干すという、ささやかな革命
創作大賞2025 エッセイ部門
中間選考に残らせていただいた記事です😱
つい洗濯物を探してしまう。
日々の暮らしの中で、旅先で──。
知らない誰かの家の軒先。色とりどりの洗濯物。
〝誰かの人生〟が、無造作に吊られてる。
悪趣味なのだけれど、ついカメラを構えてしまう。
誰かがそこでごはんを食べ、服を洗い、明日もまた着る。
すぐそばにあるのに、どこか遠くて、でも懐かしいような。
誰かの営みのリズム。


話は少し逸れるけれど、夫の駐在で北京に住みはじめ、気づけばもう13年。この街でごはんをつくり、もちろん洗濯物を干している。
ごくたまに「まだ北京にいるの?」と聞いてくる人がいる。
まるで長くいることが不思議だというように。
まるで、もう十分だろう、というような響きで。

もしこれが、ミラノだったら?パリだったら?ロンドンだったら?
ここではないどこかだったら、
「かっこいいね」「国際人だね」「羨ましい」
──なんて言われたのかもしれない。


でも北京。
“おしゃれ”とはちょっと縁遠いかもしれないけど、
私の13年が詰まった場所。
最初は正直、イヤイヤついて来た。でも、気がつけば季節が巡って──なんだかんだで、ここでちゃんと愛を持って暮らしてきた。撮った写真を見返すと、どれもカラフルで、味があるなあと思う。
ここでたくさんの人の営みに触れてきたし、出会う人はだいたい、なんだかかわいらしい。そして今日も、この空の下で洗濯物を干している。(私は街の中心のタワマン暮らしなので、ローカルに外干しはできないけれど)

それがイケてる国であれ、どこであれ、
人々の日々のタスクは、さほど変わらない。
そこにあるのは東京タワーかもしれないし、
エッフェル塔かもしれないし、天安門かもしれない。
でも、洗濯物は、だいたい同じように干されてる。
何者かが生息しているということを、静かに証明しながら。

時にはブラジャー。
いろんなサイズの靴。
そして──魚や肉。豚丸ごと。
干し方や、内容に〝お国柄〟が出ることはあるけれど、干されてるモノはだいたい同じ。さほど〝ナショナリティー〟は感じない。
私が惹かれるのは、きっとその無言の普遍性だと思う。
静かな革命のように、「俺はここにいますけど、何か?」と、
ドヤ顔で干されている。

次、世界のどこかで洗濯物を見つけたら──
たぶんまた、シャッターを切ってしまう。
悪趣味だけど、やめられない。
名も知らぬ誰かの、
──干すという、ささやかな革命に、
どうしても目をやってしまうのだ。






