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読書日記『冒険の書 AI時代のアンラーニング』 ~「能力主義」の終焉と「遊び」が創る新たな学びの風景~

『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(著者:孫泰蔵、出版社:日経BP、出版年:2023年)を読んでの教育行政・学校経営の視点からの読書日記です。

人工知能が圧倒的なスピードで進化し、自己学習を繰り返して性能をアップデートしていく現代において、私たちがこれまで当たり前としてきた学校教育の存在意義が根底から問われている。本書は、これまでの教育が前提としてきた「生き残るために能力を身につける」というパラダイムがすでに限界を迎えていることを指摘し、教育にまつわる古い常識を一度解体する「学びほぐし(アンラーニング)」の必要性を強く訴えかける一冊である。教育行政や学校運営に携わる立場として、本書が提示する数々の問いは非常に耳が痛く、しかし同時に目を背けてはならない本質的な課題を突きつけている。

現在の学校教育は、産業社会において効率よく人間を生産し、テストの点数や能力によって人間をランク付けする「メリトクラシー(能力主義)」を前提として構築されてきた。子供たちは「能力を身につけなければ生き残れない」という脅迫観念のもとで、競争を強いられている。しかし、AIという「能力学習の究極の存在」であり「メリトクラシーの最終兵器」が登場したことで、人間が機械のように自身のスペックを磨き、能力で勝負する時代は終わりを迎える。本書は「能力」とは後から作られたフィクションであり、後知恵バイアスが生み出した幻想に過ぎないと看破する。学校経営の視点からは、これまで自明のものとしてきた成績や偏差値による「評価」のシステムを見直す必要がある。メリトクラシーは、本来は偶然の環境要因で決まるものを「本人の努力不足」という自己責任論にすり替え、勝者も敗者も不幸にしている。優劣をジャッジするのではなく、子供たちの試行錯誤や探求するプロセスそのものを誠実に称賛する「アプリシエーション」へと文化を転換することが求められている。

さらに本書は、教育現場に深く根付いている「基礎から順番に学ぶべきだ」という「基礎神話」に対しても痛烈な批判を加えている。どんなに複雑なものでも要素に分解して理解させようとする「還元主義」に基づき、学校は基礎の反復訓練を重視してきた。しかし、人類の知恵の発達は基礎から応用への一本道ではなく、多様な問いと結論が複雑に絡み合った「巨大な網の目」のようなものである。どこから学び始めてもよく、学ぶルートは無限にあるにもかかわらず、初心者に退屈な基礎を強要することは、学習へのモチベーションを削ぎ、自由な発想の芽を摘む結果を招いている。基礎練習は、自由に遊ぶ中で「もっと極めたい」という自発的かつ高いモチベーションを抱いた中上級者になって初めて意味を持つという指摘は、現在のカリキュラムのあり方、ひいては授業における指導の順序を根本から見直す視点を提供している。

加えて、早期教育への過度なプレッシャーを退け、「スローな学び」を提唱している点も考えさせられる。早くから始めなければ手遅れになるという世間の焦りから、子供を不本意な学習に駆り立てるのではなく、本当に興味が湧くまではあえてやらないという選択肢を肯定する。人生100年時代において、学ぶ時期を特定の年代に限定する必要はなく、生涯をかけてじっくりと学びの歓びを探求する姿勢こそが重要である。同時に、大人がよかれと思って用意した「ルール」や「正解」が、実は子供たちの思考を停止させ、成長に不可欠な「失敗する機会」を奪っているという指摘も重い。ルールに盲目的に従わせる教育から脱却し、「失敗する権利」を回復させ、禅の修行のように、あえて試行錯誤や失敗ができる余白をいかにして学校の中にデザインするかが問われている。

著者が理想とする新しい学びの姿は、「遊び」と「学び」と「働き」がシームレスに融合した状態である。誰かから強制されるのではなく、自らの好奇心に従って時間を忘れて没頭する「フロー体験」のなかにこそ、結果としての最高レベルの成長がある。しかし、現在、親や社会は「教育産業の消費者」となり、不安に駆られて子供に高価な体験や早期教育を詰め込もうとしている。学校をアプリシエーションの場へと変えていくためには、学校内だけでなく、保護者や社会全体が「教育は企業から消費するもの」という思考停止から抜け出すアンラーニングが不可欠である。

これからの学びの場は、同年代の子供たちだけを教室という閉鎖空間に集めるのではなく、社会の場へ飛び出し、大人と子供が「同じ初心者」として共に不思議さや面白さを探求する環境が望ましい。教師は一方的に知識を教え込む管理者ではなく、共に網の目を自在に飛び回り、探求のプロセスを支え、アプリシエーションを行う存在へと役割を変えていく必要がある。

AI時代において、効率よく能力を獲得するための苦役としての教育は意味を持たない。我々は、子供たちを既存の能力主義の枠組みに押し込めるのではなく、彼ら自身の純粋な探求心に基づく「能動的な遊び」をいかに制度として保障できるかを問われている。大げさな学校改革をぶち上げるのではなく、まずは自分自身の根深い教育観を学びほぐし、目の前の子供たちのフロー体験や試行錯誤を支える柔軟な環境づくりを、日々の実践の中で静かに、そして確実に行っていく必要がある。

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