画家・浦野資労さん ~ 絵画と音楽
上山田文化会館の職員の方から、一人の画家を紹介された。坂城町に住む浦野資労さんという人物だった。
会館を拠点に活動する演劇グループのために劇伴音楽をいくつか手がけていたこともあり、「絵画と音楽で何かできないか」と考えていた浦野さんに紹介したい人物として、僕の名前が挙がったらしい。
実際に会ってみると、三歳年上のその人は、長い髪に四角い眼鏡、堂々とした体躯で、いかにも芸術家然とした風貌をしていた。
第一印象は、どこか近寄りがたい感じだった。
しかし言葉を交わすうちに、その印象はほどけていった。よく笑い、東信の言葉を交えながら話す、気さくな人だった。
初対面の日、彼のアトリエへ案内された。
壁いっぱいに並ぶキャンバスの中で、ひときわ目を引いたのが、“フラクタル・シリーズ”と題された作品群だった。百号の大画面。中心に向かって視線が吸い込まれ、同時にそこから外へ、何かが噴き出してくる。色彩は鋭く、しかし濁らず、見ているうちに足場を失うような感覚に陥る。絵の前に立っているはずなのに、むしろこちらが“見られている”ような、不思議な圧があった。
その体験が音になった。
二十分ほどのシンセサイザー曲『コズモロジカル・ブレス』。構想というより、むしろ応答に近かった。あの絵に触れたとき、すでに鳴り始めていた音を、そのままシンセサイザーで再現したような感じだった。
曲は、浦野さんの個展会場で流された。
後日、一通の電話を受けた。「感動しました」と、落ち着いた声で語るその人は、当時県議会議員を務めていた母袋創一さんだった。この出会いが、やがて思いもよらぬ方向へとつながっていく。
母袋さんからの一本の電話で、長野オリンピックの機運を高めるためのコンサートに参加することになった。
県内各地で、作曲中だった組曲『松の木の物語』の中からすでに完成していた楽曲を演奏する。その一つひとつの機会が、次の縁を呼んだ。
その演奏が関係者の耳に留まり、オリンピック会場でのフラワーセレモニー用BGMの作曲依頼へと至る。
絵に出会い、音が生まれ、誰かの耳に届き、次の場へと運ばれていく。自らの意志というより、むしろ何かに導かれていたという感じだ。
浦野さんが当初思い描いていたのは、もっと大掛かりなものだった。大ホールという空間全体を使い、絵画と音楽が呼応し合う“共振コンサート”。一夜にして一つの世界を立ち上げる試みである。僕自身もその構想に惹かれた。しかし結局、その形を実現するところまでは至らなかった。
それでも、個展という空間の中で、絵と音が出会い、人の心に届いた。その結果として、思いがけない展開へとつながっていった。
もし音だけであったなら、あるいは絵だけであったなら、同じことが起きただろうか…。
そう考えると、あの場には確かに、何かが“響き合って”いた。
こうしたことを思い返すたび、もう一人の人物のことが浮かんでくる。
高校時代の同級生であり、最も親しかった友人。ペンネームを“殺芸”といった。
彼もまた、自分の作品と私の音楽とを重ねようとしていた。写真の個展で音楽を流したいと考え、知人のNHK職員に頼み込み、録音スタジオを借りて、ピアノの即興演奏を録音したこともあった。結局、その音が個展で流されることはなかったが、文化祭に並んだ彼の作品の中には、僕がピアノを弾く姿を捉えた写真がいくつかあった。
彼は二十四歳で亡くなった。
その後、浦野さんと出会い、ふと気づかされたことがある。
二人には、いくつもの共通点があった。靴屋の長男であること。長髪に眼鏡という風貌。具象よりも抽象を志向する表現。「構成」という言葉へのこだわり。そして、私の音楽に耳を傾けてくれたこと。
これほど重なることがあるのだろうか、と不思議に思う。
ただの偶然かもしれない。だが、あのとき浦野さんの個展で音が流れ、そこから新しい道が開けていったことを思うと、どこかで彼の気配が重なっているようにも感じられる。
果たせなかった試みが、別のかたちで現れることがあるのだとすれば…。
今でもふと、そんなことを考えることがある。
ついでに触れておくと、殺芸の本名は「濱村隆」。組曲『松の木の物語』のモチーフとなった老松保存会の事務局長・村山さんのフルネームは「村山隆」。二文字が共通しているだけでなく、両者とも、生の字の上に「一」が入る旧字体である。
