が高いため入居希望が少なく、町役場が一般人にも開放していたのだ。
立川のアパートからアップライトピアノを運び込み、仕事を終えてから練習するという生活が始まった。
寒さの厳しい冬を、小さな反射式ストーブ一個だけで乗り切った。部屋は、六畳、三畳、四畳半の和室が三つ。そこに三畳程度のダイニングキッチンと浴室が付いていた。
当然全体は暖まらない。
室内でも上着を着たまま、ストーブの前で過ごした。
晴れた日の昼間でも、戸外で洗濯物を干すわけにはいかない。たちどころに凍り付いてしまうのだ。
台所などは、戸外と変わらない低温のままだったので、お湯を沸かすと、立ちのぼった湯気が冷たい天井に触れた途端に凍り付いた。冬の間、その氷の層は次第に厚くなり、春が近づくと溶け始め、ポタポタと音をたてて落下した。
そういった厳寒ゆえの現象すべてが珍しく、日々の暮らしは驚きに満ちていた。シーズンを通して外に広がる白銀の世界は、まるで夢の中のできことのようだった。
厳寒期を過ぎると、自然は様々な表情を見せた。
家のすぐ裏は、森に繋がっており、真夏でも涼しく、早朝などによく散歩した。霧の中での森林浴は、空気がひんやりとして心地よかった。
秋には、紅葉が山を染める。玄関から数歩歩いただけで、その景観が楽しめた。相木川の流れを見ながら、駅まで歩くのも楽しかった。澄んだ空気の中に美しい野鳥の声が響き渡る。
空気は澄んでいるし、水も美味い。地球の懐に抱かれているような心地よさを感じていた。
別天地のような自然環境の中で、素朴な人々に囲まれて、そのままずーっと暮らして行くのもいいかもしれない…、そうも思った。仕事場では、フォークリフトの腕も買われていたから…。
少ないながらも安定した収入を得て、当時、最新式だったシンセサイザー、ヤマハDX7や録音機材などを買い揃えてもいた。そのまま趣味という形でゆったりと自分の音楽を育てるのも悪くないかな、と思いもした。
一旦は、気持ちが傾いた。ほとんど決心しかけた。
しかし、いざそうしようと思ったときに、心が揺れ始めた。
きのこ園で仕事をしている最中にも、音楽環境や人的環境など、そこに不足しているものが、常に意識にチラつき、離れなくなってしまった。
意味も無くイラつき、周囲との要らぬ摩擦も起こるようになってきた。
やっぱり、無理があったのだ。
そして、町でみかけたピアノ教室の看板を見て、ピアノ教師の職を見つけた。音楽に関係のある仕事なら何でも良かった。
そして、教室幹部との話し合いの結果、翌春に上田へと移住し、再び音楽を中心とした生活に戻り、その後の人生が始まるのである。
ピアノ指導の他に、音楽制作の仕事も始め、上田市下之郷の里山に立つ老松と出会い、そして長野冬季オリンピックに至るまでの流れは、他の作品で書いたとおりだ。
壊れた目覚まし時計は、それ以前から、アラーム機能は作動しなくなっていた。目覚めは良い方なので、それでも困ることはなく、部屋の片隅で静かに時を刻み続けていた。僕にとって最も変化の大きかった時期を共に歩んできた。
時計の色は萌黄色。
今では、色の好みも変わり、その色を選ぶことは、まず考えられない。
人生の春を待ち望む心が、その色を選択したのかもしれない。
(※1995年の手記をリメイクし、作品化したものです。)
